第3話


 行商人が栗山の集落を去ってすぐのことだった。

 田植えの準備を始める中で、ユキは父から告げられた。


「おめえもそろそろ良い年だ。里に下りて仕事についてくれや」


 あまりに突然のことでユキは驚き、言葉も出なかった。

 まるで普段の生活の中で、当たり前の会話のように話す父に、ユキは正直何を言われているか理解するのに時間がかかってしまった。


「もうすぐカカも子が産まれる。おめえには悪いが、信さんとは話がついてるで、盆前に行商が来たらおめえも一緒に里に下りて仕事さ見つけてもろえ」

「お父ちゃん。うち、ここにいたい。もっと手伝い頑張るから、ここにおいてくれ」


 一番上のユキは普段から聞き分けの良い子だった。親の意にそぐわぬことをすることもなく、親の為、弟妹のためにと気を配り頑張って来た。

 そのユキが、懇願に近いほどに父に頭を下げる。


「ユキ。これもおめえの為だ。町さ行けばもっとラクが出来る。もっと良い暮らしが出来るんや。心配はいらん」

「お父ちゃん、うち。うちは……」


 自分の行く末の変更など出来ないことは知っていた。子供は親の言いなりになり、その人生すらも決められてしまう時代。

 ユキもまた、自分の人生が決定事項のように変えられない事実を理解は出来ている。それでもやはり、言わずにはいられない。

 泣いて喚いて、暴れたい思いをグッと堪えて、ユキは「わかった」と返事をするしかなかった。

 そんな二人の様子を、母は黙って見つめていた。

 

 次の行商が来るのはたぶん初夏の頃だろう。

 ユキが山を下りる話は、すぐに集落全体が知ることとなる。

 ユキは行商人、信の口入れで商人の家に奉公に出される話になっていた。

 どこの店かなど、山を下りたことのない者には聞いてもわからない話だ。

 店の名を聞いたところでわかるはずもないし、第一、店がどんな風になってどんな風に商売をしているかすら知らないのだから。

 集落の者は「頑張りな」「大丈夫や、心配いらん」そう言ってユキに声をかけてくる。


 今までにも若い者は皆この栗山の集落を離れ、山を下りて行った。そして働き口を紹介されては働き、その身を支えて来ている。

 しかし、栗山と町の行き来だけで何日もかかる。そのため実家に帰ることはほとんどない。たまに里帰りしたと土産を持って自慢げに家々を回る者もいたが、それも一年が二年に、二年が三年にと間隔が空き、次第に音沙汰が無くなってしまう。中には一度として顔を見せない者もいた。

 若い娘の足ではこの集落に戻るだけでも大仕事だ。住所もないこの時代、手紙などと言うものすら宛てにはならない。

 何かあれば信のような行商人に頼み届けてもらうくらいしか、その術はない。

 だから、ユキはここを出たらもう二度と戻れないかもしれないと、覚悟を決めるしかなかった。

  それでも時は過ぎる、もうそろそろ信たち行商人が来るころだと、周りの者が話始める頃。今日もまた逢瀬の場、樫の木の下で二人は顔を合せる。



「末吉。うち、ほんとは行きたくねぇ。ずっとここに、皆のそばにいたい。

 でも母ちゃんも、もうすぐ子が産まれるし、食い扶持減らすためにも、うちが働いてがんばらんとならんから」

「大丈夫やユキ。おめえならどこに行っても可愛がってもらえるさ。俺も父ちゃんに頼んで里に下ろさしてもらう。そしたら、一番におめえんとこに行く。

 がんばって金貯めたら、約束通り所帯さ持とう。それまでの辛抱だ。

 な? 大丈夫や」


「うん。うち、待ってるから。末吉のこと、ずっと待ってるから」

「ああ、すぐに会いに行く。俺のこと待っとってくれ」


 後ろを流れる小川のそばで、二人は微妙な距離を取りながら向かい合う。

 末吉はゆっくりと手を伸ばし、ユキの手を取るとそのまま握りしめた。

 まだ幼い二人の思いが、どれほどのものかなどわからない。

 それでも真面目に、互いを想いあう気持ちに嘘はない。

 そんな二人の前を、揺れるように小さな光が横切って行く。


「蛍」


ユキの言葉に末吉も振り向き確認すると「今年一番のヤツだ」、そう言って微笑みながらユキを見た。視線を絡ませた二人は、嬉しそうに微笑み合った。


「今日の蛍。うち一生忘れんよ」

「うん。俺も忘れない」


 本当のことを知らぬ二人が、未来への夢を見続けていられたほんの短い時間。

 里に下りてしまえばどうなるかなんてわからない。二度と会えないこともあるかもしれない。それでも今を、明日を信じていたいと、そんな風に思っていた。


二人は手を握り合ったまま、しばらく蛍の光を見つめ続けていた。

 初夏の訪れを感じる夜のことだった。




 それからすぐに信を始めとする行商人達が、栗山の集落を訪れる。

 約束通り柘植の櫛を買ってもらったユキは、「ありがとう」と泣きながら礼を言った。苦しい家計の中で、旅立つ自分への餞の品だと気がついて。

 肩口まで短く切りそろえられたユキの髪は、毎回母が切ってくれていた。

 その髪に母が櫛を入れてくれた。年頃の娘に何一つ与えてやれない負い目を感じ、ユキの髪をゆっくりと梳かしてあげる。


「体に気ぃつけてな」「辛くても我慢しぃ。いつか必ず良いこともあるから」「皆に可愛がってもらうんよ」


 娘の髪を梳かしながら、母はその背中を見つめ涙を流した。

 自分たちの不甲斐なさを思い、娘の不憫さを嘆き。それでも、他の子らの飢えをしのぐためには仕方のないことなのだと。

 自分自身も、この家に嫁ぐ時には何も教えてもらえなかった。どんな地のどんな家かも、どんな相手かすらもわからないまま。

 祝言を上げると言われて着いたその日に、初めて夫となる人に会った。

 たまたま穏やかな人だったから、自分は運が良いと思う。

 この子にもそんな道が用意してやれれば良かったのにと。だが、少し目立ち始めた腹の子が、その存在を知らしめるように腹の中から蹴り上げる。その痛みで正気に戻るのだ。仕方ない。仕方がないのだと。



 翌朝、信を先頭にユキを挟むように行商人の一行は山を下りた。

 家族に見送られ、ユキは何度も振り返り手を振りながら別れを惜しんだ。

 他家の家は気を使い、出立を見送ることはしない。

 末吉は山を駆け上り遠くからユキを見送った。それを彼女自身も知っている。

 遠目でお互いの意思を確認することなどは出来なくても、それでも見守られていると、それだけでユキの心は穏やかになれた。


 最初は涙も出たが、険しい山道にそんな余裕はすぐになくなっていく。

 大の男の足でも二日かかる道のり。今回はユキのことを考えて三日かけて歩き続ける。途中、一件、二件とまばらに点在する家で寝泊まりを頼み、ユキたちは里を目指した。



 まだ何も知らず、明るい未来を夢みながら。


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