第7話 咳
その日、ユーフラジーは臥せっていた。
咳が止まらず、起き上がることもできない。
記憶を失くし、拾われた当時からそうだった。胸の病気だった。
ピエールが勉強を終えた後に、ユーフラジーのもとにヴィクトルがやってきた。
「つらいのですか」
「あら、優しいんですね。警部はそんなこと言わないでしょうに」
「仕事は終わりましたから」
ヴィクトルは凍てつくような瞳に魅入っていた。
昔の『ひばり』もこんな
咳こむユーフラジーに、ヴィクトルは触れるのをとまどう。
仮にその辺にいる女だったら、親切に背中をさすってやっただろうが、相手は修道女。そして悪く思わない相手。
怪しい咳に、ヴィクトルは覚えがあった。
故国にいた頃、医者だった母親が見ていた患者。その一人にこんな咳をする者がいた。治療が遅れれば血を吐き死ぬ。
だが、もし遅くなければ……。
「シスター・ユーフラジー。医者を呼びましょうか」
ヴィクトルは重い空気の中口を開いた。しかし。
「いいえ。この咳は生まれつきですから、神にもらったものなのです。いずれ死ぬでしょうが、それは光の中の死です」
「けれど子どもたちに感染るかもしれません」
「……。それならば、いけませんね」
ヴィクトルは窓際に行き、口笛を吹いた。ピューっという音ではなく、カラスの鳴き声のようだった。
数十秒して、窓にカラスがとまった。
カラスは人の言葉のような鳴き声を出し、ヴィクトルは応じてこの国の言葉ではない発音で話した。
カラスは飛び去り、曇り空に消えた。
「今のはカラスに話していたんですか、警部さん」
「医者を呼びました。
今起こったことはヴィクトル……ブライユ警部の謎として有名だった。
ブライユ警部はアリーの街のカラスを掌握している。そして自ら作った言語を教え込み、密偵あるいは伝達に使う。と。
「この術を以って、警部の位置に上り詰めた」と言う者もいる。
しばらくしてルブランという医者がやってきた。
彼はアリーの警察本部に隠密に関わっている闇医者で、ル・ブラン……『白』と呼ばれているのは、血を扱わない。つまり普通の医者のように瀉血で治療を行うことがないということである。瀉血と薬が主な治療の中、ルブラン氏は心理療法、注射、食事療法、ありとあらゆる邪道を以ってして治療をし、仲間のいざこざに巻き込まれ免許を剝奪された。元々は数学者で、哲学にも造詣が深い。そういったことがいさかいの原因だったとされる。
ルブラン氏はユーフラジーにいろいろな質問をし、定期的に診察をするとヴィクトルに言った。
「警部。彼女の病は体のものじゃありません。ですが生まれ持った体質がそうさせ、さらには世の中の毒にやられて、こうなっているのです。精神をよくすれば治るでしょう」
こそりとルブラン氏はヴィクトルに告げた。
「あの、お代は。私は修道女ですからお給料などはなくて」
ルブラン氏はにこりと笑う。
「警部からいただいてますよ。だが金じゃない。次の仕事です。ですからお金はご心配なさらず」
彼はそう言って帰っていった。
ユーフラジーの病気について、ヴィクトルはルブラン氏から手紙を受け取った。
『ブライユ警部殿。
シスター・ユーフラジーについて、ご説明を致します。彼女は神経が生まれつき弱く、心因性の病気であると推測されます。それは彼女の生い立ちに因んでいると私は考え、カウンセリングを交え、たっぷりの食事をとることで改善されると踏んでいます。そのため彼女は定期的な診察を必要とし、継続することも求められることでしょう。お代は日ごろのあなたへのお礼、彼女に会わせてくれることで手を打ちましょう」
つまり、ユーフラジーの病気は精神病に近いということだ。
精神病の患者は病院に収納され一生を終える。
ルブラン氏の娘がそうだった。ユーフラジーをそうさせないためには、根付き始めたカウンセリングという最新の心理的治療を受ける必要がある。つまりは実験台の一人になってもらうという意味でもある。
哲学者らしい、とヴィクトルは思った。
ユーフラジーは物思いにふけっていた。
自分が周囲につき続けている嘘について。
『ユーフラジー』という名前は記憶を失くした自分が唯一覚えていた名前だった。
普通であれば、修道女は洗礼名を名乗るのだが、ユーフラジーは洗礼を受けておらず、よって修道女でもない。
修道院でも修道女として扱いを受けていないし、修道女見習いの少女の中にいただけだった。
今回孤児院に派遣されたのは、厄介払いされただけであって、慈善のためではない。
修道院下にある孤児院の運営として働き、そこで生きてくれということだった。
修道女は神と結婚すると考えられており、夫を持つことはおろか、恋すらできない身分だった。
孤児院の人々に『コゼット』……『不必要』と呼ばれているのは、修道女として『
それでも……。
ヴィクトル。ブライユ警部は最初から『シスター・ユーフラジー』と呼んでくれる。
心の奥があたたかくなる。
そのぬくもりを抱いて、ユーフラジーは眠りについた。
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