19話 ボイトレ
俺は松岡の勧めで、5月からボイトレに通い始めている。
田舎なのでそこまでボイトレ教室の数が多くなかったのだが、先生が思ったことをちゃんと伝えてくれる人だったことと、厳しめではあるが愛を持って生徒に接してくれる点に惹かれ、入会した。
そして、何より初回のレッスンで俺の世界が180°変えられたことが何よりの決め手だ。
遡ること5月初旬の体験レッスン。
「ーー体験希望の並川さんですね。よろしくお願いします」
「よろしくお願いします」
担当の先生は、松木良平さんという、男性の講師。30代〜40代くらいだろうか。少し厳しそうな印象を受けたので、なんとなく緊張している。
「事前にいただいた質問シートを元に、いくつか質問させていただきますね。もともと歌は歌われていなかった、とのことですが、何か始めるキッカケなどあったのでしょうか?」
「キッカケは友人に誘われたことですね。あと、その流れで学校の文化祭ライブに出よう、ってなって、それに向けて頑張ってみようかなと」
「なるほど……。じゃあそれまでに少しでも上達しなければいけない、ということですね」
文化祭は10月後半なので、文化祭までもう既に半年を切っている。
それまでに人前で恥ずかしくない演奏ができるようにならなければいけないので、独学よりプロの指導を受けながら練習していこう、というわけだ。
「でも僕、ほんとに素人の中でも上手くない方なんですけど、やっぱりボイトレに来る人たちって元々歌が上手い人たちばかりなんでしょうか……?」
「いえ、まったくそんなことありませんよ。今までやったことないけど趣味で始めてみたい、という理由で入会される社会人の方も多いですし」
「そうなんですね」
「はい。大事なのは、これからどれだけ並川さんが上手くなるために努力できるのか、ということだけですね。ボイトレは病院ではないですので」
「病院……?」
ボイトレは病院ではない。
独特な表現だが、一体どういうことだろう。
「私たちボイストレーナーは、あくまで皆さんをサポートする立場、です。ですので、ボイトレに通っているだけで歌が上手くなるわけではありません」
「な、なるほど……」
「こちらは皆さんの上達を全力でサポートするのですが、薬のようにその場で効き目があるわけでもないですし、何より自身の努力がなければ絶対に上達はしません」
「そうなんですね」
「はい。ですので、スポーツジムのようなものだと捉えていただいて結構です」
ボイトレに通うだけでは歌は上手くならない。分かってはいたが、やはり何事も、上達には自身の努力が欠かせないのだ。何もしなくても上手くなるのは現実ではあり得ない。
「もしかしたら、ボイトレに通っても、すぐには効果が出ないかもしれません。ですが、やり続けることによって必ず上達していきます。やり方が間違っていたら、いくら量を積んでも無駄になることもありますが、そこに関してはプロである私たちを信頼していただけたら幸いです」
「わかりました。よろしくお願いします!」
松木先生は、悪いところがあればハッキリと伝え、こちらをあまり甘やかさないタイプのようだ。
目標は通う生徒によってそれぞれなので、それに合わせて指導のスタイルを変えるようだが、俺のようにちゃんと上達したいという生徒に対しては厳しめに指導していくみたいで。
ただ、そのくらいの方が上達という面では早いだろうし、俺は今までサッカーをやってきているので、多少厳しかろうと食らいつけるだけの根性は持っているつもりだ。
「では、早速ですがレッスンの方始めていきましょう」
「はい」
レッスンの内容の8割は発声練習のようだ。
「私が先に手本を見せますので、並川さんはその後に続けて私の発声を真似してみてくだはい」
「わかりました」
「まずは裏声、ファルセットのメニューからいきます。フゥ〜〜〜。さん、はい」
「ふ、ふぅ〜〜〜」
松木さんがピアノで出した音と同じ高さ声を裏声で出していく。
大声も裏声も出したことのない俺なのだが、見よう見まねで声を出していく。
しかし、もう既に困難に直面している。
正直、かなり恥ずかしい。
やってみて分かったが、発声練習とは、普段出さないような声を出すものであり、側から見たら奇声のように聴こえる。
発声練習のメニューは基本、変な声を出し続けるものなのである。
発声練習とはそういうものなので、恥じらいがあると上手くこなすことができない。
なのでまずは、その恥じらいを捨てる作業から始めなければならない。
今回は裏声のメニューをこなしてみたが、まだ序盤のあたりで声の高さが届かなくなり、次のメニューにいくことに。
「音程自体は合ってますが、まだ上手く声が響いていませんね。それもあって高い音も出しにくそうにしているようですので、もしレッスンに通っていただくことになったら、まずはそこの感覚から掴んでいってもらうことになります」
「はい……」
「あとは恥じらいは捨てることですね。発声も歌も、上手な人は恥じらいがありません」
俺が先生の手本を真似て出した声は、聞くに堪えないものだった。技術不足でもあるのだが、恥ずかしがってメニューをこなしてるようでは話にならなかったのだ。
その後、様々なメニューをこなし、最後は歌に。
俺は、今度ライブにも行くあのバンドの曲を歌う。
「ーー♪ーー♪」
歌を生業にしている人に自分の歌を聴かせるのは初めてだったので、緊張していつもより上手く歌えなかった。まあ、いつも上手くないのだけども。
「どう……でしょう……」
「そうですね、まだ歌い始めということですので、歌のうまさというより、並川さんが持つ歌声がどうなのか、というところに注目して聞いていたのですが、少し優しめな声だな、という印象を受けました」
「確かに、僕もなんとなくそう思っていました」
「歌は人柄が良く出ます。並川さんは話してみた感じそこまで気性が荒々しいタイプではなさそうですし、どちらかというと大人しめな印象ですので、それが歌に出てるな、という感じです」
「でも、この曲を歌うには、もう少し力強さが欲しいな、って思っていまして……」
「そうですね。今の曲も、ジャンルとしては激しめなロックではなくて、どちらかと言えばポップ寄りのロックではあるのですが、とはいえやはり力強さはもっと必要かな、と思いますね」
「そういうのって、練習次第で身につくものでしょうか」
「もちろん。自分の声を180°変えるのは難しくても、自分が目指す声があれば、それに寄せていくことは可能だと思います。向き不向きや限度はあるので一概には言えませんが」
松木先生は、俺の質問に対して、言葉を濁さず素直に回答してくれる。
また、俺は周りと自分を比べてしまいがちなので、ついこんな質問もしてしまった。
「僕は、その……。こうやって習いにくる人たちの中で、どれくらいのレベルなのでしょうか」
少し間を置いて、松木先生は俺に忖度なしの言葉を放つ。
「ボイトレに来る人の中には、歌をもともとやっていて、より上手くなるために習いにくる人も当然います。また、これまで歌をやっていなくても、センスのある人というのはいます。今日の発生練習や、今の歌を聴いた限りでは、並川さんはそういう人たちと比べて、ここに来た時点での能力値は決して高くない部類になると思います」
あまりの切れ味の鋭さに心が折れかけたが、俺が聞きたくて聞いたことなのだから仕方ない。
松木さんはあまりそういうことに対して嘘はつきたくない、とのことだが、俺にとってもそっちの方が変な勘違いをせずに済む。
しかしそれにしても、最初からかなり厳しい評価をされてしまった。
「ただ、」
「……?」
「初めのうちは、誰しもがそういうものです。始めるのが早かった人たちや、初めから才能ある人たちよりも、そうでない人の方が割合で言えば当然多い。何も悲観することはありません」
「えっと……。僕は小さな頃からやってないし、そんなに才能もないタイプなのも今日改めて自覚しましたが、そんな僕でも歌って上手くなるものなのでしょうか……」
先ほど厳しい言葉をもらったので、少しネガティブな質問になってしまった。
「それは努力次第です。もちろん、才能ある人たちよりも時間はかかるでしょう。ですが、歌の上達は、継続次第でどこまでも伸びていくものです。結局は、正しいやり方でどれだけ適切な量をこなしていけるか、それをどれだけやり続けられるか、です。」
「なるほど……」
「勉強と似ています。正しいやり方で正しい量をつめばある程度誰でも成績が上がるように、歌に関しても、自分次第で「一般的に歌が上手いと言われる人」のラインまでは確実に上達できます。才能云々の話は、まずそれらをこなしてから、です」
おそらくこれは、嘘でとなんでもなく、松木先生の本心なのだろう。
その言葉には、揺るぎない先生の魂がこもっている気がした。
「かくいう私も、歌がもともと得意だったわけではありません。並川さんと同じく、文化祭で誘われて歌を始めましたが、それはひどいものでした」
「先生もそんな時期があったんですね……」
「はい。ですが、こうやって、人に歌を教えれるくらいには上達しています。だから、私は並川さんのような人ほど、自分を信じて努力を継続していってほしいと願っています」
先生の言葉は、俺の心にすっと入ってきて、なぜだか勇気が湧き出てくる。
少年漫画の主人公になった気分で、普段の臆病な自分じゃ絶対に出ない言葉が浮かんでくる。
「せ、先生……。俺、ボイトレ、続けてみたいです。先生が言うように、時間がかかってもやり続けて、いつの日か歌が上手くなれるようになりたいです!」
それを聞いた松木先生が、ニコッと、包み込むような笑顔をこちらに向けてくれた。
「もちろん、大歓迎です。並川さんに上達したいという意志があれば、我々は全力でそれをサポートしますよ」
「……ありがとうございます!」
俺は、今まで何一つとして、最初から人よりも優れたものはなかった。
それは今でも変わりない。歌だって、今の俺は目も当てられないくらい下手くそだ。
今までの俺ならば、「自分には向いてない」と諦めてしまっていただろう。
でも。
自分を信じて誘ってくれた松岡や、支えてくれる先生がいるなら、そんな俺でも努力してみたいと思う。
上手くいかなかったとしても、自分のできる限りのことはやりたい。
何も無い俺ができるのは、何も無い状態から一つ一つ積み上げていき、「何かある俺」になることだ。
やれるだけやってみよう。
それが少しずつ自分の「自信」に繋がっていくのだから。
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