第2話 太陽のような人

 店を出て、近くのバス停からバスに乗り込むとひんやりとした冷気に体が包まれる。バス内は昼時だからか空いていたため奥の方の二人がけの座席に伊月さんとともに座ると、バスが緩やかに走り出した。


「......伊月さんて、あの日以降姉ちゃんに会いに行ったことってあるんですか」

 

 流れていく景色を見つめながら、ポツリとこぼすように尋ねる。 


「いや、受験とか気持ちの整理とか、やらなきゃいけないことが重なって。君には、言い訳じみて聞こえるかもしれないけど......ごめんね」

「俺は別に......姉ちゃんだって、怒りませんよ」


 そうかなと、どこかかすれた声で伊月さんが問う。その声があまりに切なげで、そうですよと力を込めて答えた。


「大学、受かったんですか?」

「うん。秋葉と約束したしね」


 約束。そういえば姉もそんなことを随分前に笑って話してくれていたような気がする。


「約束、ですか?」

「一緒に大学に受かろうって。俺は都心、秋葉はこっちの方の大学で目指すところは違かったんだけどね」


 その約束だけが俺の希望だったんだと、静かに微笑んで答える伊月さんを俺はしばらく見つめていた。


 バスは住宅街を抜け、田舎道を走り抜けてゆく。しばらく、代わり映えしない景色の中を走っていたが、徐々に開けた場所が見えてきた。伊月さんが停車ボタンを押し、バスが緩やかに減速し始める。


「降りようか」


 バスを降りると、生ぬるい風が頬を撫で吹き抜けていく。道の端に目を向けると萩色の花を咲かせた百日紅が風にはらりと揺れ、真っ赤な曼珠沙華が狂い咲いていた。


 同じように花を抱えた人たちの間を縫うように進んでいた伊月さんがピタリと足を止める。


「秋葉……」


 伊月さんが声をかけたのは、一つの墓石。2年前に亡くなった、姉の墓。生暖かい風に、向日葵がふわりと揺れる。


 2年前の今日、姉は事故で亡くなった。姉の誕生日の前日の出来事だった。雨の降る視界の悪い日、昼食で使う食材を切らしてしまったことがことの発端だった。


『私、足りないもの買ってきちゃうね』

『でも、これから雨強くなるらしいよ』

『近くだし大丈夫だよ』

『そう?』


 すぐ帰ってくるから心配しないでと、笑って家を出た姉の姿が今も脳裏に焼き付いて離れない。だって、あれが最後の会話になるなんて思わなかったんだ。


『湊、ごめんなさい私も混乱してて。落ち着いて、聞いてほしんだけど。秋葉が、秋葉がね、事故にあってしまってそれでーー』


 もう二度と、姉ちゃんに会えない。そんな事が起こるなんて、思わなかったんだ。


「一ノ瀬くん」


 俺の名前を呼ぶ声に我に返り、声のした方へ顔を向けると伊月さんが心配げに俺を見つめていた。


「すいません。ここに来ると、その、色々と思い出してしまって」

「......今日は、一ノ瀬くんに渡したいものがあるって言ったよね」


 脈絡もなく告げられた言葉に、俺はぽかんと伊月さんを見上げる。伊月さんは、バックの中から1枚の写真を取り出すと俺の前に差し出した。


「これは?」

「秋葉の撮った写真だよ」

「姉ちゃんの?」


 そこに写っていたのは、1本のオレンジ色の向日葵だった。


「部活を引退する前だったかな。部室を大掃除する機会があって、その時見つけたんだ」


 顔をあげると、伊月さんの静かな瞳と目が合う。


「すぐに君たちに渡すべきだったのに、こんなに遅くなってしまってごめん。縋ってしまったんだ秋葉の言葉に」


 伊月さんが写真を裏返すと、そこには姉の字で言葉が書かれていた。


『未来を見つめて』


「未来を、見つめて」


 頭の奥で、カチッと音がして眠っていた記憶が蘇る。あの日の、8年前の祖母との最後の会話がーー






 病室のドアを開け姉とともに中に入ると、いつものように優しい顔で祖母は俺達を迎え入れた。


「ああ、湊、秋葉。来てくれたのね」

「おばあちゃん......」


 そのいつもと同じ祖母の様子に胸をなでおろす。だがそれでも、胸の中のもやもやとした感情は消えない。


「どうしたんだい?二人共そんな悲しい顔をして」

「......おばあちゃん。死んじゃうの?」


 先程母から言われたおばあちゃんはもう長くないという言葉を思い出し、顔がクシャリと歪む。


「それでそんな顔していたのね」


 祖母に手招きをされ、姉と祖母の傍へよる。すると、優しい力で抱きしめられた。けして強い力ではないけれど、何故か安心感のある腕にいつも励まされ、救われてきた。両親と過ごす時間が少ない俺達にとって、祖母の愛が支えだった。


「ありがとうね」


 涙がポロポロと溢れる。そんなこと、言わないでほしい。だってそれじゃあ、おばあちゃんはもう長くはないって、言っているのと同じじゃないか。腕の中で泣き続ける俺達を、少し悲しげに見つめたあと祖母は腕を解き俺達をまっすぐ見つめた。


「私のために、泣いてくれてありがとう。私の死を惜しんでくれる人がいることが嬉しいの。でも、二人を残していくのはすごく心配ね」


 祖母は切なげに微笑むと優しく俺と姉の頭を撫でた。隣を見ると、いつもは泣かない姉も瞳を涙で濡らしていた。


「少し、未来の話をしてもいいかしら」


 祖母の言葉に、顔をあげる。


「多分二人は、私の死にすごく悲しんでくれると思うの。でも、私に、過去にとらわれる必要はないんだよ」


 予想外の言葉に、俺も姉も泣き止み祖母の言葉に耳を傾けた。


「悲しいときはその涙が枯れるまで泣いていい。辛かったら、立ち止まってもいい。過去を懐かしんで、振り返ってもいい。でも最後には、その涙を拭って未来へ進んでほしい。それはきっと難しいことだと思うの。一人だったら、諦めそうになるときもあると思う。だから、もしそうなったときは思い出してほしい」


 祖母は一度言葉を区切り、俺達をもう一度まっすぐ見つめた。


「貴方達は、一人じゃない」


 一人じゃない。その言葉の意味が俺にはよくわからなかった。家に帰ればおかえりと言ってくれる家族がいて、学校に行けば気さくに話しかけてくれる友人がいる。一人じゃない、それは俺にとって当たり前のことだった。


「よくわかんない……」

「そうね……一人じゃないっていうのは隣に誰かいてくれるだけじゃなくて、誰かと心を通わせることでもあるの」

「心を?」

「ええ。人っていうのは不思議でね、誰かと一緒にいても孤独を感じたりする」


 静かに目を伏せる。それは俺も経験したことがあった。他人の心は、その人にしかわからない。だから見えない心を想像して勝手に傷ついたり、不安になったりする。


「……それに、隣で支えてくれている家族や友達が明日もその先もずっと貴方達の側にいる保証なんてどこにもないのよ」


 その言葉に、俺はハッとした。明日がどうなるかなんて、誰にもわからない。誰もが気づかないふりをしているけれど、明日も明後日も大切な人が隣で笑っていてくれる。それは、奇跡なのだ。


「明日がどうなるかは分からないけど、人は一人で生きていく訳では無いの。助け合って、支え合って、もたれあって、時には傷つけあって、そうやって誰かと関わりながら生きていくの」


 祖母は、ベットの横に置かれた写真に目を向ける。いつも大切な人達なのだと微笑みながら見つめるその写真には、若い祖母と祖父、そして、二人を囲むように並んだ大勢の人が笑顔で写っている。


「そして、そうやって紡いでいった縁がいつか貴方達を救うこともある」

「おばあちゃんもその縁に救われたことがあるの?」


 今まで黙っていた姉が、静かに口を開く。


「ええ、絶対に分かり会えないって思ってた人に救われたり、逆に大切にしたいって思ってた人を傷つけてしまったり……」


 祖母は過去の後悔を飲み込むように静かに瞳を閉じる。再び瞳を開いた祖母は穏やかながらも哀愁を秘めた表情を浮かべていた。


「私もね、随分前に大切な人をなくして、辛くて悲しくて、でも、あの人のところに行く勇気もなくて」

「それで、どうしたの?」


 不安を押し殺したような震えた姉の声が病室に小さく響き渡る。


「生きたわ。だってあのとき私にできるのは、それだけだったから」


 遠い日々を懐かしむように、視線を外に向ける。夕暮れ色に染まった空に二羽のカラスが飛び立つ。


「なにか生きる意味があったわけじゃないんだけどね。辛くて苦しい今をがむしゃらに生きてそして気づいたらね、周りに沢山の人がいたの。それで、私はずっと沢山の人に助けられて生きてたんだって、一人じゃなかったんだって気付いたの」


 視線を俺達に戻し、ゆったりと微笑む。


「それから、幸矢さんて素敵な旦那さんに出会えて、美奈ていう可愛い娘を授かって、そして」


 祖母が愛おしそうに俺達を見つめる。


「湊と秋葉に出会えた」


 その優しく紡がれた声に息が、とまった。


「本当に嬉しかった。あの瞬間、貴方達の産声を聞いた瞬間、ああ、生きてて良かったって思ったの。」


 思い出に浸るかのように、祖母は静かに瞳を閉じる。そして、窓際に飾られているオレンジ色の向日葵に目を向ける。


「未来を見つめて。これはね、オレンジ色の向日葵の花言葉。何があっても未来を見つめて生きてほしいっていう、私からの願い。だって貴方達が生きていくのは未来だから。過去じゃない、今だから」


 祖母の陽だまりのような暖かさを秘めた瞳が細められる。


「つらいとき、悲しみに溺れそうになったときは周りをよく見てご覧なさい。貴方達とともに生きようとする人は必ずいるから」


 祖母の体温の低い手が、祈るように俺達の手を包み込む。


「だからどうか、忘れないでね。貴方達は一人じゃない」


 窓から差し込む日差しが祖母の顔を赤く染め、夕風が白く柔らかな髪の毛を揺らす。俺はこのときの祖母の表情をきっと、忘れられないだろうと思った。


 窓際の向日葵が夕風にふわりと揺れた。
















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