Ⅰ ダーマの民(2)

「──うわっ! …ケホ、ケホ……ハァ……やっちまった。また失敗か……」


 ボン…! という爆発音とともに白煙で満たされる、古い漆喰造りの〝錬成所ラボラトリウム〟の中で男は咽せながら嘆く。


 頭にトンガリ帽を被ると茶のローブを羽織り、ダーマ人らしく立派な口髭を蓄えた男の名はエリアス・バルシュミーゲ。錬金術師を生業なりわいとしているこの一家の主だ。


「パパ! 今の音なに!? …コホ、コホ……また実験失敗して爆発させちゃったの?」


 その大きな音を聞きつけ、赤ずきんを被った少女も錬成所ラボラトリウムの中へと入って来ると、驚くというよりはどこか慣れた様子で、煙を手で煽ぎながらそうエリアスに尋ねた。


 赤ずきんの下には栗毛の髪をツイン三つ編みおさげに垂らし、甘ロリ風のエプロンドレスを身に着けた青い眼の少女はマリアンネ・バルシュミーゲ。15歳になるエリアスの一人娘だ。


 母親はずいぶんと前に病で亡くなっており、エリアスとマリアンネは父一人と娘一人の二人だけで、このゲットー内にある小さな家に暮らしていた。


「…ゴホ、ゴホ……いやあ、上手くいくと思ったんだけどなあ……結合を加速させるかと、試しに硝石と炭を加えてみたのがいけなかったようだ……」


 煤で真っ黒になった顔に苦笑いを浮かべ、そう言い訳を口にするエリアスの周囲には、大小様々な土でできた専用の炉にはじまって、フラスコやら蒸留器アレンビックやらが所狭しと並べられている。


 今日も彼は錬金術師の常として、霊薬〝賢者の石エリクシア〟を創り出すための錬成実験を自室で行い、そして、これまたいつものことながら、実験に失敗して原質を加熱する炉ごと爆発させたのだった。


 〝賢者の石エリクシア〟……それは、卑金属を貴金属に、不完全な人間の霊性を完全なる神と同じ存在へと進化させ、あるいは全知全能の知識を与え、不老不死にさえするとされる万能の霊薬である。


 複雑多岐にわたる〝大いなる作業マグヌス・オプス〟により、その霊薬を創り出すことこそが錬金術師が目指す究極の目的なのだ。


「ま、いつものことだけどね。にしても、今回もまた派手にやらかしたねえ……ほら、そんな反省会は後回しにして、パパも片付け手伝ってよ」


「すまないな、マリアンネ。私が不甲斐ないばかりにおまえにも迷惑をかけて……賢者の石エリクシアさえ創り出せれば、もっといい暮らしをさせてやれるんだけどな……」


 文句を言いつつも、すでに散らかった部屋の片付けを始めている気立の良い愛娘に、エリアスも箒を取りに向かいながら申し訳なさそうに告げる。 


「なに言ってんの。そう簡単に賢者の石エリクシアが創れちゃったら、今頃、世界中の錬金術師が大金持ちだよ。別に今の稼ぎだけでも充分食べていけるんだから、そんな焦ることないよ? さ、それよりも早く片付けて朝ごはんにしよ?」


 対して、よくできた娘は手を止めることなく、そんな父親をさりげなく慰めると、ひどい散らかり様の室内をなんとかするよう、改めて促した。


「──それじゃあ、行ってくるよ」


 黒くて硬いパンとチーズだけの粗末な朝食を済ました後、各種薬品の詰まった箱を背負うエリアスは、マリアンネに声をかけて家を出ようとする。


 錬金術師の最終目的は賢者の石エリクシアを錬成することであるが、そのための研究や実験の中で、図らずも様々な副産物を生み出すこととなる。


 例えば火薬だったり、鉱物由来の薬だったり、殺鼠剤のような毒物だったり…… 賢者の石エリクシアを創り出すのは極めて困難な所業であるし、余程の金持ちでもない限り、その研究だけで食っていけるわけでもないので、エリアスを含む多くの錬金術師達が、その副産物を売ることで生活の糧としていたりするのだ。


「行ってらっしゃい。忘れ物はない?」 


 いつものように行商へと出かける父を、朽ちかけた木製ドアの付く玄関でマリアンネは今日も見送る。


「ああ、大丈夫だ。腕章もちゃんと着けたしな」


 娘に尋ねられたエリアスは、左の二の腕に嵌められた白い腕章を、パンパンと叩いてみせながら笑顔でそう答える。


 その腕章の表には、ダーマ教徒が自らの象徴シンボルとする〝戒律の石板〟が図案化されて描かれている……その腕章はダーマ人であることを示すものであり、彼らがゲットーの外へ出る際にはその着用を帝国法で義務づけられているのだ。


「ねえ、それってどうしてもしなきゃダメなの? してなければ、ダーマ人だとわかって嫌がらせされることもないし、パパの薬だってもっとよく売れるだろうに……」


 その象徴シンボルの上に視線を向け、マリアンネは前々から思っていた疑問をなんとなく父にぶつける。


「そりゃあもちろんさ。法で決まってることだからね。なあに、この皇帝領であるニャンバルク市内なら、差別は受けても暴力を振るわれるようなことまではない。それに父さんの薬はよく効くからな。プロフェシア教徒にだってよく売れるんだぞ?」


 すると、エリアスは怒るでもなく、穏やかな微笑みを讃えたまま優しく娘にそう反論する。


「それにな。この〝戒律の石板〟が描かれた腕章を身につけることは、我々ダーマの民にとってはむしろ誇りだ。始祖達の時代より、変わらず神と契約した戒律を守り続けている証なのだからな」


 そして、微かに眼差しを真剣なものにすると、丁寧な言葉で彼女を教え諭す。


「自らの国を失って以来、各地に散った我らが同胞達は常に迫害を受ける宿命さだめにあるが、それはきっと、神が我々の信仰心をお試しになられているのだ。いかなる苦境においても信仰を捨てさえしなければ、必ずや神は救世主メシアをお遣わしになり、再び我らの偉大なる王国が復活することになるだろう。いわばこの腕章は、我々が神に選ばれし民族であることを示す確かな印……だからマリアンネ、おまえも誇りを持ってこの腕章を身に着けなさい」


「うん。わかった。変なこと訊いちゃってごめんね。わたしもこれからはダーマの民の一人として、その腕章を誇らしく思うことにするよ」


 ダーマ人の精神を代弁するかのような、父エリアスのお説教にマリアンネも素直に頷く。


「でも、最近パパは体調もよくないこと多いし、ほんとに気をつけてね」


「ああ。無理はしないから心配するな。じゃ、留守番を頼んだよ。特に火の元には気をつけるようにな」


 そんな娘に見送られ、小さく粗末ながらも錬成所ラボラトリウム付きの家を出ると、狭い路地を潜り抜けて、エリアスはゲットーの出入口へと向かった──。

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