磯野薫は死ぬことができない。
大隅 スミヲ
磯野薫(1)
あとひと眠りしてしまおうか、それとも起きようか。布団の中で悩んでいるうちに、スマートフォンの目覚ましアラームが鳴ってしまった。
ベッドから飛び起きた薫は、パジャマを脱ぎ捨てると部屋を出て洗面所へと直行する。
女子高生の朝は忙しいのだ。
寝ぐせだらけの髪をブラシで整え、朝食のトースト2枚と目玉焼き、サラダ、牛乳というセットを胃の中へと流し込む。
育ち盛りの薫は、朝食をしっかり食べても2時限目には空腹感を覚え、3時限目の終わりには持ってきた弁当を食べている。
朝の情報番組で、今日の運勢と天気とアイドルグループの最新ライブ映像をチェックして、スマホでクラスの連絡ルームとSNSで推しの情報をチェックする。もちろん、特定の友人たちとの朝のメッセージでのやり取りも忘れない。
制服を着たら、もう一度、鏡の前でチェックをして……とかやっている間に、登校時間が迫っている。
靴を履くと同時に玄関から飛び出し、なかなか来ないマンションのエレベーターを尻目に階段を一段抜かしで降りていく。
駅までは自転車で行き、満員電車で押しつぶされそうになりながら学校まで向かう。
背負ったリュックサックが邪魔だという目で見られるが、リュックサックまでがわたしの占有スペースなのだという主張を崩さない。
もはや、朝の戦争はサラリーマンだけの特権じゃない。女子高生だって戦っているのだ。
学校では、勉強はもちろんのこと、クラスメイトたちと良好な関係を築き、自分のポジションを守りきる。気になる男子には、出来る女子というところをアピールすることも忘れない。
そんなこんなで授業を終えて、クラスメイトとくだらない話で盛り上がりながら帰る支度をはじめる。部活はバレー部に所属しているけれども、今日は部活が休みの日だった。
学校から出て最寄り駅までクラスメイトたちと一緒に歩いて帰る。途中、コンビニでアイスを買って、あーでもない、こーでもないと、どうでもいい話で盛り上がる。
気がつけば、辺りは薄暗くなってきていて、誰かが「ヤバい、バイトに遅刻する」と言い出して解散する。
残念なことに、薫と同じ方向に帰る子は誰もいない。線路を挟んで反対側のホームに固まる友人たちに手を振りながら、帰宅ラッシュの電車へと乗り込んでいく。
運よく目の前に座っていた人が下りたため、帰りの電車は座って帰れた。
最寄り駅につき、自転車置き場で鍵を探したけれども、いつも鍵を入れているはずのリュックサックのポケットには鍵が入っていなかった。
「え……最悪」
薫は独り言をつぶやきながら他のポケットも探してみる。全部のポケットを探してリュックサックの中を漁ってみたものの、自転車の鍵は見つかることは無かった。
「あ……」
突然、薫の頭の中に記憶がよみがえってきた。
体育の授業の時にジャージをリュックから取り出した時に鍵が落ちたんだ。それで拾って、ジャージのポケットに入れた……。ああ、馬鹿だ。なんて馬鹿なんだ。
薫は頭を抱えた。その鍵をポケットの中に入れたジャージは、学校のロッカーの中に置いてきてしまった。
「くそっ!」
自分に対して腹が立ち、怒りの声をあげる。
すぐ近くの自転車を取り出そうとしていた同い年くらいの眼鏡をかけた男子高校生が怯えた顔でこちらをみていた。
なに見てんだよ、見てんじゃねーよ!
と、ヤンキーみたいなことは言わず、薫は見られたという恥ずかしさのあまり、顔を背けて駐輪場からダッシュして逃げ出した。
「あーあ、やっちゃった」
独り言を呟きながら歩いて家に帰る。徒歩だと家までは20分くらい時間がかかってしまう。
自転車の鍵、学校に忘れたから歩いて帰る。と、とりあえず家族にメッセージを送ったが、誰からの既読も付かない。きっと、いまは誰も家にいないのだろう。
たしか、机の引き出しにスペアキーが入っていたはず。あとでそれを持ってもう一度来るか。あー、面倒くさい。お父さんかお母さんが代わりに取りに行ってくれないかな。
薫がそんなことを考えながら歩いていると、前から黒いパーカーのフードを被り、黒いマスクで、下半身はブラックジーンズに黒いナイキのスニーカーという全身黒ずくめの格好をした男の人が歩いてきた。
なんか全身真っ黒ジャン。忍者かよ。こわっ。
もちろん、それは心の声。
すると次の瞬間、薫はお腹の辺りに違和感を覚えた。
え?
黒ずくめの男は、そのまま横を通り過ぎていく。
膝に力が入らなかった。
なにこれ、なんか、お腹の辺りが熱いんだけど。
アスファルトの上に膝から崩れ落ちた薫はお腹に手を当てて見る。
ぬるっとした感触。
慌てて自分の手を見ると、手が真っ赤に染まっていた。
え……なにこれ。
膝から完全に力が抜け、地面へと崩れていく。
衝撃。
顔がアスファルトの地面にぶつかる。
「きゃー!」
通りかかった買い物袋を提げたおばさんが、甲高い声の悲鳴をあげる。
え、やだ。わたし死んじゃうの。
薫はそう思いながら、ゆっくりとまぶたが閉じていく感覚に逆らえなくなっていた。
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