第64話 ---初めての温室
ノアークは未だ温室に行った事は無かった。
というよりは、温室の存在に気付いていなかったのである。
主な行動範囲が、屋敷と練兵場なので、
厩舎や兵舎などは通り過ぎる事はあったし、
自分の武器を作ってもらったこともあるので、鍛冶工房も知っている。
愛しい妹であるマリアローゼから助手に任命されて、
手紙と箱を預かったものの、温室の場所が分からずに部屋から飛び出た所で立ち止まった。
部屋の脇には、自分の侍従が待機しているのを見つけて、ほっと息をつく。
「…温室に行きたい」
「承知致しました」
ノアークの侍従は名前をゾアと言う。
艶やかな黒髪はうねるように波打ち、暗い紫をした瞳は物憂げで、
屋敷の小間使い達にも人気の高い青年だ。
余計な言葉は何も言わずに、余計な事は何もしない。
空気のような存在とノアークは認識している。
先導して歩いていくゾアの姿勢は、模範といえるくらい立派で、
彼が公爵家の人間だと言われれば、誰もが納得するに違いない。
後ろを歩きながらノアークはそんな事を考えていた。
同じ歳のアルベルト第一王子が、
マリアローゼの為に危険な旅に同行するという。
長兄であるシルヴァインも、それを聞くと一も二もなく、自分も行くと名乗りを挙げた。
でも。
ノアークは言い出せずに居た。
魔法が使えない。
剣の腕はキースよりも上、シルヴァインといい勝負をするが、魔法が使えないという事は、片翼がないのと同じだ。
例え無謀にも、自分も行くといえば、足手まといだと言われるだろう。
そんなノアークを心から愛していると堂々と言ってくれるのは、何よりも大事な妹のマリアローゼだけだ。
だから、後ろ向きになりがちな気持を振り切るように、深呼吸をする。
温室に足を踏み入れると、むせ返るような緑と花の匂いがする。
太陽の光を取り入れているからか、少しだけ蒸し暑い気がした。
きょろきょろと辺りを見回すが、人影は無い。
道が左右と真ん中に伸びているので、少し考えてから左側を進む。
暫く歩くと、人影が見えてきた。
「エレパースはいるか?」
呼びかけると、作業着をきた中年の男が奥に呼びかける。
「エレパースさん、お客さんだよ」
「あっ、は、はい…」
返事がして、ややもすると、跳ねた長い赤髪が炎のような、大きい身体の男がのっそりとやって来た。
いかめしい風体をしながらも、困ったような表情で用事を尋ねてくる。
「エレパース、です。な、何か?」
「これを、妹から預かってきた」
と箱と手紙を差し出した。
「は、はぁ……」
ぽかんとして、汚さないように手袋を取ってから手紙と箱を受け取り、
無言で紙面に視線を落とした。
とても大きく立派な体躯をしているのに、何故か脅えたように反応を返すエレパースがノアークにとってとても不思議に映った。
自分があんな風だったら、ローゼを護れるのに。
エレパースは手紙を何度かじっくり読んでから、うんうんと頷いた。
「わかりました、とお伝えください…こ、これから作業します」
「…わかった」
ペコペコと頭を下げて、エレパースは箱を大事そうに抱えて、温室の奥に向かう。
ノアークはその後ろをついて行った。
「あ、あの?」
「…手伝うよう言われた」
まだ何か用か?とびくびくする大男に、ノアークは理由を告げる。
困ったように首を傾げて、エレパースはもう一度口を開く。
「僕一人でも手は足りるので…だ、だいじょ」
うぶです、と言おうとしたところで、ノアークがまた言った。
「…手伝う」
「え、えっと…」
「…手伝う」
困ったようにエレパースが背後に佇むノアークの侍従を見るも、
ゾアは何も言わずに首を横に振っただけだった。
「じゃ、じゃあこれを……」
大事そうに抱えていた箱を、ノアークに差し出す。
ノアークが受け取ると、エレパースはどこからか椅子を持ってきて、ノアークの隣に置いた。
座れという事だろうか?と思いながら、ノアークはその椅子に腰掛ける。
それを見たエレパースが何処かに行き、草を手に戻ってきた。
両手に持った何種類かの草をノアークに差し出す。
「こ、これをあげてください…」
箱の方に手を近づけたので、ノアークは蓋をぱかりとあけてみた。
中にはピンクのスライムがぷよぷよと動き回っている。
無言でエレパースから草を受け取ると、
上からパラパラとスライムに落としてみた。
身体の上に落ちた葉は沈み込み、下に落ちた葉はスライムが身体を伸ばして溶かした。
そうして、スライムはぷるぷると身体を震わせている。
無くなったのを見ると、ノアークは残りの草もパラパラとスライムに与えた。
箱の中をゆったり動き回って、全ての草を吸収し終わると、ぷるぷると震える。
ノアークが顔を上げると、エレパースが鉢植えがたくさん載った板をもってのそのそと歩いてくるところだった。
足元にそれを置くと、端っこの鉢植えを手渡してくる。
少しずつプチプチと葉を毟り、同じように与えた。
与え終わったのは別の場所に置き、次の鉢に手を伸ばす。
意図が伝わるかと見守っていたエレパースが、ノアークの行動に納得すると、またのそのそと奥へ歩いて行った。
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