第58話


 頬をつねる。


 目を思いっきり閉じてから開く。


 力いっぱい腕を振ってみる。

 

「やっぱ無理かぁ……」


 夢から覚めれない。


 さっさと来いと言わんばかりの存在感を放つ神殿から目を逸らして、時間を潰しす事にしよう。


 試しにそこらを泳いでいる魚を掴もうと手を伸ばす。


 勿論スライムに戻した手で。


 普通に触れたので『溶解』をすると、表面が溶け、中から人の顔が出てきた。


「……は?」


 思わずそれを投げ捨てる。


 浮かんできた嫌な予想を確かめるため、珊瑚の枝を手折って溶かす。


 今度出てきたのは、複数の人の手や足だった。


「もしかして、夢に魅入られた奴らの末路か、これ」


 外面を美しく彩られた海底の世界の内側は、酷くおぞましいもののようだ。


 遠くにある神殿に目を移す。


 山のように巨大なそれの内側は、果たしてどれ程の人の残骸があるというのか。


「――オォ、アァー……ア」


 魚の内から出てきた顔が声を出す。


 どうやら残骸になっているのではなく、ちゃんと生きているらしい。


 ……いや、どんな地獄だよ。


 首から下が無いが、夢だから声を出せるのかな。


 見た感じ、もう精神は壊れてしまっているようだが。


「おい、話はできるか?」


 顔に声をかけてみるが、予想通り反応は無い。


 ただ呻き、苦悶の顔を浮かべ続けている。


 クタニアの話では「夢に魅入られた者は眷属になる」という事だが、こいつらは違うのだろうか。


 俺のように拒んだり、人を辞める事を嫌った者も居るのかもしれない。


 あるいは内部での粛清や見せしめ……敵対者という線もあるか。


 あの二枚舌死霊術師がこうなっても心は痛まないな。


 そういえば、薬による洗脳の仕組みも良く分かってないんだよな。


 漠然と魅了されて言いなりになるみたいなイメージだけあって、中身はそんなに気にしてなかった。


 実際には拷問のような事もするのかもしれない。


 精神が物理的に死ぬ事は無いのだから、無限に痛めつけられるだろう。


 眷属になる事でしか救われないような奴らには、ここは魅力的な世界なのかもしれない。


 あの神殿にますます行きたくなくなってきた。


 現実に帰りたい。切実に。


「そういえば、現実だとどうなってるんだ?」


 夢の世界での時間の経過は、恐らく現実よりも早い。


 そんな話をどこかで聞いた事がある。


 一夜の夢で、体感で数週間の時を過ごしたとか何とか。


 この夢もそうである保証はないが、そう思っていた方が精神衛生上よろしい。


 しかし、そうなると一体どれほどの時間が経てばこの夢から覚めるというのか。


 こんな事になるのなら、ソノヘンさんに司教の見た夢の内容を聞いておくべきだったと後悔する。


「……行くしかないか?」


 ずっとここに立っているが、景色は変わらず、眷属の姿も見えない。


 試しにあの落ちる夢を想像するが、景色が戻る事はなかった。


 仮に目が覚めるまで、体感時間で一年かかるとすると、その場合は俺の気が狂うだろう。


「行きますかぁ……」


 他の選択肢がない……思い付かない。


 相手が主導権を握っている状況というのは、生きた心地がしない。


 神殿に向かって足を踏み出すと、全身に異様な寒気が走る。


 呼吸が止まる。足が止まる。思考が散り散りになって纏まらなくなる。


 この感覚は知っている。


 ライズヘローで銀の『外なるもの』と遭遇した時、そして、前世で死んだ時に味わった恐怖だ。


「……眷属だけじゃない……『外なるもの』が居るのか?」


 行ったら死ぬ。


 そう直感が叫んでいる。


 逃げよう。


 この先に座すものの存在感は死霊術師が呼び出した『外なるもの』の比じゃない。


 蟻のような小虫が天災から生き延びるには、安全な場所に引き籠る以外の選択が無いのと同じだ。


 硬直した足を引き摺って、じりじりと下がる。


 そして、ゆっくりと下がったからこそ気付けた。


 振り向けば、背後は底の見えない海溝のような断崖になっていた。


「――マズい、仕掛けられてる」


 銀の『外なるもの』もそうだった。


 俺がその存在を認識した時、あちらも俺に気付いた。


 今まさに、遠い所からの視線を感じている。それが徐々に近づいてきている。


 ご立派な神殿に住んでる身でありながら、わざわざ向こうから来てくれるようだ。


 何一つとしてありがたくない。


「どうする……」


 ここで抵抗をするか、海溝に落ちるかのどちらかだ。


 俺が迷っている間に、この夢の主――『外なるもの』が、その姿を顕した。


 一瞬で彼我の距離が無くなった。


 俺の視界の全てを埋め尽くすほどの巨体が降臨する。



 全身を黒い半透明の粘液に覆われた鯨のような巨体に、人や獣、虫に蛸など……とにかく、様々な生物の手足が、鯨であれば「ひれ」がある位置から無数に生えている。粘液の下は群青色の鱗に覆われていて、黒い触手に覆われた頭部に、昏い虹色に煌めく鉱石のような単眼があった。


 そして見上げる腹部には顔があった。


 人は勿論、犬や猫、馬などの動物、多種多様な魚と海老などの海洋生物の顔が、無数に並んでいた。


 取り込んでいるのだろうか……人だけではなく、この世界に生きる、精神を持つものの全てを。



 比較的簡潔に表現するなら、鯨と百足ムカデを足して、腹部に色々な生物の顔をつけて、手足を「おしゃれ」にして、頭を黒い触手で覆っているという感じか。


 すでに最悪の状況だが、こっから更に最悪な可能性に気付いた。


 秘薬が夢と現実を繋ぐ道標となる条件には、おそらく肉体の変貌が含まれている。


 何が言いたいのかというと、俺には元の体に戻るための道標が無い可能性が非常に高いという事だ。


 異形の『外なるもの』は、頭部の単眼で俺を覗き込むように見つめてくる。


 そして黒い触手をゆっくりと動かして、包み込もうとしてきた。


 全てを諦めたら楽になれるのだろうか……。


「まあ諦めないんですけどね、初見さん」


 絶望を誤魔化すように、努めて軽い口調で言い放つ。


 変質魔力『加速』『溶解』『破壊』『精神防御』『精神安定』を全身に纏う。


 黒い触手を攻撃するが、覆っている粘液を少しばかり削るだけで、ダメージは与えられていないように見える。


 ゆっくりと動くそれを、ほんの一瞬止められた程度。


 やはりと言うべきか、力の質も、量も、下水道の奴とは格が違う。


 こちらの魔力が侵透する前に、相手の魔力に塗り潰される。


「(なら逃げの一手だ)」


 攻撃は通じないと判断して『溶解』と『破壊』を解除する。


 黒い触手を振り切って、海溝に身を投じた。


 少し距離が取れた所で、この夢から覚めるための方法を考える。


 仮説として、現実の肉体を原点と置き、そこからどの向きに、どれほど離れているかを知る事で、後は魔力でどうにかする手段を思い付く。


 実行に必要な概念は『次元』『接続』『跳躍』の三つとしておく。


 消費魔力はこの際考えない事にする。足りなかったら終わるだけだ。


 この仮説の問題は、現在の座標の獲得方法が思い付かないという事。


「夢の世界が現実から見てどの方向にあるとか、分かんねぇんだけど……」


 しかも普通の夢ではなく『外なるもの』が創造したと思われる夢だ。


 理論上は虚数方向にある……なんて仮説を立てても、実際の人間の観測能力では分からないだろう。


「■■■■■■■■■■■■■」


 鯨の鳴き声のような音が響く。


 その音を認識した瞬間、俺は広い空間に立っていた。


 白い床と壁に覆われていて、出入り口は一切見えない、完全に密閉された空間。


 上を見上げれば、異形の『外なるもの』が俺を睥睨へいげいしていた。


 逃がす気はさらさらないらしい。


 もっと油断して欲しいんだけど……駄目?




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