伊月賢人(1)
「怖いわねー。すぐ近所じゃないのよ」
朝のニュース番組を見ながら、母親がいう。
彼女の言葉に反応するようにダイニングに置かれているテレビ画面へ目をやると、そこには駅前の駐輪場が映されていた。
『昨日、女子高生はこの辺りで前からやってきた不審な人物に刺されたということです』
リポーターの男性が眉間にしわを寄せ、深刻な顔をしながら話している。
駐輪場のすぐ脇には制服姿の警察官が立っており、黄色いテープが貼られている一角が映される。
「あんたも気をつけなさいよ」
母親はそれだけいうと、身支度を整えて家を出ていった。
気を付けるのは、アンタの方だろ。
まあ、アンタの場合は通り魔じゃなくて、不倫相手の奥さんに刺されるパターンだけどな。
賢人は知っていた。自分の母親が会社の上司と不倫をしているということを。
父親とは3年前に離婚していた。W不倫だった。父親は不倫相手だった女と結婚をして、いまは幸せな家庭を築いているらしい。
当時中学生だった賢人は、母親に引き取られた。それは父親が再婚するからであり、母親は賢人を引き取る代わりに多額の養育費を毎月もらっている。
今年で高校三年生になるが、賢人は新学期になってから一度も高校へは行っていなかった。すべてがどうでも良いと思えてきてしまったのだ。同級生たちは大学進学のために必死に勉強しているようだが、賢人には関係ないことだった。
学校に自分が来ていないことは、教師から母親に連絡が行っているはずだが、母親は何も言っては来なかった。だから、賢人も自由にしている。
誰もいなくなった部屋でテレビを消すと、賢人はベッドに潜り込んだ。
昼過ぎまで眠り、昼ごはんを食べて、ゲームをしたり、漫画を読んだりする。
特にやりたいこともないので、それで一日を消費する感じだ。
夕飯は、コンビニかウーバーで済ませる。家族カードが与えられているので、それを自由に使っている。とんでもない金額を使わない限りは、母親も文句は言わない。
母親は毎日のように、日が変わる頃まで帰ってこなかった。仕事が終わった後で上司と一緒に楽しんでいるのだ。
賢人は部屋に引きこもって、夜中までネットゲームをやって、眠くなったらベッドにもぐりこむ。
何も変わらない毎日。変わるとしたらゲーム内でイベントが発生するくらいだろうか。
不意に空腹を覚えた賢人は、何か食べようかと台所へ向かったが冷蔵庫の中が空っぽだということに気づき、舌打ちをした。
「使えねえな」
独り言をつぶやき、出かける支度をはじめる。
黒のスエットパンツに黒のパーカー。髪の毛はボサボサであるため、パーカーのフードを被って誤魔化す。マスクはネットで箱買いした黒いやつがあったはずだ。
スマートフォンを片手に家を出ると、すぐ近くのコンビニへと向かった。
コンビニが近づいてきた時、賢人は足を止めた。コンビニの前で数人の男が自転車に乗ってたむろしているのが目に入ったからだ。
危険察知能力とでもいえば、いいだろうか。顔ははっきりと見えなかったが、その中に中学時代の同級生がいるということを賢人は察知した。
ヤバい。
賢人はすぐに足の向きを変えて、もう一軒ある別のコンビニへ行くことにした。
くそ、なんでこんなところにいるんだよ。お陰で5分のタイムロスじゃないか。
賢人は独り言をいいながら、別のコンビニを目指して歩きはじめた。
そして、賢人は行き先を変えてしまったことを後悔する。
「こんばんは」
十字路に差し掛かったところで、突然左側から声をかけられた。
「わっ」
本当に驚いた賢人は思わず飛び上がりそうになってしまう。
「驚かしちゃってゴメンね。ちょっといいかな」
そう声をかけてきたのは若い女と男のふたり組だった。ふたりともスーツ姿であり、背は大きい。女の人の方も賢人と同じくらいはあるので170センチ近いだろう。男の人はそれよりももっと大きく見えた。
「え、なんですか」
「我々はこういう者です」
丁寧な口調で男の人がいうと、ふたりは革の手帳みたいなものを広げて見せた。
見せてくれたのは一瞬だけだったけれども、そこには警察という文字が書かれていた。
「ちょっとお話を聞かせてもらっていいかな」
「え、あ、ま、まあ」
何も悪いことはしていないのに、挙動不審になってしまう。
「学生さん?」
「え、あ、ま、まあ」
「高校生かな?」
「え、あ、ま、まあ」
自分で答えながら、同じ言葉を繰り返していて俺って馬鹿か、と賢人は思っていた。
「まず、確認したいから、なにか身分を証明できるものを持っていたら見せてくれるかな」
「ないです」
「何も無いの?」
男の方が驚いた顔をする。
「はい。ちょっとコンビニ行こうと思っただけだから」
「財布とかは」
「ないです。スマホで買い物できるんで」
「そうだよね。今どきは」
女の人が笑いながら言う。
「じゃあ、親御さんと連絡取れるかな」
「いや、無理だと思います。まだ帰ってきていないし」
「そっか。それは困ったな。昨日、このあたりで通り魔事件があったの知っているよね」
「ええ、テレビで見ました」
「テレビで見ただけ?」
「はい」
「なにか学校で噂になっていたりしなかった?」
「……行ってないんで」
声が小さくなる。
「え?」
「学校行ってないんで」
少し声のボリュームを上げて賢人は言った。
「でも、学生でしょ」
「登校拒否してます」
「そうなの」
「はい」
「じゃあ、キミの名前と住所、あとは電話番号を教えてくれるかな」
「えっ……」
「ダメ?」
「ダ、ダメじゃないですけど……」
「じゃあ、教えて」
「伊月賢人です。住所は……」
賢人はすべて正直に話した。
それを女の警察の人がスマートフォンに入力していく。
「そういう格好って流行ってるのかい?」
男の警官が言った。
「え?」
「全身黒」
「あ、ああ……いや、たまたまです」
「そうか。ひとつ、キミに教えておくよ。通り魔の犯人もキミと同じように全身黒ずくめだったらしい。キミも気をつけるんだよ」
「は、はい」
それでようやく賢人は解放された。
初めて受ける職務質問というやつだった。
今度から黒のパーカーに黒のスウェットの全身黒コーデはやめよう。
賢人は心に誓うのだった。
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