第15話


 和歌が目を覚ました時は、すでに日が昇り始めていた時分だった。

 布団の中で目を覚まし、見慣れぬ天井にここはどこだ?と頭を回転させる。

 はっ!と気が付き、飛び起きるように布団を這い出て見渡すと、隣に並べられた布団は昨日の晩のまま、一筋の乱れもなかった。

 まさか?と思い障子を開けて隣の部屋に行くと、そこに辰巳の姿はなく、昨日の座卓の上は綺麗に片付けられていた。

 そんな和歌の物音を確認したように、「おはようございます。お目覚めでいらっしゃいますか」と、部屋の外から仲居の声がかかった。

「は、はい」と慌てて返事をすると、するりと障子が開けられ、昨日と同じ仲居が「朝食の支度ができております。どうぞ、ご案内いたします」と、和歌を案内するのだった。


 連れられて来た部屋は、和歌が泊まった部屋を背合わせにした部屋で、そこには福久春と駒菊の姿があった。

 彼女たちはすでに身支度を整え、昨日の着物を着ていた。さすがに髪は結い上げてはいないが、それでもまとめた髪は整えられている。


「おはようございます」


 和歌が二人に挨拶をすると、「おはよう」と返事が返る。

 だが、ここに辰巳の姿は無い。すでに起きて朝食の席についているのだろうと思ったのに、キョロキョロと辺りを見渡していると仲居がお膳を運びこんでくる。先ほどの仲居を見つけると、和歌は声をかけた。


「辰巳様はどこに?」

「辰巳様でしたら、昨晩のうちにお帰りになられました」


 仲居の言葉に「え?」と驚きを隠せない和歌に、「まさか、昨晩粗相があったわけではないのよね?」と、福久春の問いが降って来た。

 和歌は覚悟を決めたように、昨日のことを正直に話して聞かせた。

 結局、何もないままに眠りにつき、朝になったらその姿が無かったと。


「そう。まあ、粗相があって気分を害されたのでなければそれで良いわ。

 お父さんたちの報告には、私も立ち会って一緒に説明するから」

「ありがとうございます。お願いします」


 和歌は、福久春の言葉に少しだけほっと肩を撫でおろした。


「それにしても、旦那になったのに手を出さないなんて。本当に粗相はしてないのよね?」

「はい。たぶん大丈夫だと思うのですが」


 駒菊はさも不思議そうな面持ちで聞いてくる。やはり、あの状態で手を出さないなど、あり得ない話しなのだと改めて思った。


「後はお父さんたちが判断するわ。私たちは早くいただいて、帰りましょう」

 

 三人は出された目の前のお膳を、軽い世間話などをしながら食べ始める。

 さすがに仲居のいるこの場では、噂話が好きそうな駒菊とは言え、和歌に根掘り葉掘り聞いてくることは出来ないようだった。


 三人は急いで平らげると、丁寧に礼を告げ吟山を後にした。





それから月日は流れていく。



 あの初顔合わせの日以降、和歌は辰巳に呼ばれても床を用意されることは一度もなかった。

 接待なのだろう席に呼ばれることはあっても、芸者としての本分を果たすだけで、私的な事もなく二人きりになることもない。

 辰巳がいなくとも姉芸者と共にお座敷に呼ばれることも増えたが、そこには旦那としての辰巳の影が常にちらつき、裏で手を回し和歌に仕事を与えているのが垣間見える。

 お座敷用の着物や簪も定期的に送られてくるが、それらはどれも和歌には見覚えのある物に近いものだった。

 品々は上等品で文句の付けようもない品。

ひとつだけ言わせてもらうなら、若松と言う若い新人芸者には到底似合わぬような、円熟した者にこそ似合うような品であったことくらいだろうか。

 




 和歌がそんな風に過ごしている間、ユキもまた日々の暮らしに追われていた。

性根のまっすぐで擦れていないその性格は、周りの遊女達からも可愛がられるものだった。

駒ネズミのようによく動き回り、キツイ仕事も弱音一つ吐かず働くその姿は、皆に一目置かれるようになる。

客からもらった菓子をこっそりもらったり、着た切りすずめ状態で店に入ったユキに着古した着物をくれてやったりと、何かにつけ目をかけてくれた。

それでも虫の居所の悪い時もある。気に入らぬ客の後の八つ当たりなどは仕方がないと、ユキも覚悟をもって受け入れていた。物を投げられたり足で蹴られたりはかわいいもので、煙管のふちを押し当てられ火傷を負わされた時には、さすがに花見が先輩女郎をきつく叱ってくれた。普段は見えぬ部分でも、客を取るようになればさらさぬわけにはいかない場所だ。

 そんな商売道具に跡を残すような傷をつけるなどあり得ないと、それはそれはキツイお仕置きを与えられ、ユキ本人が恐縮するほどだった。



「ユキ。悪いけど、また薬を頼まれてくれないか?」


 古参の遊女である豊川が、洗濯をするユキの背中からそっと声をかける。


「豊川姉さん、大丈夫ですか? やっぱり一度お医者に診てもらった方が?」

「ああ、大丈夫だよ。少し風邪気味なだけさ。だから、ね? 頼んだよ」


 そう言って金をユキの手に握らせると、そそくさとその場を後にした。

 ユキは急いで洗濯を終わらせると、裏の通用口に向かう。

 するとそこには、佐平が酒樽を転がしながら運び入れているところだった。


「どうしたユキ?」

「あ、うん」


 上手い言い訳が見つからず、ユキはキョロキョロと視線を動かし立ち尽くす。


「姉さんの頼まれごとか?」

 ユキは、佐平の問いにうつむいたまま無言でこくりと頷いた。


 豊川から頼まれた薬は正規の物ではない。遊女とて人の子だ、怪我もすれば病気にもなる。だが、医者にかかるには大金がかかる上に、それらは身体を売って稼いだ積み金から差し引かれることになる。

 太客、上客が付くような人気遊女ならまだしも、古参で遊女としては年増のとうの立った遊女には到底払えぬ金額だ。だから金の無い者は皆、裏で売っている闇の薬を口にする。誰が何を使いどうやって作っているかもわからない、そんな怪しい物を口にするのだ。その分値は安い。だがその後、どうなるかもわからない恐ろしい物だ。それでも背に腹は代えられぬと、怪しい物に手を出してでも症状を抑え客を取る。そうでもしなければ、格下の店に転売されるのだから。


「薬を……」

「豊川姉さんか?」


 こくりと頷くユキの胸が申し訳なさでいっぱいになる。これは内緒ごとなのだ。病気を誰にも気づかれぬよう、内緒だからユキに頼んだのに。


「わかった、俺も一緒に行く。あんな危ない所、おめえ一人で行かせるわけにいかねえだろ。番頭さんには俺から話すから、おめえはここで待ってろ」

 そう言うと、小走りで店の裏に消えて行った。


 怪しい品は、怪しい場所にあるものだ。ましてやここは花街、どんな人間がいるかもわからない。小娘が一人で歩き回れば何をされるか……。

 大事な商売物をさらわれぬよう、傷つけられぬようにとそれぞれの店で結託をし、用心棒代わりの男衆を置いている。他の店の商品でも、お互い様だと目を光らせてはくれている。だから、日中人目のつく所なら安心して歩くこともできるが、裏街道の怪しい店まで手が回らないのが実状だった。

 豊川の頼みで何度か買いに走ったユキだが、正直怖い思いをすることもあった。だから佐平の提案は正直ありがたかった。


「お待たせ。番頭さんに言ってきた。ついでに使いを頼まれた。だから気兼ねは要らない、お前は荷物持ちだ。のんびり行こう」


 ユキと佐平は並び、裏口の門をくぐるのだった。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る