磯野薫(2)

 磯野薫が目を覚ましたのは、病院のベッドの上だった。

 体中に色々な管が通されており、一定のリズムを刻むように電子機器の甲高い音が聞こえている。

 なんでここにいるんだっけ。

 薫は自分がどういう状況下にいるのかを考えてみた。

 しかし、なにも思い出すことはできなかった。


「磯野さーん、点滴の交換しますねー」


 若い女の人の声が聞こえてきた。

 誰だろう。

 顔を動かして、薫がその方向へ目をやろうとすると悲鳴に近い声があがった。


「えっ、起きてる!」


 先ほどののんびりした声とは違い、慌てた様子の声が聞こえてくる。

 視界に白い服が飛び込んできた。それを見て薫は、この人は看護師さんだということがわかった。


「磯野さん、わかりますか」

「はい」


 そう答えたつもりだったが、口に装着している酸素マスクのようなもののせいで上手く口を動かせなかった。


「大丈夫。うん、大丈夫だからね」


 看護師はそう言ったが、それは薫に言っているのか、それとも自分に言い聞かせているのかわからなかった。

 薫がその大きな瞳でパチクリと瞬きをしながらじっと見ていると、その事に気づいた看護師は薫と目を合わせると優しい口調で言った。


「先生を呼んでくるから待っていてね」


 またしばらく一人になった。

 聞こえてくるのは、機械の電子音だけだ。

 体は動かせるだろうか。そう考えた薫は実験をしてみる。

 まずは手の指から。親指、人差し指、中指……と順番に動かしてみると、全部の指をきちんと動かすことができた。

 次は足の指だ。親指、人差し指……とやったところで人の気配がした。


「磯野さん、気分はいかがですか。私は磯野さんの担当医を務めます医師の韮田にらたと申します」


 視界に入ってきたのは、細面で黒縁のメガネをかけた男の人だった。Yシャツにネクタイをして、その上に白衣を羽織っている。


「あの、わたし……」


 そこまで言いかけて、酸素マスクが邪魔で上手く話せないことを思い出した。


「ああ、無理に喋らなくても大丈夫ですよ」


 韮田医師はそう言ったが、薫は違うと首を振った。

 話したいのだ。いまの自分の置かれている状況を薫は教えてほしかった。

 腕を動かし、酸素マスクを外す。


「え?」

「あの、いまどんな状況なんですか、わたし」

「え、腕を動かせるの……というか、話もできるの?」


 韮田医師は口をパクパクさせながら驚いている。

 なんだったら、すぐにでも起き上がれますよ。薫はそう言おうと思ったが、韮田医師があまりにも驚いているので、それを言うのはやめておいた。


「ちょっと、ごめんね」


 慌てた様子で韮田医師が薫の布団を剥ぎ取って、身体を触ってくる。

 ちょうど、お腹の辺りを仕切りに触ってくるので、それがくすぐったくて薫は身を捩らせた。


「え……」


 韮田医師は手を止めて、唖然としている。

 どうしたというのだろう。まさか、なにか悪い状態にでもあるというのだろうか。薫は不安になった。


「あれ? ない……なくなっている」

「せ、先生?」

「なんで?」


 韮田医師は驚きを隠せないといった様子で、少しパニックになっていた。

 こうなってしまっては、もはや何を言っても無駄だろう。薫は韮田医師が落ち着くのを待った。


「昨日、私は手術をしたよね?」


 看護師に確認するように韮田医師が言う。

 聞かれた看護師さんも困惑したような表情になり、無言で頷く。

 韮田医師は、もう一度確認するように、恐る恐る薫に掛かっている布団をもう一度めくる。


「な?」


 何かを看護師と確認し合う。

 なんだか、何度もお腹を見られて、薫は少し恥ずかしい気持ちになっていた。


「どうなっているんだ、これ」

「私に聞かれてもわかりませんよ。手術をしたのは先生なんですから」


 韮田医師と看護師さんが揉めはじめる。

 どうして揉めているのかはわからないけれども、原因は自分にあるようだと薫は察していた。


「あの……」


 完全に外野となってしまった薫は思い切って、ふたりに声を掛けた。


「なにが、どうなっているんですか」


 その言葉に韮田医師は咳ばらいを一つしてから、落ち着きを取り戻したかのように話しはじめた。


「どうなっているか……か。それは私にもわからない。ちょっと、他の先生たちにも相談したいから、待っていてもらえるかな」

「はあ……」


 韮田医師はそれだけ言うと、病室を小走りで出て行ってしまった。

 看護師さんも韮田医師と一緒に出て行ってしまったため、薫は病室にひとり取り残される形となった。


 わたしのお腹に何かあったのだろうか。不安になった薫は、自分のお腹に目を向けてみた。

 いつもと変わらない。お腹がそこにはある。ちょっとだけ贅肉がついている気もするけれど、太っているわけじゃない。このお腹がどうかしたのだろうか。

 よくわからないなといった様子で、薫は自分の腹の肉を人差し指と親指で挟むようにして摘まんでみていた。


 しばらくすると、韮田医師が戻ってきた。一緒に三人の白衣を着た男の人がいる。

 ちょうど薫はベッドから起き上がって、ストレッチ運動をしていたところだった。


「え、動けるの?」


 そう言ったのは、一番年配と思われる白髪頭の医師だった。


「はい……」


 薫はまだ動いちゃまずかったのかなと思い、そそくさとベッドへと戻った。


「韮田くん、患者を間違えたりしていないよね」

「そんなことはありません、院長」

「すまないが、お名前を伺えますか」


 院長と呼ばれたオールバックの医師が薫に聞く。


「磯野薫ですけれど……」

「あってるな。間違いない」


 3人はお互いに頷き合う。


「あの、すいません。何なんですか、これ」


 困惑した薫は3人の医師に問いかけた。

 すると、そこへスーツを着た男女が病室へと入ってきた。


「被害者の意識が戻ったそうですね」

「ちょっと、誰が入れていいって言った」


 院長が抗議の声を看護師に向けたが、看護師は私ではありませんと言わんばかりに首を横に振っていた。


「磯野薫さんですよね。我々は警察の者です」


 女性の方が警察手帳と思われるものを薫に見せた。

 薫は警察手帳なんて初めて見るものだから、まじまじとそれを見ようとしたが、女性はすぐにその手帳を閉じてしまった。

 でも名前は見えた。女の刑事さんは高橋さんというらしい。


「昨日の状況をお聞かせ願えませんか」

「ちょっと刑事さん、困ります。まだこの患者さんは目が覚めたばかりで」

「事件解決には、情報が必要なんです」


 なにやら医師たちと刑事たちが揉めだした。

 病室ではお静かに。

 そう書かれている貼り紙は何の効果もないようだ。

 薫は言い争う大人たちを尻目に、開けっ放しとなっているドアから病室をそっと抜け出した。

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