第10話
二人が離れて暮らすようになり、寂しがるのはユキの方かと思われたが、実際は違い、心元なく寂しい思いをしているのは和歌の方だった。
梅雨開けに店入りをし、あれから幾分月日が経ち、風が肌を冷やす頃。
それまで姉さん達の付き人兼、見習いとしてお座敷に上がっていた和歌が「若松」として独り立ちする時が来た。
和歌はどうしてもユキに伝えたくて、御法度とは知りながら店と店の間にある通用口近くで、身を小さくしてユキが通りかかるのを待った。
ユキは小間使いとして炊事場や洗濯場、湯殿や厠の掃除などをこなしていた。それこそ身を粉にして働くに相応しい忙しさだ。
それでも持ち前の性分も手伝い、皆に可愛がられていた。
当然虐めもある。しかし、未だ客を取らない小娘相手に腹を立てても仕方がない事も、皆は十分知っている。
客の取り合いで金が絡まなければ、後は重箱の隅をつつくような細かいことが標的になる。男も知らぬ小娘のやることだ。ユキは和歌に比べてまだ穏やかな日々を過ごしていた。
そんなある時、洗濯を終え通用口に顔を出したユキに、和歌は小声で声をかける。
「あ!和歌さん。久しぶりです。お元気そうですね、良かった」
洗濯桶を抱えたまま、ニコニコと笑い和歌に駆け寄るユキ。
「ユキさん、元気だった? ああ、洗濯をしていたの? 手が荒れて、冷たくなってる。大丈夫? 仕事は辛くない? いじめられてはいない?」
駆け寄って来たユキの手を握り、水仕事で冷たく、手荒れの酷い手をさすりながら、心配そうに声をかける。
「うちは大丈夫です。仕事は大変だけど、毎日美味いご飯も食べられるし、痛い事もされないから。姉さん達に比べたら、こんなの全然です。
それより、和歌さんは? もうお座敷には上がったんですか?」
「ええ、明日からお座敷に独り立ちすることになったの。それで、ついユキさんに会いたくなってしまって」
「え? 明日から? スゴイじゃないですか! おめでとうございます。
和歌さんならすぐにお客さんがついて人気者になりますよ。すごい!」
自分のことのように喜ぶユキを見て、和歌は不安につぶされそうになっていた自分が馬鹿らしくなってきた。すぐにでも客を取りたいと啖呵を切った、あの日の自分が聞いたら笑われると。
「初めてのことで少しだけ気が小さくなっていたみたい。ここではユキさんだけが友達だから。でも、あなたの顔を見たら元気が出て来たわ、ありがとう」
和歌の言葉にユキは一瞬驚いたような顔をして、そしてすぐに満面の笑みで答えた。
「和歌さんに友達なんて言ってもらえて嬉しい。うちが産まれた所では同い年くらいの女の子がいなかったから、友達なんていなくて。だから、うちにとって初めての友達が和歌さんです。初めての友達が和歌さんで良かった」
少しだけ頬を赤らめ恥ずかしそうにする笑みは、純粋な気持ちが表れていると誰が見てもわかるものだった。
人を疑うことを知らない、人の為に自分を動かすことに抵抗感を感じない。
そんなユキを羨ましいと思う反面、苦しい思いをしないで欲しいと和歌は本心から思った。人の心配をする身ではないとわかっている。それでも、それでもこの子の行く先の幸せを願わずにはいられなかった。
「和歌さん、これから綺麗な着物を着てお座敷に行くんでしょう?
きっと綺麗だろうなぁ。私も見たいけど、こっちの人間が置屋に行くことは禁止されているから」
和歌もユキに晴れ舞台を見てもらいたいと思っている。それが叶えば良いと。
「初座敷の前に、お父さんたちに挨拶に行くの。だから花見の家への行き来の道中、うまく行けば遠目で見られるかもしれないわ」
「本当に? 明日ですよね。明日の夕方くらいですね。うち、あの辺をウロウロしてます」
和歌とユキは手を握り合うと、身体をとを労わりあった。
そんな二人の前に影が一つ重なる。
「ユキ。そろそろ戻れ。また怒られるぞ」
そう言って声をかけて来たのは佐平。
二人が初めてこの一鶴楼に足を踏み入れた時に、足を洗う水桶を持ってきてくれた若衆の一人だ。女だけの場で若いうちは力仕事や雑用をこなし、行く行くは用心棒になる身。佐平も体格がよく、豆に働く気の良い男だ。
そんな佐平の妹と同じ年頃と知り、何かにくれユキを気にかけ面倒をみてくれていた。
「佐平さん。もうそんな時間? 和歌さん、もっと話していたいけどごめんね。もう戻らないと」
「ううん。私こそごめんなさい。お仕事頑張ってね」
「うん。明日、和歌さんの晴れ姿なんとか見られるようにするね。おめでとう」
そう言って手を振りながらユキは去って行った。その横には佐平が並び歩いている。二人は互いに言葉を交わし、時折笑顔を見せあっている。
本来なら産まれた町で、奉公先で、こんな風に楽しい時間を過ごしていたのかもしれないのにと、和歌は一抹の寂しさを覚えた。
そして、並び歩く二人を少し羨ましく思うのだった。
翌日、髪を結い上げ白粉を塗り、お座敷用の着物を着つけてもらえば、そこには若く美しい「若松」の姿があった。
若松の名は桔梗が若い頃に遊女として使っていた源氏名である。
その名を若く美しい娘、和歌に託したのだ。
和歌は初めてこの店に足を踏み入れた日と同じように、花見と桔梗の前に座り、畳に手をつき深々と頭を下げた。
「お父さん、お母さん。これからお座敷に参ります。
これよりは、この一鶴楼の名に恥じぬよう精進してまいります」
芸者置屋に身を置き、まだたかだが数か月。異例の速さでの独り立ちだった。
あまりの早さに皆が訝しがる。これも元武家の娘故のなせる業だと。見目が少しばかり綺麗な娘は得だと。そうして嫌味を言われ、陰湿ないじめを受ける。
だが、それを止める者はいなかった。和歌の師匠として名指しされた福久春ですら、手を貸してくれることはしない。
今は一流の芸者と名乗る福久春でさえ、若い頃には同じように虐めを受けて来た。そうして耐えて忍んでこその芸事なのだ。
若く美しい姿を前に、花見は口を開きその容貌を讃えた。
「おうおう、綺麗に仕上げてもらったなぁ。これなら辰巳の旦那もさぞかし気に入ってくれることだろう。なあ、桔梗」
「ええ、そうですね。何しろこんな短い期間で仕上げろなんて、無理難題も良いところ。でも、辰巳の旦那にいわれりゃ否はないわ。
和歌。今日からお前の名は「若松」。その名に恥じぬよう、せいぜい辰巳の旦那に可愛がってもらうんだよ。いいね」
和歌は先ほどから二人が口にする「辰巳」の名に聞き覚えがある。
「辰巳の旦那?」
手を付いたままわずかに顔を上げると、目の前に並び座る二人を見上げた。
「おまえには、すでに旦那がついてる。それも大店も大店。一流のお方だ。
ほんとにお前は恵まれてるなあ。親を恨むも良いが、こうなりゃむしろその血筋あってのことだ。恨むどころか、ありがたいと手を合わせた方がええ」
「どういうことでしょうか? 辰巳とは、まさか金貸しの?」
「おや、やっぱり知ってるんだね? 旦那の伝手で直々にお前をご指名だったんだ。本当は身請けの話しも出たんだがね、お前の名を売ることに数年、大枚をはたいてくださるそうだよ。ありがたいねぇ。
ただし、初座敷ではあるが、今日がお前の水揚げだ。
失礼のないように、辰巳の旦那のいう事を黙って聞いて尽くしておいで」
「水揚げ? 今日が?」
「ああ、そうだ。長い事この仕事をしてるが、こんなこたぁ初めてだ。
本当におめえは運が良い。辰巳の旦那が言うには二、三年かけておめえの名を売るそうだ。その為に上客も紹介してくださるって言う。うちとしてもこんなにありがたい話はないからな。本当におめえはめっけもんだった。
あいつには別に礼をしないといけねえな」
花見の「あいつ」の言葉に、和歌の心は乱された。
思い出さないように、考えないようにしていたのに、たった「あいつ」の言葉だけで心は小太郎の下に飛んでしまう。それほどまでに和歌の心を掴み、乱す相手。思い出すたびに小太郎と重ねた熱い肌が思い出されてしまう。
「今日のお座敷は店を貸し切りだからね。相方に福久春たちを付けるから。
何かあれば福久春に面倒をみてもらいな」
桔梗の言葉が和歌の耳を通り過ぎていく。
辰巳を知る身としては、恐ろしさと憎さで身体の震えが止まらなかった。
「お父さん、お母さん。辰巳は、辰巳だけは無理です。他は何でもいう事を聞きます。どんなことでもいう事を聞きます。だから、だからどうか、辰巳だけは、辰巳だけは……。お願いします。お願いします」
和歌は身体の震えを抑える術を持たないままに、額を畳みにこすりつけ懇願した。隣に座る福久春が、和歌の肩を抱くように抱え「どうしたんだい?」と声をかける。そして、目の前の花見と桔梗と視線を合わせた。
「若松。何があった? 実家がらみの知り合いだろうとは思うが、辰巳の旦那はお前が怖がるようなお方じゃないぞ。一体何があった?」
花見の問いにも和歌は脂汗を流し、固く目を瞑るだけだった。
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お読みいただき、ありがとうございます。
土日は二話投稿をしようと思っております。
引き続き、よろしくお願いいたします。
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