第49話
一か所に集まった黒い粘液が、拡張と収縮を繰り返し蠢く。
暗い下水道の中で、なお暗い闇を凝縮させたような存在が現れた。
闇の塊に、人に似た目が、口が生える。
一つ、二つ、三つと増えて行き、数えるのも面倒な程に増えていく。
高さだけでも俺の二倍。横幅は十倍くらいの体格差がある。
ギョロギョロと動き回る目玉。
金属同士の擦れるような不快な音を零す口。
死霊術師の言葉が確かなら、これこそ異界から呼び出された怪物。
名状しがたい『外なるもの』と呼ぶに相応しい異容がそこにあった。
「(早々に弱点を見つけたい……)」
分裂させてた触手を左右一本ずつに纏める。
同時に、忙しなく動き回っていた目玉が俺を捉えた。
「■■■■■■■――!」
無数の口から、人では表現できない異様な音が響く。
視界がぐらつく。意識が掻き乱される。
気が付くと、俺は黒い海に溺れていた。
そこには死者達が溺れながら、しかし既に死んでいるのでこれ以上死ぬこともできず、永遠に苦しんでいる。
自分もそこに居る。呼吸もできず、筆舌し難い
――いや、今の俺に呼吸は必要ない。苦しむ事は無いはずだ。
「これは幻覚だ!」と確信すると、意識が黒い海から急激に浮上していく。
幻覚を打ち破ると、眼前に闇の塊が迫って来ていた。
「ちょっ!」
慌ててその場から飛び退く。
さっきまで俺が立っていた場所に、
悪意と殺意に満ちた目が俺を睨み、口からは呪詛のように重苦しい音を零す。
敵の継戦能力は不明。息切れは期待すべきではない。
とにかく情報が少ない。
何でも良いから攻略の足掛かりになる情報が欲しい。
その為には、攻撃あるのみ。
変質魔力『冷凍』を触手に付与してから敵の眼球目がけて叩きつける。
冷気が浸透して目が凍り付いた。
しかし怪物が身体を揺すると、薄氷を踏み割るような軽快な音が響き、凍り付いたはずの目が再び動き出す。
「(冷気は効果薄いか……)」
次の手を考えながら距離を取る。
睨みあっていると、急に右足が何かに絡め取られた。
「!?」
有刺鉄線のような闇の触手が柱の後ろから回り込んで来ていた。
しかもかなり素早く、反応ができなかった。
足に刺さった闇の針が、内側で形を変えながら暴れ回る。
急ぎ変質魔力で『溶解』すると、無事に溶かす事ができた。
溶かされた事を察知してか、闇の触手は足を解放して離れていく。
「(もし痛覚があったらと思うとゾッとするな……)」
この身体で良かった。
もし人間に転生してこんな事されたら痛みで失神する自信がある。
折角なので溶かした怪物の一部を吸収しようとして……。
「ヴぉぐえ!」
その瞬間、強烈な不快感と吐き気に襲われる。
忌避感が凄まじく、本能的にこれを吸収してはならないと感じてしまう。
「(無理だ、吸収できねぇ! なんで!?)」
初めての事態に若干混乱してしまった。
俺が体勢を崩したのを見てか、怪物から再度闇の触手が放たれる。
「ぐぅ……」
回避に失敗して、身体が削り取られる。
今度はヤスリのように細かな刺に覆われた触手だった。
伸ばした触手を引く時は、別の場所を削りながら引いていった。
どんだけ痛めつけたいんだよ!
まず見辛い状況を解決する為に、魔術『光明』を発動する。
魔力視だけだと、触手と本体の位置が被っている時に判断が遅れてしまう。
なので目視で見えるように光源を確保する事にした。
「■■■■■!」
「む?」
光を浴びた怪物が、金切り声を上げながら溶けていくのが見えた。
闇の身体が蒸発し、霧のようになっていく。
「(光が弱点か!?)」
そう思ったのも束の間、霧状になった怪物が纏わりついてきた。
怪物の異質な魔力が俺に入り込もうとしてくる。
「痛っ!?」
全身を熱した鉄の針で突き刺されたような激痛が走る。
痛覚が無いはずのスライムの身体でなんで痛みが!?
怪物がどうなっているか見てみると、粘液の半分程が霧になっていて、中央だった位置に魔力の核のようなものが見えた。
肉眼での目視では映らず、魔力視でのみ見える。
霧が濃くなると、痛みが劇的に増していく。
「あが、がっ……がひゅっ」
激痛のあまりに口からは言葉にならない声が零れる。
ガリガリと内側を削られ、蝕まれていく感覚に気が狂いそうになる。
「(これ食われてる!?)」
自分というものが削られ、消えていく喪失感に、酷い悪寒と、耐え難い恐怖が沸き上がってくる。
すると今度は、全身を粘液に包まれてしまう。
粘液に口が生え、今にも歯を突き立てようとしてくるのを感じる。
「クソが!」
口汚く叫びながら『冷凍』の魔力を纏う。
粘液が凍り付くのを確認して、筋力を強化して力任せに振り払う。
凍った粘液は脆く、どうにか脱出に成功した。
飛び散った欠片は即座に溶けて、意思を持っているかのように本体へと向かって行き、元に戻った。
凍らせて砕いても、ダメージにはならなさそうだ。
更に距離を取り、自己チェックを行う。
「(マジか……魔力が減ってる……)」
それと感覚でしかないが、精神にも直接ダメージを与えられた気がする。
いや、気がするじゃない、絶対食らった。
今まで眠気など感じた事もないのに、今は目蓋がやたら重い。
異様な息苦しさや胸の苦しさは、単に魔力を削られただけでは説明がつかない。
「(虎穴に入らずんば虎子を得ずとは言うが……)」
粘液が霧状に変化した後に見えた、中心にあった魔力の核のようなもの。
おそらくアレを攻撃できればダメージを与えられるだろう。
というか、そうでないと、マジで勝ち筋が見えない。
「(魔力視で見えるけど、単純な魔力っぽくないんだよな……何か混ざってるっていうか……)」
そこで一つ、ある考えが浮かんできた。
あの怪物は、精神、あるいは魔力生命体という可能性だ。
闇のような粘液で構成された物理的な肉体は、現実世界に落ちた影のようなもので、いくら攻撃をしても無意味なのではなかろうか。
であれば、精神や魔力そのものを攻撃する方法を試すべきか。
どの道、何かしら有効な攻撃手段を見い出さなければジリ貧だ。
にじり寄ってくる怪物は、嘲笑うように口々からけたたましい金属音を響かせる。
「(是非とも調子乗って油断してくれ)」
更に調子に乗ってもらえるように、怯えたように後ずさる。
俺を見つめる無数の目に、愉悦と嗜虐の色が宿る。
エグイ触手から何となく想像してたが、分かりやすくて大変結構。
「(何なら
変質魔力の候補を考える。
残存魔力的に試行回数はそう多く稼げない。
あの精神に直接苦痛を叩きこんでくる霧も、そう何度も耐えられないだろう。
慎重に、けれども即断しなければならない。
諦めはしない。生き残ってみせる。
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