40.幸か不幸かこの者の時代は

 その夜、浅菜は夢を見た。


 気づけば自分は石畳に立っている。そこは建物同士を繋ぐ中庭であるようだ。落ち着いた橙色をしたレンガ造りの建造物と、その屋根の黄色い瓦から、中華風の伝統的建築の敷地内であるようだった。


 このような場所を訪ねた記憶も無かったが、古代中国の城であるとか寺院の類いかも知れないと思う。


 改めて自身の格好を確認すれば、ニットのパーカーとスキニーパンツに、スニーカーという普段着だった。建物とのミスマッチからまるで自身が観光で訪れているみたいだ、と思った。


「ええと、ここはどこだろうな……」


 口に出してみるが、応える者はいない。


 所在無げに建物を観察していると、耳でとらえたわけでは無かったが、廊下の先の建物の奥から名を呼ばれた気がした。


「行ってみようか」


 そう呟いて浅菜は歩を進めた。


 最寄りの扉の前に立つと、勝手に扉が開く。戸をくぐれば廊下が続き、鏡面のように磨き上げられた石材の床を歩く。どうやって磨いたらこんなにつるつるになるんだろうなどと思いつつ、進んで行く。


 途中でまた勝手に引き戸が開くので、その部屋を通過して移動していく。通過する室内は明るすぎない橙と黒と黄色を基調にした装飾が為されている。所々には様々な姿をした虎の彫像や、美術品が下品にならないように飾られていた。




 どれほど歩いたのか、やがてたどり着いた部屋で、磨き上げられた大きな木製の事務机に向かって書き物をしている女性の姿があった。部屋は広く、学校の教室ほどはあるだろうか。


 華美ではない中華文化の装飾が為され、大きく開かれた窓の向こうはバルコニーのように廊下が横切り、その向こうは池と共に緑の庭が広がっていた。


 女性は書類の山を片付けていたが、入室した浅菜を見やることも無く口を開く。


「お主を招いたのは妾じゃ。書き物はすぐ済むゆえ、そこな席で待っておれ」


「は、はい」


 女性の空いた手が指す場所には丸い中華机が一つに椅子が幾つか並んでいた。浅菜は大人しく一番手前の席に座り、女性を観察する。彼女はシルキーな橙色の生地に金糸の刺繍を施したチャイナドレスを着こんでいた。


 彼女が机で何やら書き物をすると、その書類はひとりでに浮き上がって虚空に消えていき、新しい書類が自ら書類の山から彼女の前に飛んできていた。


 その様子に見とれていると、古代中国の女官のような美麗な服装をした者がいつの間にか茶器を持って現れ、慣れた手つきで茶を淹れてから立ち去って行った。折角だからと浅菜がその茶を頂くと丸みを感じる甘さが秘められた烏龍茶で、その味わいに感動した。




 程なく書き物をしていた女性が筆を置き、席を立って扇を手に持ってから浅菜の傍らまで来た。浅菜も座ったままではマナー的に良くないだろうと立って迎えると、女性が口を開いた。


「良く参ったな、浅菜令あさなれいよ。妾が西王母せいおうぼじゃ。日頃の研鑽は褒めて遣わすぞ」


 浅菜は西王母の名を聞くと思考が真っ白になり、次の瞬間その場で両ひざをつき拳にした左手を右手で包んで前に出しそのまま礼をした。いわゆる女性版の抱拳礼ほうけんれいである。


「こ、この度はお招きいただきありがとうございます」


 たとえこれが夢でも、相手は西王母であり道教の神の一柱である。浅菜は恐縮しきりだったが、その態度に苦笑して西王母が告げる。


「やはり日ノ本の子らは真面目よのう。――さあ、直って席につくがよい。そもそも妾が招いた以上お主は客じゃ。そうじゃの、義理の姉のところに招かれて遊びに来たとでも思うがよかろう」


 西王母に促されたので、やや混乱気味の浅菜は立ち上がり、席に戻った。


 そのタイミングで再び女官姿の者らが現れて新しい茶を淹れてくれたのだが、彼女らも女仙であるとか天女の類いかも知れないと浅菜は思った。




 西王母は茶を一口飲んだ後に浅菜に視線を向け、微笑んだ。


「そう硬くなるで無い、仙道に連なる者は我にとって同胞じゃ。それに、お主を此度招いたのは、半分ほどは妾の都合じゃからな」


「西王母様のご都合、ですか?」


 西王母に促される形で席についた浅菜だったが、ふと我に帰る。自分は彼女に招かれたということだが具体的な用向きに思い至らなかったのだ。何かしら無自覚に無作法なことをしたので無ければ良いのだがと思う。


「さて、妾はお主に乞われる形で、幾度かお主の想い人を助けておる。これは間違いないな?」


「……はい」


 想い人と言われて若干動揺する浅菜だったが、相手は神格である。ごまかしが効かないことは想像できた。


「乞われたこと自体は礼に則って成された故、何ら否は無いのじゃ。ただのう……」


「何か問題があったでしょうか」


「うむ、お主の真の望みは、あやつの力となることであろう。然るにあやつと並び立つべきかと思ってのう」


 まるで身内を心配するような西王母の表情に、浅菜は固まってしまう。


「考えたことはありませんでしたが、そう、かも知れません……」


「自らのことこそ分からぬというのは、人の身なれば良くあることよ。――それでじゃ、妾が少々手を貸してやろう」


「それは、……ありがとうございます」


「まず、ここで神符の書き方を一つ授けよう。あ奴めは奇妙な巡り会わせで“こちら側”に関わることが多いが、お主は未だ同じように意のままに来れぬじゃろう」


「ここがどちらなのかは分かりません。けれど仙界や、あの世に近い場所だとか、他人の夢に入れるかと言われれば、訪ね方が分かりません」


 そもそもそのようなことが普通の人間に可能なのかも、浅菜としては良く分からない部分があった。


「そうよな。お主の師匠――林恵君りんふぇんじゅんじゃったの、あ奴も知らぬ筈じゃが、そもそも今を精いっぱい生きる上では不要な知恵じゃ」


「それを、お教え頂けると」


 西王母はうむ、と頷いて立ち上がり、浅菜の傍らに立つと手で持っていた黒い扇で浅菜の頭頂部をそっと触れた。


「これで書き方は分かるはずじゃ」


「……! ありがとうございます! 如神符ごくしんふ、ですか」


 先ほどまで忘れていたことを思い出したかのように、浅菜の記憶に幽界へ跳べる神符の書き方が宿った。


 黄色い紙片を用意し、中央の一番上に朱書きで女性ならば“虎”と書き、男性ならば“龍”と書く。紙の中央には黒字で“急急如神排敵”と記す。符のまわりを朱色で飾るように線を引き、漢字はすべて篆書てんしょで記す必要がある。『排敵』の箇所は別の用途で書き換えることも可能であるようだ。


「左様じゃ。使い方も分かるな?」


「はい、作成した神符に気を通して、西王母さまにお願いすればいいんですね?」


「うむ。お主は師匠の林の奴めと違って奇矯な行いは心配はしておらぬが、妾の許可を得た者が効果を得る形としてある。符に気を通すとき、いつ誰のもとに跳ぶかを指定すれば良いし、一度気を通したら持ち歩けば良いだけじゃ」


「ありがとうございます!」


「気にするで無い。跳んだ先では、神成るものどもはお主を妾の使いと扱う。従い、お主の魂魄に危機ある時は妾が手を打つ。……まあ、妾が毎回顔を出すよりは仕事が減るのでの、妾にも都合が良いのじゃ」


 そう告げながら、西王母は席に戻った。


 もしかしたら西王母の業務量削減の一環で神符を授かったのかも知れない、という考えが浅菜の脳裏によぎった。


 実際、先ほど目にした書類の山は、彼女の神としての仕事に関することなのだろう。自分で対応できることなのにその仕事を増やしているのなら、少々申し訳ないかも知れない、と浅菜は思った。


「誰か李紅月りーほんゆぇを呼んで参れ。――それでじゃ、お主が行く先には戦わねばならぬ場合もあるやも知れぬ。既に最低限の研鑽は積んで居るが、これよりお主の師匠よりも何代も前の、お主の同門の先人を紹介する」


 浅菜は西王母の声で動き出した者の気配を何となく感じたが、それよりも先人という単語が気になった。


 程なく濃い緑色の拳法着を着込んだ女性が部屋に現れた。髪は後ろで結んであり、背丈は浅菜と同じくらいだろうか。


「紅月よ、お主の何代か後の後輩を呼んでおる。幸か不幸かこの者の時代は平和での、戦いの経験が足らぬゆえ剣などを少し鍛えてやれ」


「かしこまりました。――李紅月です、はじめまして」


「浅菜令です! よろしくお願いします」


 浅菜と李は互いに立ったまま抱拳礼を交わした。浅菜の緊張を察したのか、李は人懐こい笑みを浮かべ、『だいじょうぶよ』と告げた。


 そして浅菜は、夢の中で三年ほど過ごした。




 幾度目の朝の鍛錬を重ねたか、その日、李との立ち合いを終えて挨拶を交わしていた。そのあと彼女から剣や体術などについて、一定の水準に達したと浅菜に伝えられた。浅菜は感謝を伝えたが、直後に西王母に呼ばれた気がしたので、橙色の拳法着のまま鍛錬場を離れて執務室へ移動した。


 執務室では西王母が待っていた。今日はまだ仕事に掛かっていないようだ。


「令よ、そろそろ妾の使いとしては充分鍛えたであろう。――ま、鍛え始めればキリは無いがの。お主はそろそろあちら側に帰るころじゃ」


 突然の浅菜への帰還の通達だったが、そもそも自分は夢に招かれたのだったことを今さらに思い出す。同時に、手を掛けてもらったことについて、有難く思った。


「西王母さま、ありがとうございます」


「また鍛錬が必要になったら、如神符でこちら側にいつでも参るがいい。それと、お主の想い人に妾からの伝言を伝えよ。『妾も、マアト殿と同じようにすれば良い』とな。あ奴ならその意味も分かるであろう」


「承知しました」


 最初に訪れたときの西王母の執務室で、浅菜は二人で話していた。


「これから送り返すから座ったままでよい、目を閉じよ。目を開けたときにはここの記憶も、寝入る前の記憶も齟齬無くあるゆえ心配するな」


「本当にお世話になりました」


 浅菜は席を立ち、初めて西王母の執務室に来た時のように両ひざをついて、女性版の抱拳礼を行った。


 それを見た西王母は苦笑しつつ、右手で大切なものに触れるように浅菜の頭を撫でた。次の瞬間、浅菜の意識は暗転し、気づいたときには自室のベッドで横になっていた。


 慌ててベッドのまわりを見るが、直ぐにスマホが視界に入る。急いで日付と日時を確認するも、寝入った翌日の朝になっていた。


 もちろん、西王母のところで修行した三年分の記憶も残っている。身体などに違和感は無く、むしろ今からでも拳法の練習に行けそうなくらい調子は良い。


「明晰夢ってやつなのかな?」


 浅菜は何ともなしにそう呟いて、まずは顔を洗おうとベッドから立ち上がった。

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