第17話

 

 お使いを済ませ店に戻ると、豊川に薬を渡しに部屋に行った。そこには桔梗とお高が顔を揃えて豊川と向かい合っていた。


「ああ、ユキかい。お使いすまなかったね。だが、もう必要ない。

豊川にはきちんとした医者に診てもらうからね。それは捨てておくれ」


 桔梗の言葉に内緒のお使いがバレてしまったと、ユキは慌てたように「すみません」と頭を下げた。


「あんたが謝ることじゃないよ」

 お高がそう言って、ユキの手から薬の包みを取り上げた。


「ユキ、すまなかったね。ありがとう。ありがとう」


 豊川は、はらはらと涙をこぼし泣いていた。

 お高に追い出されるように背を押され部屋を後にする。その時微かに桔梗の声が聞こえた「こんなになるまで我慢をするんじゃない」「もっと早く言ってくれれば」「親としてすまなかった」目の前で閉ざされた襖越しに鼻をすする音が聞こえる。二人は泣いているのだろう。


「明日から、もう一つ仕事が増えるよ。豊川の面倒をみてやっておくれ」


 その言葉にユキはお高の顔を見る。真っすぐ見据えたまま歩き続けるお高の顔は、いつも通り平静だ。だが、いつもより早歩きなそれは、彼女もまた動揺しているからなのだろう。




 その晩から、豊川は見世に出なくなった。 

 あの後すぐに医者が呼ばれると、そのまま奥の小部屋に押し込まれるように下げられた。その部屋は病気になった遊女を隔離する部屋だという。

 他の遊女に不安を与えぬよう、男衆でこっそりと運び出す。


 遊女は不特定多数の人間の相手をする。その中から病気を移されることも多い。流行り病ならまだしも、性病をうつされればその間客を取ることはできない。そうして隔離しながら養生させ、復帰を待つ。

 陽の光にあたることも少なく、疲弊した体は時に大病を患うこともある。

 不治の病として恐れられた結核もまた然り。


 豊川は風邪だと言っていたが、微熱がずっと続き痛みに堪えたまま客を取っていたらしい。医者は臓の腑に腫物があると診たてた。手立てはないと言う。

 痛み止めをもらいつつ、高価な人参を飲めばあるいはと言うが、名も売れていない遊女に手が出せる物では決してない。

 臓の腑の腫物ができれば後は痛みに耐え、死を待つのみ。自分の命の強さを信じるほかはなかった。


 お高に言われた通り、次の日からユキの仕事に豊川の世話が加わった。

 ここ一鶴楼の遊女小屋では古参の部類に入る豊川。

 決して器量が良いわけでは無いが、底抜けに明るく姉御肌の性分は、力仕事をする男達に好まれた。だが、そんな男たちが大金を持つはずもなく、客足はそれほど多くなかった。泊まりの客がつくこともなく、一晩に何人もの男を相手にし、それでも年季が明けるにはまだ月日があった。


「ユキ、すまないね。いつもありがとう」


 最初の頃は寝床から起き、たまに雑談をしながら笑い合ったりもした。

 お互いの身の上話しや、先輩女郎の内緒話も聞いた。

 実際は何も知らないユキに、手取り足取り知識を与えてくれた。

 遊女としての心積もりや、嫌な客のあしらい方なども教えてもらった。

 

「本当はもっと実力のある者に教えてもらった方が為になるんだけどね。

 私が知っていることなんて、大したことじゃないから」


「いいかい。身体は売っても心までは売っちゃいけないよ。心は自分のものだ。この家で唯一残された自分のものは、心だけなんだ。忘れちゃいけないよ」


「ここで頼れる者は自分だけだ。信用も信頼も、ここでは何の役にも立たない。だからいつも強くあるんだ。強い心根を持ってりゃ、きっと生きていける」


「死んだらダメだ。何があっても死んだらそこで終る。

 体は汚れても、心は汚されてない。子供の頃のままだから。

 ユキ、生きるんだ。何があっても生きるんだよ。」


 奥の小部屋に移されてからというもの、あっと言う間に豊川は衰弱していった。ユキの前ではわざと強がり、痛みに耐えていた。

 食も細くなり、妖艶な体は見る見るやせ細っていく。

 時折様子を見に行くと苦しそうなうめき声が漏れ、辛いのだとわかる。

 そうこうしていると、痛みも感じなくなったのだろうか。微睡むような時間が増え、意識がはっきりしている時間が少なくなっていく。

 お高は、もう長くないと言う。


 せめて最後は独りではなく、見届けたいと願ったがそれは許されなかった。

 遊女は独りで死に、独りで葬られるのだと。


 固形物も受け付けなくなり、湿らせた手ぬぐいで口元を湿らせる。

 少しだけ溢れた水を飲んでいるのだろうか、喉仏が微かに動いた。

 微かにぴくりと動く瞼に気付き、「豊川姉さん」と声をかけてみれば「ユキ」と返事があった。

 かさつき温もりのなくなりかけた手を握り、「ここにいます」と声をかければ、安心したように口が弧を描いた。


「ユキ。私の分まで生きて」


 豊川の最後の言葉だった。その言葉を最後に、彼女の意識は混濁し目を開けることはなくなった。

 人の死とは時に簡単なことではない。どんなに衰弱しても、眠るように生き続けることもある。彼女の「生きたい」と願う力が、強さが、死を遠ざけたのかもしれない。


 それから二日後のことだった。

 

 豊川の訃報がユキの耳に入る。

最後の言葉を聞いた日から、ユキは豊川の部屋に行くことを禁じられた。

 年若い彼女の心に気を遣ってのことだったのかもしれない。


「死に水を取っておやり」


 そう桔梗に言われ、ユキは奥の小部屋に足を運んだ。

 中にはお高と数人の男衆、その中には佐平の姿もあった。


「ご苦労だったね。最後は苦しまずに逝ったよ」


 お高の言葉に、ユキは表情を変えぬまま無言で豊川のそばに座った。

 ユキが遠のいた後、彼女の面倒は誰も診ていなかったのだろう。

 下の世話すらもされず、部屋の中は汚物の匂いで充満している。

 そっと頬に手をあてれば、すでに固く氷のように冷えている。

 恐らく最後の言葉をもらったあの後、しばらくして亡くなったのだと思う。

それを放置したまま、確認に来たらこの状態だったのだろう。

 それでも、最後の最後に会わせてもらえたことは有難いと思った。


 枕元にある筆と水のはった茶碗を持ち、豊川の唇を筆で濡らしていく。

 あの時のように飲み込むことは出来ずに、口元から水が垂れ流れていく。

 ユキは声をかけることも忘れたように、何度も何度も、その唇に筆を運んだ。

 生き返ることを願い。また「ユキ」と、その唇が動きだすように。


 だが、いつの間にかお高によって筆と茶碗を取り上げられ、「ありがとう」と肩を掴まれ豊川から引きはがされると、部屋から押し出されそうになる。


「待って!!」


 豊川に手を伸ばし叫ぶユキを、佐平が抱きしめるように部屋の外に無理矢理連れ出した。


「もう戻れ。ここから先は、おめえは見ねえほうがいい。

 向こうで手を合わしてやってくれ」


 耳元でつぶやくと、目の前でバタンと襖を閉められた。


 遊女の最後は豊川から聞いていた。

 最後は無縁仏としてゴミのように葬られるのだと。


 女衒を頼りに、流れ流れて連れて来られた遊女の家を知る者はいない。

 伝手を辿ったとして、例えばユキの場合。ここ一鶴楼に連れて来たのは小太郎だ。だが、それも行商人の信から預かっただけのこと。

 栗山と言う地名は聞いていても、存在すらも危ういその地がどこにあるかも皆は知らないのだ。

 家族のために働きながら、その死を知らせる手段すらない。

 豊川の家族はこのまま彼女の死を知らぬままに、その存在すらも忘れて行くのだ。遊女は独りで死ぬとは、そう言うことなのだろう。


 ユキはゆっくりと歩き出し、仕事に戻った。

 お高が豊川のそばにいる以上、代わりに仕事をするのがユキの役目だから。

 夕方近いこの時間、早夕食を取る遊女たちの晩飯の支度をしなければならない。急ぎ勝手場に行き、手伝いを始めるのだった。





 次の日の朝方。夜も白み始める前に、裏口から一台の大八車が出て行った。

 それを引くのは、男衆になっての初仕事である佐平。その両脇を二人の先輩男衆が並んで歩く。

 荷台には簀巻きにされた布団が積まれていた。

 客も消えた花街の裏通りを、ガラガラと音を立てて大八車は進むのだった。




 川に流され 海に着き 母なる海にいだかれ 泡となる



 生まれ変わった暁には、せめて普通の人生を送れるようにと願いながら。

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