Ⅷ 妄信の暴徒(2)

 その翌日のこと。皇帝領自由都市ニャンバルクの目抜き通り……。


「……ハァ……ハァ……ゴホ、ゴホ……ハァ、ハァ……」


 賑わう街の往来の中、往き交う人々の流れに揺蕩たゆたいながら、蒼白な顔をした一人の男が、息も絶え絶えに彷徨い歩いていた。


「……ハァ……ハァ……う、うぐぅっ……」


 やがて男は白眼を剥くと、最期の呻き声を力無くあげて、道のど真ん中で唐突に倒れ伏してしまう。


「……ひっ……キャアァァァァーっ…!」


 突如、路上に現れた奇怪な死人に、間近にいた若いご婦人が引き攣った顔で悲鳴をあげる。


「お、おい。肌がやけに白いぞ……こ、こいつは……は、は、白死病だあぁぁぁーっ!」


「は、白死病!? ひ、ひいぃぃーっ…!」


 ご婦人の悲鳴を合図にして、特徴的なその姿から彼の死因に思い至ると、瞬時に往来の人々は強行状態へと陥った。


 これが、このニャンバルク市における白死病流行の始まりであった……ついにこの街にも、あの恐ろしき病魔の災厄が到来したのである。


 しかもこの日、病魔に倒れたニャンバルク市民は彼ばかりではない……同時多発的に街のあちこちで、同様に血の気の失せた顔で絶命するものが相次いで現れたのだ。


 それから街全体が病魔に飲み込まれるまで、さほどの時間はかからなかった……瞬く間に感染者は拡大。命を失う者も相次ぎ、ニャンバルクは一瞬にして死の街へと変貌を遂げた。


 しかし、そんな死の街の中にあって、一箇所だけ白死病の魔の手から逃れられている場所があった……ダーマ人ゲットーである。


「見よ! 塀の外は病魔の猛威に晒されているというのに、我らの住まいだけはこの通り平穏無事じゃ! これぞまさに神の奇蹟! やはり、我らが神はダーマの民をお守りくだされておるのじゃ!」


「ああ神よ! ありがとうございます!」


「ダーマの民に栄光あれ!」


 会堂の前で演説する長老ヤーフェルの叫びに、集まった群衆達も神への感謝を各々その口にする。


 ヤーフェルのその言葉はいかにもダーマ人の選民思想的哲学からくるものであったのだが、その主張はある意味、間違っているとも言えなかった。


 無論、〝神〟と呼ばれるような存在が彼らだけを特別視したわけではない……ゲットーだけが白死病禍から逃れられたその秘密は、ダーマ教の教義──即ち〝戒律〟の遵守にある。


 ダーマ教では、預言者モルゼフが神と交わした約束──戒律を守って生きることを絶対視する。


 それは、彼らの唯一の神のみを信仰することや偶像崇拝の禁止にはじまり、殺人や窃盗などの罪を犯さないという当然の法から、父母を敬うことや嘘を吐かないこと、他者を羨まないことなどの社会道徳に至るまで、事細かにありとあらゆる行動が規定されている。


 その中でも特に不倫や姦淫を避けることと、礼拝の前には沐浴して身を清浄に保つことが、この白死病の流行に対して大いに防疫の任を果たした。


 この戒律によって他者との不要な濃厚接触が制限され、また、沐浴により病原菌が洗い流されることで、街のプロフェシア教徒に比べて格段に感染率を抑えたのである。


 加えて、ここがゲットーという壁で外界から隔離された場所であったことも、市街地からの病原菌流入を退けられた一因であろう……つまり、彼らがダーマ人であったからこそ、白死病の災禍を免がれえたというのは、ある種、正しいとも言えるのである。


 さらにもう一つ、ゲートーのダーマ人達を白死病の魔の手から救ったものがある……それは、今は亡きエリアス・バルシュミーゲの残した遺産だ。


 彼らはご近所に住むお得意様として、エリアスの造った水銀を原材料とする殺鼠剤を買い、そして、それを使ってゲットーのネズミを残らず駆除していた。


 ネズミは白死病菌をばら撒く最大の運び屋である……故に、それを死滅させたことが結果として同胞達を病原菌から守ることへも繋がったのであった。

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