36.ごくりと唾を飲み込んだ後で我に返る

 その日、俺がいつものように仕事をしていると、厨房で久喜くきさんがスタッフの奥様方と何やら話し込んでいた。時計を見れば、そろそろ彼が仕事から上がる時間だった。


 手を動かしながら何となく聞き耳を立てていると、例の凍土期パフォーマンスの話題であるようだ。ここの所ネット界隈だけではなく、テレビなどでも取り上げられ始めているしな。


 久喜さんは筮竹を使った易占えきせんが出来るから、件の騒動について占ってみたところ、興味深い卦が出たのだという。


「興味深い占い結果が出たのって、どんな感じなんですか?」


「ああ、店長も興味があるのかい」


「そうですね、興味はありますよ。……なにかマズい結果でも出たんですか?」


「うーん、マズいかどうかでいえば、あまり芳しくない状態だろうかね」


「芳しくない?」


「具体的な卦をいえば、風天小畜ふうてんしょうちくという三爻さんこうが出たんだがね――」


 久喜さんの説明によれば、易の六十四卦の一つで風天小畜という卦が出たそうだ。卦のイメージとしては、干上がってる状態でみんなで雨雲を待っているのに、風向きのせいで降ってこないということらしい。


 細かくいえば、身の回りは天の気が満ちていて皆が上をみてそこを目指そうとする。世の中は風のように多くの情報が乱れ飛んでいて落ち着くことが無い。それでもその場に居る者は、自分の理想や望みをひたすら求め続ける状態であるようだ。


「なるほど、それで三爻というのは?」


「説明が細かくなるけど、風天小畜がどういう段階にあるのかを示しているんだ」


 久喜さんによればその状態では、理想論をぶつけあう痴話ゲンカみたいな状態だという。本来は周囲の情報をつかみ、その中でうまく他人と話し合うべきなのに理想論が邪魔をしてチカラがこもって爆発するようなイメージだという。


「なるほど、芳しくない感じですね」


「あとね、方角でいうと、伏羲六十四図ふっきろくじゅうよんずというのがあってね。それを元にすれば、我々が居る辺りから南東の方角のどこかがこの状態になるようだ」


「それは、……横浜ということですか?」


「そこまではちょっと分からないかな。――残念だけどね」


「……もし芳しくないとして、どうすればよい方向に向かいますかね?」


「卦から判断する限りでいえば、周囲の影響だとか世の中を飛び回る情報――世論と言ってもいいかな。それが、地に足をつけるように現実にフォーカスすべきなんじゃないかな」


「うーん、……分かるような分からないような」


 俺の反応に『まあ、当たるも八卦当たらぬも八卦だから』と笑った久喜さんは、そのタイミングで入ってきた軽食の注文への対応を始めていた。


 仮に久喜さんの易占いが的を射ていたとして、凍土期パフォーマンスの問題で、世論が地に足をつけた解決とは何なのだろうと、俺は考えていた。




 そろそろ待ち合わせの時間に間に合わせるために、使っていた席を片付けねばならなかった。巻倉の職場はフリーアドレス化が進み、資料室や保管庫などを除けばオフィスでは各人が好きな位置で仕事をしている。


「もうこんな時間か……」


 それでもお役所仕事のど真ん中に関わる業務をする関係で、完全にペーパーレス化することはまだできていない。その結果、使用する紙の資料については、共有のキャビネットや個人が管理するキャビネットに出し入れする手間が付きまとった。


「巻倉さん、いまから外回りですっけ? いまちょっといいですか?」


「すまない、待ち合わせ時間に遅れるから後回しにしてくれないか?」


「ちょーっとだけなんで助けてくださいよ。七支刀偏在状況調査の件で――」


 資料を片付けようとしていたところを目ざとく見つけた後輩に、巻倉は声を掛けられた。


 例のリセットボタン経典絡みの動きは、筋道が立ちつつあると判断されたので、ほぼ平素の業務体制に戻っていた。


 それはまた、巻倉が様々な業務を差し込まれそうになることを意味していたのだが、上司である河内の指示が出ていた。


 当面のあいだ巻倉ほか数名に横から仕事を投げることが禁じられていたのだ。当面のあいだというのは、阿那律院あなりついんの非主流派が抑えられるまでということだった。


「おいそこ! 石山いしやま! 俺ぁちょっと前に言ったばっかだよな。当面は巻倉を機動的に動かすために仕事を振るなってよ」


「え、でもこの件は前に巻倉さんが……」


「巻倉が噛んでた奴はとりあえず俺も見れんだよ。俺んとこに持ってこいや。そもそもおめえ、オフィスがフリーアドレスになってから、何のために俺が入口のすぐ傍で仕事してると思ってんだよ?」


「――えー、あたしたちを監視するためですかぁ?」


「――ちげえだろ、昼飯に超ダッシュで向かうためじゃね?」


「……お前らが相談しやすいように初めに目につくとこにんだよ! おう、寝言を言うにゃ、まだ真っ昼間だぞ手前ぇら。とりあえず江戸城のほりに叩き込んで目を覚まさせるか……とにかくだ、巻倉、お前はとっとと机を片して出かけてこい」


「分かりました」


 目の前の引き留めは回避できたようなので、巻倉は机の片づけを急いだ。視界の隅では石山が、買い付けられた子牛のような気配を漂わせながら河内のところに移動していった。




 都心にあるその石造りの山王鳥居は、初めて俺が見たときのようにその威容を誇っていた。先日夢の中で稽古をつけてくれた件で、お礼に参拝しようと伺っていた。


 当初は一人で参拝しようとしたのだが、たまたま照汰でるたとの会話で話が出た。そこで巻倉を誘ってみてはと照汰から提案されたのだ。どうやら仕事場が目的地に近いらしい。


「でも、巻倉くん仕事中なんじゃ無いのか?」


「そんならなおのこと好都合ですわ。ぼく、マッキーのおかんから体調を気ぃつけてやるよう言われとるんです。あいつの場合、仕事をさぼらせるくらいでちょうどいい思います」


「さぼらせるくらいで、って。普通なら学生じゃ無いんだからとか思い浮かぶけど、彼の場合は激務なんだっけ?」


 そんな話をして、急遽の同行が決まったのだ。いちおう照汰経由で本人の連絡先は聞いてあるので、仮に予定の時間に来なくても連絡は付くことになっていた。




 約束の時間に山王鳥居のところで待っていると、程なく巻倉が現れた。以前会った時に比べると、多少は顔色も良いようだ。


「こんにちは、お待たせしました」


「いや、時間通りだよ。俺が少し早かっただけさ」


「そうでしたか。――それは、お供えものですか?」


「ああ、日本酒を奉納しようと思って、道すがら買って来たんだ」


 俺の手荷物に気づいた巻倉が問うた。


「わたしも何か用意すれば良かったですかね? 手ぶらで来ちゃいましたよ」


「気にしないでいいよ、今日は俺が付き合わせた感じだし」


 俺の応えにひとつ頷いて、二人で参道を上った。先ず社務所に向かってから酒を受け取ってもらうと、俺たちは先に稲荷社にお参りしてから拝殿に参拝した。


 先日の礼などを脳裏に浮かべつつ参拝を終えると、巻倉が異変に気がついた。


「あれ? 何となく静かになった気がしませんか?」


 確かにそう言われれば、都心の喧騒のようなものが感じられない。改めて境内を見れば、先ほどまで見かけたはずの他の参拝客の姿も無かった。これはまた“招かれた”かと考えていれば、拝殿の奥から出てくる者の姿があった。


「お主もなかなかに殊勝な奴よな」


 そう告げたのは藍色の着流しで雪駄を履き、猿の面を被った神猿まさるだった。俺は拝殿の方に向き直り、頭を下げた。


「先回は突然に伺いましたので、そのお礼も兼ねまして参じました」


「……守谷さん、こちらの方はお知り合いですか?」


「この神社の神格の神猿さまだよ。以前少しばかり鍛練して下さったんだ」


 俺の言葉に巻倉は頭を真っ白にしたようで、しばしその場で固まっていた。やがて彼はごくりと唾を飲み込んだ後で我に返ると、その顔を真っ白にして直角に腰を折り頭を下げた。


「比叡の神猿さまにお目どおりが叶うなど、光栄の極みです。わたしは巻倉と申します。知らぬとはいえ、ご挨拶が遅れ申し訳ございません」


「よいよい、そう硬くなるな。拙者の息抜きになりそうゆえ主も招いたに過ぎん」


「猿よ、我も息抜きを所望するなり」


 背後からはいつもの朗々とした女性の声がした。振り返れば神気を纏った白狐が居た。大きな獣の姿で、その尻尾は機嫌良さそうにゆるく左右に揺れていた。


「こ、こちらの神気を纏った狐さまはもしや……」


「うん、稲荷様だな」


「こ、……稲荷さま、巻倉と申します」


「ふ、知らいでか。そも貴様は生家に我の祠を持つ身で随分と無沙汰なり」


「面目ございません……」


 家に稲荷神の祠があるなら、参って無ければ叱られるよな、と同じく叱られた身で苦笑する。


「赦すなり。此度そこな者と訪れたるは善きかな」


「巻倉くん、稲荷様もこう言ってくださってるし、あまり恐縮しすぎないほうがいいと思う。俺もそうだったけど、子供のころから生活圏に稲荷神社があったし、今さら取り繕うよりは感謝を忘れないようにする方がいいんじゃないか」


「そう、ですかね。今後気を付けます」


 そう言って巻倉は何度か白狐に頭を下げていた。


「ときにお主、此度は白日の女神殿は呼ばぬのか?」


 神猿が身体の前で腕を組んだ状態で、俺にそのようなことを言った。マアトを呼ばないのかということだが、いきなり呼び立てて良いものだろうかと思う。それを神猿に問えば、ここで呼ばないほうが救いがたいなどと言われてしまった。


 せっかく水を向けられたのだし、マアトには聞きたいこともあったから、彼女をその場で呼んだ。

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