第11話


 茶を飲み少し落ち着いた和歌は、ゆっくりと話し始めるのだった。


「あの人は。あの男のせいで戸倉の身代は傾き、ついには破綻させられたのです。それもこれも、あの男が私の母を想うがあまりのこと……」



 和歌の生家はお武家様と呼ばれる類の家であった。だが、もう今はそれも昔。

 和歌の母の珠子もまた実家は華族であり、何も知らぬまま輿入れをした息女であった。そんな珠子を父の直治は大層可愛がり、夫婦仲は悪くなく、和歌もまた愛され大事に育てられた。

 だが、時代の移り変わりについていくことができなかった直治は、事業を始めるもすぐに立ち行かなくなり、ついには高利貸しから金を借りるようになる。その高利貸しが辰巳であった。

 金を借りるにあたり戸倉の家に何度か足を運び、珠子とも席を共にした。

その際、珠子に横恋慕をした辰巳が、珠子欲しさに戸倉を騙し破綻の道へと導いた。それに気が付いた時には時すでに遅く、後戻りできぬところまで来てしまっていた。


和歌と母は武家としての矜持を捨て切れぬために金目の物を売り、土地を売り食い繋ぐも、ついには珠子の実家に頭を下げることになる。

 しかし、すでに代替わりをしていた兄と兄嫁は、出戻りの妹とその娘を受け入れるつもりは更々なかった。

しかし世間体を気にして、妹とその娘を引き取ることは承諾しても、婿とその家に手は貸せぬと無下に断られ、直治は全てを投げ捨てひとり夜逃げを図ったのだった。


 母とともに捨てられたと知った和歌は、母を伴いその実家に身を寄せる。

 しかし、実家とは言え出戻りの二人にはつらく、居場所は無いに等しかった。

 そして、珠子の再婚を独断で決め、本人の望まぬままに嫁がせてしまう。

どんな相手で、どのような家系の筋の人間かもわからぬままに、珠子は攫われるように和歌の元から消えてしまった。

 一人残された和歌は、金はあるが何かと悪い噂の堪えぬ男の後添え話や、政ごとには明るい者の妾のような話しばかりを持ち込まれた。

 まともな縁談など望めぬことは、和歌自身も重々承知していた。しかし、それでもと、わずかな期待を胸に抱いたその夢も儚く消えたことを知り、絶望に打ちひしがれるのだった。


 そして選んだ道は遊女屋への入店である。

 父の借金の肩代わりを母の実家はしてはくれない。母を手にいれることで、その輿入れ先の相手が支払ってはくれた。だが、それも立替払いであって、支払いは娘である和歌の肩に重く圧し掛かる。

 世間を何も知らぬ母は自分のことで精いっぱいで、娘の和歌のことにまで考えが及ばない。そのことを相談する者もいないままに、和歌は自らの意思でその身を金に換える道を選んだ。

 武家の一人娘として産まれ、誰よりも気高く高貴な矜持を持っていたのは和歌本人だけであったのだろう。

 蝶よ花よと育てられた永遠の少女のような珠子に、それらは持てぬものだった。彼女にこれ以上の責め苦は耐えられないだろうと和歌は思う。

 ならば戸倉の娘として、その血を誇り、散る覚悟でこの道を選んだ。

 そのことに後悔はない。どんなに尊い血筋でも、役に立たぬものは消した方が良い。和歌は自分の代で、この血を絶やす心積もりであった。


 それなのに、憎い男にその身を預けなければならないことがたまらなく無常を感じてしまう。

 親のためにとその身を売り、未来を捨てた娘にこれ以上の責めを与えるとは、この世には神も仏もいないのかと、いっそ消えたい思いに駆られてしまう。



 涙ながらに今までの経緯を話し終えた和歌は、化粧が崩れるのも構わずに額を畳みにこすりつけ懇願する。

 わかってくれる。わかってくれると。情けをくれるはずだと信じて疑わなかった。それなのに、花見から戻ってきた返事はそれを打ち砕くものだった。


「なるほど。そりゃあ大変だったなぁ。

だがそれだけだ。辰巳の旦那がおめえを買った事実は変わらねえ。

 なんだ? おめえのお涙ちょうだいの話を聞けば何とかなるとでも思ったか?

 はあ、少しはわかってるかと思ったが、やっぱり駄目だな。

 おめえなんかよりもっと辛い目にあってここに来たヤツは、もっともっと大勢いるんだ。

 自分を捨てた人間を見返す覚悟を持ってここに来たんじゃねえのか?

ここの女は皆、生きる為に反吐が出るような相手でも笑って相手をせにゃならん。生きる為に嫌な相手にも股を開くんだ。それがここ、遊女屋なんだ。

 武家の血だかなんだか知らねえが、そんなもんで腹は満たされねえんだよ」

 

 花見の低く冷静で、それでいて怒りに満ちたような声が和歌を締め付ける。

 畳に頭をつけたまま上げることも出来ずに、和歌はただ震えるだけだった。

 逃げられない。避ける事は叶わない。自分を捨てた親よりも、いやむしろそうなるように事を運び騙した諸悪の根源。辰巳に笑うことなどできはしない。

 頭の中をぐるぐると回る事実を受け止めきれずにいた。

 そんな和歌に桔梗が声をかける。


「若松。頭をお上げ」


 桔梗の言葉に震える肩をなんとか起こし、ゆっくりと顔を上げた。


「覚悟だ、なんだって。おまえみたいに若い娘にゃ厳しい話しだと思う。

 それでもちゃんとわかってここに来たんだ。それだけでも偉いさ。

 嫌だと泣き叫んだところで、どうにもならないことくらい分かっておいでだろう? 良いんだよ。若い娘の心根を聞き届けるのも親の務めだ。

 お座敷にはまだ時間がある。好きなだけ駄々を捏ねればいいよ。

 ねえ、あんた」


 桔梗にそう言われて、花見も少しだけ態度を軟化させる。


「ああ、そうだな。時間までジタバタすりゃあええ。泣きはらした顔もまた、初座敷には良い話のタネになるさ」


 そうして、豪快にわははと大声で笑い出した。

 それでも和歌の顔色が浮くことはない。どうにもならないなど思っていなかった。どうにかなると、辰巳じゃなければ誰でも良い。どんな客も、何人でも取って見せる。その思いを見せればどうにかなると本気で思っていたのだ。

 そして、本当に逃げられないと悟り、和歌は気力を失っていく。

 辰巳だけは、辰巳だけはと……。


 そんな和歌に桔梗が優しく諭すように語り掛ける。


「若松。おまえは自分が一番苦しいと思っているかもしれないが、そんなことはないんだよ。芸者の道を選べた者はまだマシな方だ。遊女屋で客を取る子達は、もっと過酷な人生が待ってる。

 お前と一緒に来たユキも、これからはずっと辛い日々になるはずだ。

 何があろうとこの先は変わらない。なら、せめて笑ってお座敷に立つんだ。

 嫌な客にも笑って迎え撃つんだよ。これはね、私たち女の戦いだ。

 おまえならやれるね?」


 桔梗の言葉も和歌の中に響くことは無かった。

ただ一つだけ、ユキに辛い日々が待っている。それだけが頭に残った。

 呆然としたまま、時間だけが過ぎていく。

 化粧を直され、そして福久春とともにお座敷に向かう時刻を迎えた。

 桔梗から火打石で送られ一鶴楼を後にする。


 向かって左側に遊女屋。右手に花見達と芸者達のいる置屋がある。

 同じ敷地の中ではあるが、建物は別になっており繋がってはいない。

 お互いがどのようになっているかは、女たちにはわからない。


 和歌が若松に姿を変え、福久春らと共にお座敷に向かい玄関を出ると、遊女屋の方から覗く影があった。

 和歌は咄嗟に視線を動かしそちらを見る。するとそこにはユキと、昨日一緒にいた佐平の姿があった。

 和歌の晴れ姿を一目見る為に、そこで待っていてくれたのだ。


「……」


 若松になった和歌がユキに声をかけることは許されない。同じ日に入店した友達であっても、そこには天と地の差があるのだ。

 芸者は遊女とは違う。ここ花街では遊女の方が格が上だと言われているが、実際には違う。芸者の方が段違いで条件が良い。

 相手にする客の品位も、客単価も違う。

 遊女も良い客に気に入られ、足しげく通ってもらえれば稼ぎは良いが、そんな者は極々一握りにすぎない。

 ユキはまだそんな事情を知らない。だが、隣にいる佐平は十分に理解している。


「いいか、ユキ。姉さんや男衆に気付かれないようにするんだ。見つかったらお仕置きが待ってるからな。わかったな?」

「うん、わかってる。ただ遠くから見るだけで良いの。和歌さん、絶対に綺麗だもん。見てみたいんだ」


 そしてようやく表れた和歌の姿を見つけて、思わず声を上げそうになり、その口を慌てて両手で塞いだ。

 和歌がこちらに気が付いたことにユキも気が付いた。

 しかし、その立場ゆえ声をかけることも、視線を交わすことすら叶わない。

 それでも晴れの姿をひと目見られただけで、ユキは満足だった。


「和歌さん綺麗だった。本当に綺麗。初めての友達が和歌さんで良かった」

「良かったな、見られて」


 和歌を見送った後、ユキは佐平に語りかける。

 屈託なく笑うユキの顔に邪心はない。素直に和歌の門出を喜び祝っている。

 そんなユキを頭一つ分も背の高い佐平が、見下ろすように見つめていた。

 自分の妹と年の変わらないユキを幼い頃に分かれた妹に見立て、故郷を、家族を思い出している。彼もまた若くに苦労を重ね、隣で喜ぶユキから一時の安らぎをもらっているのだ。

 そして、この笑顔を守ってやりたいと思うのだった。



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