第2話

「りえちゃんが〈歩く空気清浄機〉って言ってたのをたまたま覚えてたのよね」

 歩く空気清浄機。

 遥斗のことである。かつて神宮寺家はその特殊な体質を生かした〈憑き物落とし〉で知られており、その名残は先祖返りした遥斗に色濃く受け継がれていた。両親や兄は視えるものの祓えはしない。遥斗は逆で、何を相手にしているかよく視えないものの、大抵のものはそこに居るだけで追い払ってしまう。成仏させているのか、浄化しているのか、はたまた取り込んでいるのかは本人にもわからない。遥斗にかかれば怪しげなものがきれいさっぱりいなくなる、という結果だけがそこにあった。本人も深く思い悩むたちではないし、彼の母に至っては「顔が怖いからじゃない?」と笑って済ましてしまうので、真相は藪の中である。

 教室からの帰路。用心のためとはいえ、顔がいかつく身長も頭ひとつ高い遥斗と並んで歩くのは、八重にとってひどく緊張することだった。

 小学校の同級生といっても、特に仲が良かったわけじゃない。遥斗は幼い頃からあまり感情を表に出さない、よく言えば落ち着いた子供だったし、八重は八重で影が薄く引っ込み思案なものだから、交友関係が極端に狭かった。用事がなければ話さない、本当にただ同じ時間を共有しただけの間柄。それがなぜか、家まで送り届けてもらうことになってしまった。

 もちろん、祥子先生の差し金だ。

 自分のために時間を割かせることになる後ろめたさもあいまって、八重はなにかしら見返りを提供しなければと一生懸命考える。有益な話題、楽しい時間。しかしなにも思いつかない。遥斗も八重の家の方向を確認したきり黙ってしまった。いっそ開き直って月でも眺めていればよかったのだが、あいにく八重はそうした図太さとは無縁だ。

 苦しい。息がしづらい。大柄な遥斗が歩調を合わせてくれているのがわかる。ますます申し訳ない。家までの道のりがひどく遠い。

 徒歩十分あまり、自宅のマンションが見えて八重は心底ほっとした。

「あの、ここで」

「ああ、じゃあまた来週」

 なんとお礼を言おうかまごまごしているうちに、遥斗は来た道をあっという間に戻っていった。

 何を考えているかわからない。いい人、というより辛抱強い人なのだと思う。来週もこの苦行を強いられると思うと憂鬱だったが、いまは彼の存在が必要だ。

 自分がひどく打算的に思えて、八重は重たいため息をついた。


 翌週、遥斗は約束通りの時間にやってきてふたたび壁際におさまった。

 祥子先生に一方的に決められたことだけが不服だった様子で、じっと本を読んでいる様子はおとなしい大型犬のようだ。おかげで八重はレッスンに集中して、変な覚え方をした運指のクセを直したり、曲全体の抑揚のバランスにじっくり向き合うことができた。いずれも細切れの演奏では行き届かなかった部分だ。パートごとの反復練習も悪いことばかりではなく、スポーツで言えば動作を分解して集中的に訓練していたようなもの、ちゃんと力はついていた。ただ、ひとつながりに組み上げたときにどうしても齟齬が生まれるので、これは先生とともに正していく。そこを乗り越えれば八重はのびのびうたうことができるから、地道な作業だが苦にはならない。

 レッスン時間も残り五分になって、祥子先生が手を打った。

「そうそう、発表会の曲!」

 考えてきた? と問われて口ごもった。挑戦してみたい曲、好きな曲はいくつかあるが、華やかさを求められると自信がない。八重は近現代の、どこか危うい浮遊感を孕む曲に惹かれがちだ。その危うさは暗さにつながる。いっそ自分で選ばないほうがいい気がしていた。

「先生はどう思います?」

「すぐそうやって人に頼るの、良くないわよ」

 憤然と腕組みした先生は、しかし年長者らしい図太さでこう続けた。

「いっそ連弾なんてどう?」

「先生とですか?」

 ぎょっとして顔を上げた八重と目が合うなり、彼女はにんまりと笑って右親指をうしろに向けた。

「ううん、はるくんと」

「「ええ?」」

 八重と遥斗が同時に抗議の声を上げると、祥子先生は不思議そうに眉を上げた。

「はるくん弾けるでしょう、私が教えたんだから」

「弾いてたって中学までですよ」

「ただここで座ってるだけもひまでしょ」

「いや、これはこれで楽しんでますけど」

 彼がこちらに向けて見せた表紙には「ネッシーの謎」とあり、ぬらぬらと暗い色調で描かれた首長竜のイラストがいかにも怪しげである。

「なにそれ、あとで貸して」

「いいすよ、あとちょっとなんで」

「じゃ、決まりね」

 先生の声が途端に弾む。八重は激しく嫌な予感がした。

 この手の話題のすり替えは、祥子先生の十八番なのだ。

「やえちゃんはるくん、動物の謝肉祭のフィナーレと、ラプソディ・イン・ブルー、どっちがいい?」

「先生!」

「とりあえず聴いてみましょうか」

 準備のいい先生は、早速立ち上がってCDをかけはじめた。こうなってはもう誰も止められない。八重と遥斗は無言で顔を見合わせて、ほぼ同時にため息をついた。

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