第18話
ユキが一鶴楼に足を踏み入れてから月日は流れ、冬を迎えた。
栗山の地では降り積もる雪も、ここ一河では舞う程度で積もることは無い。
白く色を染めてもすぐに溶けてしまう。
二月の頭に産まれたユキだったが、縁起が良いからと正月に水揚げを行う事になった。水仕事で荒れた手を直すために、少し前からお高の手伝いはしなくなり、代わりに床の準備を教え込まれる。
まだ新参者のユキに個室をあてがわれることはなく、客を取る時は共同部屋を使うことになる。客を取った後の布団の始末や酒の準備は裏方の仕事だが、自分専用の道具箱と香箱は自分で管理をする。それらの物や見世に出る時の着物に簪、それらはすべて新たに借金としてその肩にのしかかる。そうして年季明けが遠のいて行くのだった。
「ユキ。おめえの水揚げが決まった。年始の忙しい時だが、長間さんが引き受けてくださるそうだ。くれぐれも粗相のないようにな」
ユキが花見に呼ばれ座敷に赴くと、初客の話を聞かされた。
ここ一鶴楼では、初見世である新人遊女の水揚げを、常連で身元のしっかりとした、懐具合の良い人間に白羽の矢を当て声をかける。
格下の店になれば正真正銘いきなり客を取らされる場合もあるし、店の人間が相手をし、慣らすこともある。だが、一鶴楼ほどの格上の店では、店の人間が手をつけることは無いし、いきなり客を取らすようなこともない。
初客に選ばれることは通いなれた者の憧れであり、権力や財力、そして人格までも認められたに相応しいものであるために、わざわざ順番を待つ者もいるほどだ。相手をした遊女の名が売れるまでつぎ込む者もいるし、身請けされたり年季が明けるまで贔屓にする者もいた。
選ばれた客は相手の女郎に着物や簪を贈る。そして店側からは志と祝い酒を振る舞う。格の高い店での誉れ高い名誉を与え、良い塩梅で互いに手を打つ。
「お父さん、お母さん、これまで面倒を見て下さり、ありがとうございます。
この御恩を返せるよう、一生懸命頑張ります。これからも、どうぞよろしくお願いします」
ユキは花見達の前に両手を付き、頭を下げた。先輩遊女から教えてもらった口上を口にし、少しばかりの成長を二人に見せた。
「大分大人の顔をするようになったね。これなら先様にも喜んでもらえるってもんだ。ねえ、あんた」
「そうだな。長間様は床の方でも悪い噂は聞かねえからな。大事にしてくれるだろうよ」
ユキは二人の会話をうつむき聞いていた。余計な口を利かないのもまた、大人の遊女の嗜みだと教えられたから。
「夜伽の説明は受けたのかい?」
「はい。豊川姉さんに教えてもらっています」
「……そうかい、豊川から」
桔梗の声色に悲壮感は感じなかった。豊川が亡くなりいくらも経っていないのに、周りの人間はすでに記憶から消し去っているようだった。最後まで面倒を見て、死に水を取ったユキにとっては消すことの出来ない記憶だ。
病気で苦しい中、ユキに自分の持てる全てを教え授けてくれた人。遊女として生きる知恵を授けてくれた人。彼女の教えがあったからこそ、心を乱すことなく受け入れることができると思っていた。
「おめえの名だがな、ユキ。おめえの里は山岡だったか?」
「いえ、その奥の栗山と呼ばれているところです」
花見の問いに答えるユキだったが、周りは栗山など聞いたことがない。そんな名も無いところに興味はないのだろう、その名が呼ばれることは二度となかった。
「おめえの源氏名だが、普通は自分の出身地の名を一文字入れたりすることもある。だが、おめえの里はダメだ。使えねえ。希望を聞いてやる時もあるが、何か良い名はあるか?」
花見に問われたユキは、何も考えずに思わず口にする。
「蛍」
「蛍?」花見の確認するような問いに、隣の桔梗が口を挟んだ。
「蛍なんて短命な生き物、縁起が悪すぎる。使えんね」
ユキは何とは無しに口から出ただけだ。遊女としての源氏名に相応しいとか、相応しくないとか、そんな事考えもしていなかったのだから。
「山岡の名ならまだ何とかなるかしらねえ? あそこから来る出稼ぎ者は多いから」
「そうだなあ。冬産まれにちなんだ名にするか? 冬の花、椿とか」
「椿は縁起が悪いと毛嫌いする者もいるからねえ。なら、春を待つ梅とかはどうだい?」
「ああ、松に梅か。ちょうどいいな、決まった! ユキ、今日からおめえの名は梅岡だ。いいな?」
花見達がなにやら話し合い、決まった源氏名は「梅岡」だった。
和歌の「若松」に、同日に入店したもう一人の娘ユキは「梅岡」。
松竹梅になぞられた名付けからも、二人の格の違いを垣間見ることができる。
だが、ユキ自身はその事に気付いてはいなかった。
「梅岡。山岡の岡から来る名ですね? わかりました。良い名をありがとうございます」
ユキは再び二人に向かい頭を下げた。それを見て花見達は満足そうに笑みを浮かべるのだった。
それからのユキは水揚げの準備で慌ただしい日々を過ごすことになる。
急なことだったため贈答品の着物は一から染め上げた物ではなく、既成品の中から長間が選び急ぎ仕立てられた。呉服屋を呼びユキの採寸をし、同時に見世用の着物も何枚か仕立てる。これらは全てユキ本人の借金に上乗せされる。
そして、道具箱を与えられると、その中に自分専用の香箱と私物を入れ、自分で管理をし部屋に持ち込む。
線香の本数で時間を測るとともに、前の客の残り香を消す役目もあった。
香には色々あり、香りの良い物もあれば、燃える時間が少しばかり短い物も存在する。売れっ子になってくると、客の数を増やすためにそういった物を使い、客を捌くのに使用する。値も張るが、それらも遊女の借金を増やすことにつながる。先輩遊女やお高から使い方を教わり、合わせて化粧の仕方も習う。
遊女特有の白粉を塗り紅を差せば、普段のユキとは別人に変わる。
そしてもう一つ。遊女としての嗜みや常識、少しばかりの学問を身に着ける時間も与えられた。今までまともに学問など向き合ったことのないユキにとって、初めての学びの場は心を躍らせるものだった。読み書きに簡単な算盤。一鶴楼に行商に来る商人達に騙されぬだけの知識は必須であり、年季が明けたあとのその後にも役に立つ。
「ユキ。どうだ、順調か?」
「佐平さん。うん、色々と覚えることも多いし、大変だけど何とか大丈夫。今は読み書きを習ってるから、もう少ししたら自分で瓦版を読んでみたい」
「ああ、たまに面白いやつもあるからな。今度出たついでに、あれば貰ってきてやるよ」
「いいの? ありがとう」
「もうすぐだろう。大丈夫か?」
「うん。いつかは客を取らなきゃだし、豊川姉さんに教えてもらったから大丈夫。相手の人も良い人らしいから、緊張はするけど不安はないの」
「そうか。おめえは肝が据わってるな。ここだけの話し、朝霧姉さんは相当駄々を捏ねて暴れたらしい。それに、泣いて顔を腫らして客がつかんかったらしい」
「ええ? あの朝霧姉さんが?」
「ああ。それに比べりゃおめえは良い子過ぎる。もう少し我儘を言ってもいいんだぞ。今だけは少しくらい耳を貸してもらえるはずだ」
「うちは大丈夫。愚痴は佐平さんが聞いてくれるし、変なお客は嫌だけど死ぬわけじゃないから。本当に大丈夫なんよ」
ユキの言葉に佐平は思わず言葉を飲む。ああ、そうだ。お前はそうだったなと、自分に確認するようにうなずいた。
「どんな事でもいい、何かあったら何時でも俺に言え。今はもう店でお前を守ってやれる。忘れるなよ」
そう言ってユキの頭を優しく撫でると、背を向け仕事に戻って行った。
その後ろ姿を見ながらユキは小さくため息を吐く。
大丈夫な訳がない。本当は不安で押し潰されそうになっているのに、それを言うわけにはいかないとわかっているから、だから必死に耐えているだけだ。
客に身体を差し出すことに異論はない。仕方がないことだと諦めもついている。だけど、やはり少しだけ考えてしまう。もし遊女にならず、普通に奉公に出されていれば全く違う人生が待っていたのだろうかと。
里に置いてきた末吉でなくとも、誰か他の人と縁を結び所帯を持ち、子を産み育て、普通に年老いて行く人生を。
遊女としての仕事が過酷なことは、手伝いをしながら十分理解できた。
いつまでも減らない年季の数、客とのいざこざ、先輩遊女達とのもめごと。
そして、身を削り病に侵され死んでいく未来が見えてしまうことに、不安がない訳がない。
それでも彼女は笑顔を作り、明るい田舎娘を演じるのだった。
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