第13話


 和歌たちが案内された奥座敷には、床の間を背に辰巳が座り待っていた。

 和歌たちの姿を見ると、座椅子にもたれかかっていた姿勢を正し彼女たちを迎え入れた。


「辰巳様。この度は若松をお呼びいただき、誠にありがとう存じます。

 父、花見からもお礼を言付かっております」


 三人は下座に並び座ると、両手をつき深々と頭を下げた。


「ああ、そのような堅苦しい挨拶はいりません。

 聞いていると思いますが、花見さんとは話がついています。これから和歌さんは私が面倒をみることになりますので、今日は初顔合わせです。

恥ずかしながら、とても緊張しているんです。どうか楽にしてください」


 福久春たちに並び顔を上げた和歌が目の前に視線を移すと、両親を騙し打ちにした頃のままの面影の辰巳がそこに居た。


「お酒はまだでいらっしゃいますか? さあ、若松。辰巳様のお隣りへ」


 福久春の言葉に震える声で「はい」と告げ、和歌は足を引きずる様に辰巳のそばへとついた。


「これは、これは。和歌さんにお酌をしていただけるなんて、夢のようだ」


 満面の笑みで杯を持つと、和歌の前に差し出した。

 和歌はそれを見て辰巳の前に置かれた銚子を持ち、震える手で酌をする。

 震える両手で支えるように持った銚子が揺れ、わずかばかりの酒が辰巳の膝にこぼれてしまった。


「申し訳ありません!」


 慌てて着物の胸元から手ぬぐいを出すと、辰巳の膝に手を伸ばす。

 だが、辰巳はそれを手で制すと、やんわりと和歌の手を拒絶するのだった。


「辰巳様、申し訳ございません。若松がとんだ粗相を、なにぶん初めてのことで緊張をしておりまして。どうかお許しくださいませ」


 慌てて近づく福久春の言葉にも動じず、


「大丈夫ですよ。たいしてかかったわけじゃない。熱燗も冷めて温くなっています。火傷もしていないし、心配はいりませんよ」


 辰巳は自分の手で塗れた膝を撫でつけると、これで終いだとでもいうように微笑んだ。


「酌はいりません。自分の呑みたい時に、好きなように呑むのが好きなので。

 それより和歌さん。一つ舞ってはくれませんか。練習したのでしょう?

 私にもその舞を見せてください」


 辰巳の隣で固まったままの和歌に向かい、踊るように指示をする。

 ここで踊らぬ道理はない。酒をかけたことは決してわざとではないが、それでも少しくらいは胸がすく思いがあったのも事実。

 和歌は福久春に導かれ、辰巳の前で踊り始めた。


 三味線を福久春が、鼓を駒菊が鳴らし和歌が舞う。

 元々、日本舞踊を習っていた和歌に取って、それは難しい事では無かった。

 目の前で踊る和歌の姿に、辰巳はうっとりとした眼差しで見つめる。

 だが、その瞳に和歌の姿が映っているわけではなかった。和歌を通してどこか遠くをみているかのようだった。

 

  舞い終わると、辰巳は一人拍手でその芸を讃えた。


「素晴らしい。和歌さんの舞には心がこもっているようです。感動しました。

 また、踊ってくれますか?私のために」

「はい。お座敷に呼んでいただければ、いつでも」


 その言葉に満足そうに笑みをこぼすと、辰巳はパンパンと手を打った。

 その音に女将が駆けつけると、

「皆さんにも同じ物を用意してください」そう言って三人に手を向ける。かしこまりましたと下がる女将に、

「いえ、お待ちください。そう言うわけには参りません」

「おや? 今日はここで休むように言づけたのですが?」


「は、はい。それはお聞きいたしました。お気持ちは有難く頂戴させていただきます。ですが、それはそれでございます。お客様と席を同じく、しかも同じものをいただくわけにはまいりません。私共は芸者でございます。立場が違います」


 福久春が辰巳の頼みを拒んだ。客の願いを叶えることが一番である。しかし、時と場合にもよる。客から酌返しで酒をいただくことや、おふざけで客の箸からつまみを頂戴することはある。しかし、今回はそれらと訳が違う。


「そうですか。でも、夕食無しではきついでしょう。私も一人で食事をするのは寂しいですし、できれば一緒に召し上がっていただければ美味しくなると思うのです。なあに、花見さんには黙っていれば分かりませんよ。私はもちろん言うつもりはありません。あなた達が口を割らなければバレない話ですよ」


 ニコニコとほほ笑む辰巳の顔に邪心は無いようであった。

 それを見て福久春は「負けました。それでは、ありがたく頂戴いたします」そう言って頭を下げた。

 それを見た女将が仲居を呼びつけると、いそいそと準備に取り掛かる。すでに話はついていたのだろう、あっと言う間に目の前に運ばれたお膳には、辰巳とほぼ同じ物が並べられていた。


「夜は長いですし、ゆっくりと楽しんで食事をいたしましょう」


 辰巳の言葉に三人は頷き、箸を持った。

 酒は辰巳だけが呑み、酌も本人自ら行った。先ほど言っていたように、自分の調子で好きなように呑むのが好きらしい。

 三人は会話をしながら食事を楽しむ。辰巳の機嫌をそこねないように、当たり障りのないような話題を選び、主に福久春が中心となり駒菊とともに辰巳の機嫌を取る。その間、和歌はうまく会話に入れず、いや入ろうとはせずに、辰巳から顔を反らし少しずつ目の前の御前を口に運んだ。


 二時間ほどたっただろうか。そろそろ頃合いだと福久春が駒菊を呼び寄せ、下座に並び両手を付いた。


「辰巳様。今宵はお招きいただき、誠にありがとう存じます。

 私共はこのへんで下がらせていただきますが、どうか、ここにいます若松を可愛がってくださいませ。よろしくお願いいたします」


 深く頭を下げた二人に向かい、

「今日は楽しい時間を過ごせました。ありがとうございました」そう言ってパンパンと手を叩く。

 姿を現した仲居に伴われ、二人は座敷をしずしずと下がって行った。


 二人きりになった部屋には沈黙が流れる。会話もなく、辰巳は一人酌をしながらちびりちびりと酒を舐める。

 すぐに戻った仲居の「お下げいたしましょうか?」の問いに、「そうですね。その後、お茶と甘味をお願いします」辰巳の言葉に「かしこまりました」と告げると、待機していたのだろう、奥から数人の仲居が現れあっと言う間に片付けられた。そして、女将がなぜか和歌の手を取ると「こちらでございます」と導かれた。「え?でも……」と慌てる和歌が辰巳を見ると、彼は一人座椅子にもたれ煙管をふかし始めていた。

 女将に手を取られ連れられた隣の座敷には浴衣が準備されており、手際よく着物を脱がされると知らぬうちに浴衣の袖を通されていた。

 そして鏡台の前に座らされ、お座敷用に結い上げた髪もほどかされ、右の肩にその長く美しい黒髪を垂らすのだった。


「こ、これはいったい」

「辰巳様の指示でございます。あのような堅苦しい着物に髪では、ゆっくりとお休みになることはできませんでしょう。それほどに、大切に想っておいでなのですよ」


 和歌には、女将の言葉が軽く宙に浮いて聞こえるようだった。

 これから待ち受ける自身への屈辱。それを思うと和歌の心は沈み込み、若い娘用なのだろう、綺麗に仕立てられた紺地に白く浮き出た花柄の浴衣すらも、白々しい物に見えてきてしまうようだった。

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