49.宣戦布告くらいはあるはずだ
横浜の国際会議場周辺を埋め尽くす者たちの上に広がった曇天からは、霧雨が舞い始めた。
黒ずくめの者たちの顔には、無為にここまで歩き続けてきた時と比べて、多少の明るさがあった。それは自分がその場にいることで、必ずしも一人では無いのだという、凡庸だがひどく当たり前のことを思い出すことができたこともあるだろう。
それに加え、公にも動きがあるのを知ったことも、彼らの表情を和らげたかもしれない。官邸が裏で動いていた著名人を使ったその日の活動に、会議場に来ていた財界関係者の有志何名かと、経産の副大臣や官房副長官補佐が連名でコメントを出したのだ。
今後の労働人口の急速な減少をにらみ、いままで手つかずだった凍土期の雇用情勢について大きくテコ入れをするとのことだった。無論この国のやることであるし、今までの経緯で信用も期待も多くの者がそれほど持っていなかったようではあったけれど。
霧雨が舞っている国際会議場を照らすように、雲を割って白い陽の光が差し始めた。やがてその光は霧雨とぶつかって、大きな二重の虹を作り出した。会場のそこかしこで、その光景について『狐の嫁入りだな』と語る者の姿が多くあった。やがて横浜に集まった群衆は、ある者は集合した余韻を楽しむように公園へと向かい、ある者は家路についた。
現実の裏側で事態の推移を見守っていた俺たちだったが、マハーカーラを全て排したあとは阿那律院の非主流派からの動きもなく、そろそろ解散するかという話になった。
「皆さん、本当にありがとうございました。特に稲荷様、マアト様、感謝の言葉もございません」
当初の集合場所であるグランモール公園へと移動した俺たちは、巻倉をはじめそれぞれが稲荷とマアトに感謝を述べた。
「まあ、収まるところに収まったって感じかしらね」
「祭りが無事済みしは善きかな」
マアトが花がほころぶように笑い、山崎に憑依した白狐も機嫌が良さそうに微笑んだ。
「また稲荷様には挨拶に伺います。マアトさまはまたお会い下さいますか?」
「都合が会う時はいつでも顔を出すわよ。些細なことでもいいから、話したいことがあれば呼びなさい」
えへん、という感じでマアトは胸を張って見せるが、ここまで可憐だといっそあざとく感じてしまうのは俺の心が煤けているからだろうか。たぶんマアトは裏表なく善意で言ってくれているのだろう。白日の女神だし。
「稲荷様はいつでも来たらええって言ったはります」
どうやら白狐は山崎の中に引っ込んでしまったようだ。
「それじゃあ帰るか」
「皆さんお疲れさまでした」
「貴重な経験やったけど、ぼくはすこーし疲れた気がするわ」
「僕も何となく気疲れしたよ」
「そやったら、れい先輩、現実に戻ったらスイーツ行きません?」
「いいねー」
その場からまず巻倉が頭を下げてから消えた。そして照汰が手を振ってから消え、山崎が一礼してから柏手を二回打って消えた。
「それじゃあ従治、次は狐ちゃんよりも先に呼びなさいね」
「本当にありがとうございました」
マアトが手を振ってその場から消えた。
「俺たちも帰ろうか」
「そうだね、店長」
最後に二人でグータッチしてから、俺たちは現実に帰還した。
一週間ほど経ってから俺たちは巻倉経由で河内から連絡を貰い、築地に居た。回らない寿司屋に招待されたのだ。訪ねた面々は俺と浅菜に照汰、山崎と何故か子安さんが居た。
山崎とか着物を着てきたよ。ジャケットを着ていたものの、俺が一番ラフな格好だったが、デニムにしなくて良かったぜ。
子安さんは当日、異様な気配を感じて横浜まで幽体を飛ばし、河内と行動していたようだ。どうやら子安さんと河内は以前からの知り合いで、その場が全部片付いてから阿那律院の非主流派の話を河内から聞いたようだ。
「あれ? 巻倉さんが居ないようですね」
「あいつはうちの若ぇ奴らと今頃しゃぶしゃぶに行ってる。あとでこっちにも顔を出させるぜ」
「ちなみにラーメン屋の重森さんは……」
「あの野郎とはこんど別口で遊びに行くから来ねぇ」
「そうですか」
やがて寿司が並び始めて、俺たちはネタとシャリのハーモニーを味わった。カンパチとかここで食べたらスーパーの見切り品の寿司とか買えなくなっちゃうよ、とその時は脳裏によぎったのは内緒だ。まあ、スーパーのはコスパが最強だからいいんだけどさ。
河内と最近の景気の話とか最寄り駅のあたりの商店街の話などをしていると、二十分くらいしてからだろうか、巻倉が合流してカウンターに着いた。
「それじゃ、今日のメンツは揃ったな。乾杯でもしとくか」
「なにに乾杯するんですか、室長?」
「そうだな。“みんなの無事”にでいいんじゃねぇか?」
「皆って、どの皆です?」
「うるせえ奴だな、“みんな”っつったら“みんな”でいいんだよ。――ほれ、杯を掲げろ……乾杯!」
「「「「「「乾杯!」」」」」」
当日のメンバーが揃ったところで、河内は阿那律院の非主流派についてのその後を語り始めた。まず中心人物だった立花と煤山が出頭したが、寺宝盗難事件に関して煤山のみ罰金刑で済む見通しだという。これは被害者側の門跡寺院や
「結局な、物証がほぼない上に呪術を使った犯罪とか、催眠術以上に立件が難しいって警察から泣きが入ったみてぇなんだわ。それに加えて本人たちも反省しきりでな、被害者も大ごとを望まないからある意味で有耶無耶にする方向で動いてるってぇ話だ」
「俺が渡した資料はどうなりそうですか?」
あの日、マハーカーラの呪物を身に付けていた者たちについて、身分証の複製を魔術的空間内で作っておいた。現実に帰還してからその記憶を引っ張り出し、資料にしてから照汰経由で河内たちに渡したのだ。
「現状では公安が洗ってみるようだが、まあ、現実では何も出てこねぇだろうよ」
「そうなんですね」
「ああ。今回の参加者の一人にすぎねぇから、石投げりゃ当たる誰かと大差無かったりするんだわ」
そう言って河内は両手の平を上にあげた。お手上げという事だろう。
「凍土期パフォーマンスの群衆はどんな感じですか?」
「それに関しては今も専門家にネットを監視して貰っていますが、パフォーマンスとしては下火になりはじめているようです。どうやら仮装の一ジャンルに収まった感じですね」
「政治屋の連中でこの群衆を引き込もうとしたりするのがチラホラ居たんだが、旨く行ってねぇようだな。政治活動が参加者の目的では無かったってことなんだろう」
ここまでの話を聞く限りでは、門跡寺院の寺宝盗難に端を発する一連の騒動は幕引きとなるようだった。今にして思えば下北沢で、押しかけて来た煤山と話せたことは良かったのかも知れないな、などと俺は考えていた。
タイのバンコクのウォンウィエンヤイ市場は、バンコクのほぼ中央にある生鮮市場でフードコートもあり、地元の者も多く利用する場所だ。バンコクも整備が進んでずい分奇麗になったけれど、市場などで感じられる活気であるとか、時間が積み上げてきたようにも感じる街の埃っぽさが、アジアの街の逞しい生命力を感じさせる。その猥雑なエネルギーを感じながら、
時間帯は昼間であるし、治安上もそこまで心配では無いと判断して、雑賀はオフィスまでの道をショートカットしていた。やがて、古い住宅街の路地で角を曲がったとき、周囲からバンコクの喧騒が消えていることに気が付いた。意識を走らせるが、生き物の気配がみられない。
いや、気づけば自身の目の前の細い路地の真ん中に、黒いローブの人物が立っている。フードを深くかぶっているため、その顔を確認することはできなかったが。
「やあ、この国でそんな恰好をしてたら熱中症になるぞ。アロハにハーフパンツくらいが楽だと思うんだが」
「雑賀さんだね。日本から来たんだ、用件は察しが付くだろう?」
若い男の声だった。日本語で語りかけられた以上、雑賀が日本語を使えることは知っているのだろう。
「さて、どの件だろうか。これでも美術品の買い付けで食べているから、色んな商談があってね」
「そうか、……横浜の祭りの件だといえば分かるか?」
黒いローブの男は、横浜でマハーカーラを出現させようとした件で、雑賀が関わっていることを突き止めたのだろう。その上で現在の拠点があるバンコクまで追ってきた上に、雑賀を現実から切り離している。控えめに言っても手練れだ。雑賀は背筋に嫌な汗が流れた気がした。
「……降参だ、おれの知っている情報は提供する。拷問や殺害は勘弁願いたい」
そう告げて雑賀は両手を軽く上にあげた。
「今日、俺が会いに来たのは純粋に挨拶だ。あんた達の
「挨拶だって?」
「あんたの日本での活動は色々調べたが、組織の仕事は別にして、あんたは日本に好意的だった。見ていていっそ、日本で暮らせばいいのにと思ったがね」
ローブの男の言葉を、雑賀は脳内で吟味する。男は自身を観察していたように語っている。日本への好意云々は、組織の仲間内でしか話したことは無かったはずだった。その時点で、目の前の男が過去を読めるという可能性に思い至った。
そしてそのことで、雑賀は一つの情報を思い出す。英国には国が手放さない手練れの魔術師が確認できているだけで何人かいて、その一人が世界の情報を掘り出すことに長けた狂人であると。また、その情報に付随して、未確認ながら日本に弟子がいるという話があった。
その狂人の魔術師の二つ名は――
「“ケイオスアーカイバ”……。君は“ケイオスアーカイバ”さんの弟子なのか?」
雑賀の言葉に黒ローブの男は一瞬当惑した様子だったが、すぐ口を開いた。
「さて……分からないな。――兎も角、挨拶と言ったが、本音としてはあんたらが日本で動くときは情報が欲しいだけさ。きょうび国家間で軍事演習を行うのでも事前通達くらいはあるだろ。戦争をするのでも宣戦布告くらいはあるはずだ」
「おれたちは別に戦争を仕掛けたいわけじゃ無いんだ」
「それは分かってる。まあ、誰にとっても最善を得るためには、協力できる部分もあるかも知れない」
気軽な口調でそう告げるローブの男からは、殺気のようなものは感じなかった。横浜でのことで思う所はあるのかも知れないが、少なくともいま敵対することは無いのだろう。
「そういう訳で、日本で大きく動くことがあるならここまでメールしてほしい。何だったら、あんたなら移住の相談も受け付けるぞ」
一方的にそう告げて、黒ローブの男はメモを渡してきた。フリーメールのアドレスが書かれているが、アカウントはランダム生成された文字列の様だった。
「なあ、君……」
雑賀がメモ用紙から顔を上げるとそこには誰もおらず、気付けばバンコクの喧騒が自身の周囲から感じられた。雑賀は一つ嘆息して、手の中に残ったメモ用紙を大切そうに自身の胸ポケットにしまった。
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