春に桜の交響詩
草群 鶏
第1話
木造の古い家屋から、まるい音の連なりがふわりとただよい出る。
樹木が鬱蒼と茂る敷地は、庭というより屋敷森に近い。宵闇に沈むちいさな森の輪郭を浮かび上がらせるのは、ほとりと灯された玄関灯だけ。窓から漏れ出すわずかなひかりは、夜目のきかない人間にはいかにも心許なかった。
風もないのに梢が振れて、人もいないのに枯れ枝を踏みしだく音がする。家の中ではきしみや家鳴りがやたらと耳につき、手入れの行き届いたすまいも目を閉じれば幽霊屋敷のありさまだ。あまりの騒々しさに、この日とうとう家主の堪忍袋の緒が切れた。
老婦人は手にした教本の束で力いっぱい床を打ち、勢いのままに立ち上がる。
「これじゃちっともレッスンにならないわ」
「すみません……」
いつになく荒ぶる先生の様子に、八重はひゅうと肩をすぼめた。
祥子先生は家屋の一部を開放してピアノ教室を開いている。池田祥子音楽教室が送り出した教え子は数知れず、のみならず、このあたりのこどもは全員なにかしら彼女にお世話になってきた。小柄でおとなしそうな見た目に反し、先生はお節介で顔が広いのだ。自身にこどもがいないぶん、大きくなった元教え子まで気にかけて世話を焼くのが彼女の生きがいともなっている。
八重は幼い頃から祥子先生のもとへ通い続けて、もうじき二十年になる。気がつけば現役の生徒のうちで最古参になってしまった。目指すところがあるわけではない。ただピアノが弾ければよくて、自由に楽しむために必要な技術が保てればいい。そのあたりは先生もよく心得ているから、八重は社会人になった今も教室を辞める理由が見つからない。というより、ピアノと向き合う時間が自身の心の寄る辺であることを、社会に出てよりいっそう実感しているところだった。
「八重が謝ることないでしょう」
「でも」
「ごめんね、私が悪かったわね」
彼女は八重を気遣いつつも宙を睨み、やり場のない怒りに鼻を鳴らす。
いつの頃からか、八重が鍵盤に触れると不可解な現象が起きるようになった。窓を開けていないのにカーテンが揺れる。椅子の脚がぎいと鳴る。このところは天井の隅がバシンバキンと大きな音をたてるので、生来気の小さい八重の手元は簡単に狂って、一向に曲の終わりにたどりつけない。趣味のお稽古とはいえ、そろそろ発表会の曲決めに入ろうかという時期でもあった。このままではどんな曲も完成しない。
怪異が存在感を増すにつれ、別の異変も明らかになった。八重の奏でる音が日に日に小さく弱々しくなっていくのだ。祥子先生は「怖がらなくていい、堂々となさい」と言うが、八重とて怯えてタッチを変えたわけではない。ソフトペダルを踏んだのとも違う、音の震えがそのままどこかへ吸い出されるように遠のいていく感覚。ためしに他の教え子がぽんと鍵盤を叩けば元気な音が跳ねるものだから、気味が悪いことこの上なかった。
一方、得体の知れぬものが相手だろうと、祥子先生は恐れるどころか徹底抗戦の構えである。見たところ霊障の類には違いないが、八重がピアノを弾くあいだだけ現れるというのが実に陰険で気に食わない、と怒り心頭の様子で腕を組む。
「こうなったらとっちめてやるわ」
「先生……?」
「ちょっと待っていらっしゃいね」
そう言い置くなりレッスン室を勇ましい足取りで出て行ってまもなく、廊下から話し声が漏れ聞こえてきた。どこかへ電話しているらしい。
ひとり残された八重は手慰みに鍵盤の肩を撫でた。刻まれた細かい傷、鍵盤カバーのフェルトは赤が褪せてつつじのようなピンク色になっていて、響板やフレームの隅に、どんなに手入れしても除ききれない塵が入り込んでいる。これこそは長生きの証。静まり返った部屋で、なにが潜んでいようともこのグランドピアノだけは変わらず八重の味方だ。どっしりと構えた黒い曲線が、今日はひどく心強かった。
楽曲の練習をひとまず中断し、比較的怪異の起きにくいスケール練習に集中していると、リンゴンとチャイムが鳴って客の訪れを告げた。迎えに出た祥子先生に続いて、ドアとほぼ同じ大きさの男がぬっと姿を現した。太い首、分厚い胸板、顎のラインのくっきりした短髪の青年は、八重と目が合うとにこりともせずに会釈した。
「じゃあはるくん、そこ座っててちょうだい」
「はるくんて、俺もう二十五なんですけど」
「だから何だって言うの。先生にとってはるくんは死ぬまではるくんよ」
「はあ」
言う割にそれほど気にしていないようで、彼は壁際の椅子におとなしく腰掛けた。
「あの、先生、どちらさまで」
「いやおかまいなく」
「そうそう、置物だと思って」
無理があった。置物にしては大きすぎる。困惑する八重をよそに、彼はパーカーをかぶった大きな背中を丸め、足を組んで文庫本をめくりはじめた。その面影にどこか覚えがある気がして、八重の眉間に皺が寄る。
ところが、祥子先生に無理やりピアノに向き直らされたせいで姿が見えなくなると、彼の気配は途端に消えた。そこにいるのはわかっている、なのに存在が気にならない。他人の視線に人一倍敏感な八重には不思議な感覚で、振り返って確かめようとしたら先生の笑顔に阻まれた。
「さ、今度こそ通してみましょう」
表情も声色も、やわらかいが隙がない。八重が勝てるわけがなかった。
清くやわらかく、さざめくように。どうぞ、と促されて、八重は十本の指をふわりと鍵盤にのせる。一息吸って、ぐっと肩を傾けた。
――モーリス=ラヴェル、《水の戯れ》。
光を反射しながら溢れだす音の粒が、まろやかに響き合う。それまでの硬く弱々しかった演奏が嘘のようで、八重はそのまま心地よい奔流に身を任せた。耳をくすぐる高音の飛沫も、どうと腹に響く低音の地下水脈も、切れ目なく紡がれ織り広げられていく。お風呂で歌をうたうような気分だ。感情のままに運ぶ指は時折調子をはずして楽譜を追い損ねたが、なにものにも邪魔されず演奏できるのは実に久しぶりで、失敗を恐れるよりも先を急ぐ気持ちが勝った。
あっという間の五分間。肩から腕にかけてがほかほかと温かく、八重は深く息をつきながら演奏を終えた。
びいい、と初めて聞く音がすると思ったら、祥子先生が胸を押さえて呻いていた。
「やっと、やっとここまできたわね……」
「何の音かと思いました」
言いながら八重の顔が笑う。いつも調子がのったあたりで中断されてしまっていたから、パートごとにしか演奏できなかったのだ。ようやく描ききった水景は想像以上に暴れん坊で相手するのに苦労したが、そのぶん喜びも大きかった。
「どうしてもタッチが弱いから平坦になりがちだけど、そこは練習で磨いていきましょう。この調子なら発表会の曲も選び放題ね」
すっかり機嫌を直した先生は、次回までに候補曲をいくつか出すようにと宿題を出した。
「今度は八重にトリを飾ってもらうから、曲も衣装も華やかなのでおねがいね。私のほうでもすこし考えておくから」
そして思い出したように後ろを振り返った。
「というわけで、はるくん来週もよろしくね」
〈はるくん〉はぎょっとして顔を上げる。
「ええ、今日だけじゃないんすか」
「水曜なら仕事はお休みなんでしょう」
「なんでそれを」
「りえちゃんに聞いたの」
「お母さん……」
文庫本を閉じて天を仰ぐ。
これが祥子先生の恐ろしいところで、各家庭の親世代ともつながっているからだいたいのことは筒抜けになってしまう。下手すると親子二代で教え子だったりもするのだ。
呆然としている彼があまりに哀れで、八重はおそるおそる口を挟んだ。
「さすがに毎週は申し訳ないですし……」
「八重ちゃん、あなたのためだけじゃないのよ。私がそろそろ限界なの。はるくんにはちゃんとお礼をするから」
それと、と先生は続ける。
「あなたたちいつまで他人行儀にしてるの。ふたりとも、同じ小学校の同級生じゃない」
言われて顔を見合わせた二人は、互いの顔をまじまじと眺めたのち、ほぼ同時に「あー!」と声を上げた。どうりで見覚えがあるわけだ。
桜庭八重と神宮寺遥斗。のちにとある業界でその名を轟かすこととなる二人の十数年ぶりの再会は、こうして果たされたのだった。
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