第14話
着替えが終わり再び女将に伴われ、辰巳の元へと連れ戻される。
先ほどの賑やかしく並べられたお膳は消え去り、代わりに二人で使うには少し大きめの座卓が部屋の真ん中に置かれ、辰巳はそれに向かい相変わらず煙管を咥えていた。
もうひとつ違うところは、お座敷の奥の襖が少しだけ開けられており、そこには布団が二組並べられていることだった。
『あそこで……』そう思うと、和歌は再び沈みそうになる心を何とか持ち上げると、気力を振り絞り作り笑顔を浮かべるのだった。
「お待たせして申し訳ありません」
「いえ、待つのも男の楽しみなのですよ。覚えておくといい」
辰巳は優しい口調で話し、自分の目の前を指さし和歌に座るよう促す。
そこには先ほど頼んでいた、甘味とお茶が並べられていた。
目の前の甘味を見て和歌は息をのんだ。そこにはかつて戸倉の家で、母 珠子が好きでよく出されていた上用饅頭があったのだ。
それは山岡の町にあった老舗の和菓子屋「亀喜知」のもので、饅頭の上にほんの少しの金箔が張られているのが特徴だ。珠子は特に食紅を使った、薄紅色の饅頭を好んで食していた。
それが今、目の前にある。白と赤の紅白の上用饅頭だ。祝い事にも使われるそれは、今日のこの日を祝ってのことなのだろうか。それにしても、なぜこの饅頭を辰巳が知っているのか?
「なぜ、これを?」
和歌の問いに薄笑いを浮かべ、
「まあ、お食べなさい。さっきは殆ど食べていなかったでしょう。これで少しは腹が満たされるはずですよ」そう言って自らも饅頭を口にした。
それを見て和歌も溜まらず赤い饅頭を手に取り、口に運んだ。
口に広がる餡の甘さと、小豆の香りが鼻を抜ける。
父が事業に失敗し少しずつ身代が傾き始めてからは、このような甘味などは贅沢品になりほとんど口にすることは無くなっていた。
久しぶりに食べた饅頭の味はたまらないほどに美味しく、幸福感に満たされるようだった。
一気に饅頭を頬張り茶を飲むと、少し落ち着きを取り戻した和歌がふと視線を上げた。その視線の先には辰巳が嬉しそうに微笑みながらこちらを見ていた。
「気に入ったようですね。よかった」
なんだか子供をあやすような態度が面白くなく、ましてや食べ物で機嫌を取られたようで和歌はすぐに態度を硬化させた。
「この饅頭はどうされたのですか?」
「珠子さんがお好きだったと聞いています。ならば、あなたも好きなのではないかと思いました。違いましたか?」
「…… いえ、母も私も好物でした。でも、なぜそれを?」
「私が何度か戸倉の家に行った時、決まってこの饅頭を出してもらっていたんです。出された物は何でも口に運ぶのですがね。ある時、難しい話でいただくことが出来なかった。そうしたら、帰り際にわざわざ袋に包んで持たせてくれたんです。この饅頭は自分も娘も美味しくて大好きだと。せっかくだから持ち帰って食べてくれとね。
本当はね、甘い物は苦手なんです。でも、あの人の優しさが嬉しくて、それ以来私も好物になりました。定期的に山岡に買いに行かせています。
もしよければ、和歌さんの所にもお届けしますよ。もちろん、皆さんの分も」
辰巳の口から初めて聞く、当時の話題。
そうか、誰にでも優しく心の根の清い母は、この辰巳にさえもそのような態度を取っていたのかと思うと、胸が苦しく締め付けられるようだった。
優しくしての仕打ちが今のこの現状だ。この男が戸倉の家に手を出さなければ今ごろは母も自分も、父ですら幸せに過ごせていたというのに。
和歌は目の前の白い饅頭を睨むように見つめ、握りつぶしてやりたいと思った。
「今日は疲れたでしょう。もうおやすみなさい。隣に床も用意してもらっています。ゆっくり休むといい」
ゆっくりと立ち上がった辰巳は、少しだけ開いていた襖を開けると、和歌に手招きをした。
花見にも、福久春にも言い聞かされている。断ってはならないと。
辰巳の機嫌をそこねぬよう、好きなようにさせろと。
和歌はゆっくりと立ち上がり、襖の向こうに向かった。
灯りの無いそこは薄暗く、隣の座敷の灯りだけがたよりだ。
「寝支度まで用意していただき、ありがとうございました」
「ああ、そんなこと。若い方の趣味はわからないのでね、ここの女将に任せたんですが、着丈は丁度いいですね。よかった」
このような時はどうすれば良いかわからず、和歌が呆然と立ちすくしていると、くすっと言う笑い声と共に辰巳が布団をめくり「どうぞ」と指し示す。
和歌は言われるままに布団に潜り込み、仰向けのまま辰巳を待った。
「では、ゆっくりと休んでください」
そう言って辰巳は襖を閉め、隣の座敷の戻ろうとする。
「私を抱かないのですか?」
思わず起き上がり、咄嗟に言葉にしてしまった。
あれほど嫌で嫌でたまらず、指に触れることすらも嫌悪していたのに。
それでもこれが仕事なのだと心に決めていたのに、とんだ肩透かしをくらい思わず口をついてしまった。
「抱いて欲しいのですか?」
辰巳の言葉に「そういうわけでは……」と、しどろもどろになってしまう。
「まだ眠くないようなら、少し昔話でもしましょうか」
そう言って襖を半分開けた状態で、自分は元居た場所の座椅子に座り煙管をふかし始めた。
半分閉じられた襖の陰で、辰巳の姿を見ることは出来ない。彼の声だけが、とつとつと流れてくるのだった。
「私はとある商家の家に生まれました。兄と姉がおり、末の子として大層可愛がってもらったと記憶しています。
祖父は商才に長けた人で、一代で財を成した天性の人でした。
だが父は違った。才の無い人で、優しさと強さをはき違えているような人だった。商いをしていれば、守らなければならないものは多い。店も、家族も、そしてそこに関わる全ての人間の生活を支え、守るのが主の義務です。
それなのに、結局父は騙され、全てを奪われた。何よりも大切な命までも。
父だけならまだしも、母や兄姉も。そして寝食を共にし、私たちのために身を粉にして働いてくれていた者の命も奪われたのです」
ある日のことだった。酔った辰巳の父が上機嫌で帰ると、大きな商談がまとまったと皆に話し始めた。結局それは騙され、家の事情を探られただけだろうと今の辰巳にならわかるが、その頃の彼にそれを回避するだけの知恵はない。
それから幾晩が過ぎた頃。土砂降りの夜にそれは起きた。
強盗に寝込みを襲われたのだ。
土砂降りの雨音は物音も、人の逃げ惑う叫び声も消していく。そして切られた者の返り血も、逃げる際につくはずの足跡すらも消し去ってしまった。
結局、犯人が見つかることはなかった。
使用人の中には数人助かった者もいたようだが、家族の中で生き残ったのは辰巳一人だけだった。
その晩、少し風邪気味で熱っぽかった彼は、乳母である使用人と共に寝ていた。彼女は物音でいち早くそれと分かったのだろう。辰巳を布団に包むと、納戸下の貯蔵庫に隠したのだ。彼女の機転で無傷の状態で助かった辰巳はその後、親戚筋の引き取り手もないまま、寺に奉公に出されることになった。
その身を売るのは何も女性だけではない。
規律の厳しい宗派では、僧侶は女性の肌に触れることすら許されない。
そんな若く血気盛んな僧侶の相手をするのが、何も知らない男児の稚児だ。
辰巳はその時十歳だった。大人の男を相手にするには身体が小さすぎる。何も知らぬまま、聞かされぬままに、そこでも大事に育てられ、教育も受けさせてもらった。それらは今の辰巳の役に十分立っている。
そして、十二歳の春に初めて男を受け入れた。いや、受け入れさせられたが正解だろう。だが、子供の小さな身体で無傷であるはずが無い。体格差がありすぎるのだから。いく晩も、いく回も。僧侶の慰み者となることでしか、子供の彼には生きる術がなかったのだ。
そうして気が付けば年月は過ぎ、辰巳はその寺から着の身着のまま逃げ出すことができた。追っ手を恐れ、隠れるように身をひそめていても、金もない身の上では食べる物にもこと困る。そこで生きる為に、生き抜くためだけにその手を汚していったのだ。
最初は盗みだけだった。腹を満たすために、目の前にある食べ物を盗んでは口に運ぶ。親を亡くし頼れる者も伝手もない子供に、まともな仕事など見つかるはずがない。あるのは、危険で汚い汚れ仕事だけ。自分たちがしたくない、手を染めたくない仕事を、使い捨てのように身寄りのない子供に低賃金でさせるのだ。
そうして気が付けば、裏の世界で名を知らぬ者はいないほどに上りつめていた。
辰巳の独り語りに思わず聞き入ってしまった和歌は、気疲れもあったのだろう。辰巳の声を子守歌代わりに、眠りに入っていったのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます