50.無色の魔術書

 平日の朝の通勤時間帯も過ぎたころ、客足も少し落ち着いて来たように感じられた。俺はカウンターに立って店内を眺めていると、落ち着いた色のウインドブレイカーを羽織った少しがっしりした体格の男が来店した。


 いらっしゃいませとスタッフたちと声を出すと、ややゆっくりとした足取りでレジに歩いて来た。


 杉山がハスキーな声で業務用の丁寧な応対をしていると、その客は“とても濃い”エスプレッソを注文した。


「エスプレッソはシングルとダブルのどちらになさいますか?」


「ああ、……“さらに濃く、深淵よりも深いもの”を頼みたい」


「……かしこまりました」


 俺は客が口にした符丁を確認すると、その場を他のスタッフに任せ事務室に移動した。席に座って待っていると、先ほどの男がこちらにやってきた。


 話をしてみると、男は白崎しろさきと名乗った。巻倉から紹介されたのだという。


 今のところ巻倉から直接的な話は来ていないから、巻倉の職場などは関わらないような個人的な内容だと判断し話を聞いた。


「それで、頼みたいことなんだが、ある木像を探して欲しいんだ」


「紛失されたということですか?」


「そうなんだ。警察にはすでに届け出をしてあるんだが、無くなったものは呪物の類いでね」


 白崎によればその木像は、元はタンザニアのある部族に伝わるものだったという。それが様々な経緯を経て米国の好事家に渡り、それを白崎の職場で預かることになったそうだ。白崎の職場は大学の研究室らしい。


「なけなしのツテを頼って巻倉くんに相談したんだが、文化財として日本に入れたわけではないから、公には動きづらいと言われてね」


 あの野郎め自分の仕事になりそうなネタをぶん投げやがったな、と俺は巻倉の顔を思い浮かべた。思い浮かべた顔はいつもの草臥れた表情だったので我に返ったが。まあ、それでも俺に投げたのは、捨て置くべきでないという何らかの判断があるのだろう。


「ちなみに、どんな呪物なんですか?」


「シャーマンを象ったと言われる古い像でね、雨乞いの儀式などで使われたと言われている。ただ、この像を受け継ぐ者には必ず伝えるように言われてる話があってね。精霊が像に宿っているから、粗略に扱ったら勝手に出て行ってしまうというものなんだ」


 その話を聞いて、俺は思わず眉間を押さえてしまった。ここ最近、自身の人生で複数の神格と関わる機会が生じてしまっている。今回の話の木像も、精霊が宿っているというのは比喩などではなく、文字通りの意味なのかも知れなかった。


 取りあえず今回は、わざわざ巻倉が投げてきた話だ。話の裏取りなどは個人的に進めるし、巻倉にも確認はするものの、まずは調査を受けてみることを白崎に伝えた。


 白崎から手付金を受け取り、追加情報は巻倉を介してやり取りすることや俺への依頼は秘密として貰うことなどを告げ、いつもの流れで帰ってもらった。


 白崎と入れ違いで、浅菜がするすると事務室に入ってきて、俺の傍らに立った。


「面倒な依頼なのかい?」


「今回は呪物の探し物だ。アフリカ産の木像で精霊が憑いていて、粗略に扱うと勝手に出ていくと言われてたものが消えたそうだ」


「なんだいそれ? ファンタジーというか、おとぎ話な感じもするね」


「浅菜も知る通り、日本にはいろんな神さまが居る。もし精霊が神々を頼って遊び歩いてるとかだと、ファンタジーとか言ってる場合じゃなくなるんだよな」


「それでもなかなか楽しそうな仕事じゃないか。もちろん僕も混ぜてくれるんだよね?」


 そう告げる浅菜の表情は、どこか得意げだった。まあ、荒事という意味では仙人としてひと皮むけたようだし、確かに頼りにできるんだけどさ。


「基本は探し物だけど、それでも良かったら手伝ってくれ」


「構わないさ」


 そう言って浅菜は拳を突き出してきたので、俺はグータッチした。


 精霊だとか言われている時点で、どうやらまた神格が絡む案件がはじまる予感が俺の中にはあった。まずは手堅く、情報の裏取りから始めなければな。


 今回持ち込まれた副業についてこれからの段取りを考えながら、俺はどこから手を付けるべきかを頭の中で整理し始めていた。そういった思考はどこかでメモなどに記録しておいた方が、本当は整理しやすいのかも知れないけれど。




 記録といえば、脳裏によぎるものがある。


 西洋魔術を実践する参入者は、魔術日記というものを記録することを自らの師匠などから叩き込まれる。


 魔術日記の最初のページには自らの魔術師としてのモットーを記したりして、以降のページには日々の実践の記録とその結果や考察などを書き貯めていったりする。


 どんな技法がどのように効いたなど、魔術日記の記録をもとに分析を重ねることで魔術師としての力量を高めていくしるべとなる。


 そしてその記録はやがて個々の魔術師にとって固有の経験知のアーカイブとなり、それを普遍的に扱えるように魔術書が作られていったりする。


 俺は師匠から世界の記録を読み出す魔術を叩き込まれた。その関係でいつしか、魔術日記を書かなくなっていた。いままで経験した成功も失敗も、俺の場合は世界の記録から気軽に読み出すことが出来るからだ。たぶん伝統的な実践者がそれを知れば、彼らから塩をまかれる気はするのだが。


 ともあれ、そのような俺にとって経験知のアーカイブは虚空にあるものであり、それを魔術書にするというなら、無色透明の魔術書になるかも知れない。


 ただ、仮に俺に将来弟子が出来たとして、自身の技法を説明したうえで“無色の魔術書”があるのだと告げたならばどうなるだろう。


 おそらく俺がそうしているように、自らの弟子は俺に対して大きな罵倒を浴びせはじめるかも知れないなどと考えたりもする。


 だから“無色の魔術書”は、現在は構想段階で止まっている。


 もし俺が何かを残すために記すのならば、その魔術書は果たして無色のままだろうか。


 そんなことを、時々思う。

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