32.大それたいたずらを正に成功させよう

 走り湯を御神体とするその古社は、緑に囲まれ静謐の中にあった。かつて源頼朝と北条政子が逢瀬の場所としたという神社に参拝した杉山と鼓典こでんは、境内のベンチで寛いでいた。


「鎌倉幕府の中心人物たちがデートに使ったってわりには、意外と枯れてるんだな」


「古い神社みたいだから、相応に風格があるってことだろ」


「恋愛感情とかを滾らせるには、むしろ気持ちが落ち着いて来るけどな。まあ、オレたちがここでぼうっとしてるのも悪く無いか」


 鼓典を見ながら杉山は、よく陽に焼けた顔で笑った。


「それで、このあとだけど街中にある共同風呂で温泉に入って行こう」


「いま座ったばかりだろー、もう少しゆっくりしてこうぜ、な?」


「別に構わんが、あまりのんびりしてると帰りが遅くなるだろ」


「ほんとお前はそういうの細かいよな」


 杉山たちは首都圏を離れ、熱海までバイクツーリングに来ていた。幸い天気に恵まれ、途中の道行きも渋滞はなく順調だった。


「そういえばさ、お前のマシン、新型が出たら乗り換えるのか? 今度のはターボが搭載されるかもなんて噂もあるけど」


「新型か……。今でさえ三つ切り替えられる走行モードの一番過激な奴、乗りこなせてないからなあ」


「その辺は気合いだろ」


「全く、過激さとかおまえみたいなじゃじゃ馬なんだぞ」


 杉山へとじゃじゃ馬と告げる鼓典の表情には、優しい笑顔が見られた。


「そいつは悪かったな」


「まあ、そのじゃじゃ馬具合がイイんだけどな」


「ほう、それはマシンのことか? オレのことか?」


「そんなの両方に決まってるだろ」


「……ったく、お前はそう言うと思ったけどよ。からかいがいが無いよな。……あんがとな」


「おう」


そんなやり取りをして休んだあと、地元の者も行くような温泉を引く市内の共同浴場に向かった。




他に客もいない男湯で鼓典が身体を洗い、貸し切り状態で湯に入っていると、数名の青年たちが入ってきた。全員坊主頭だったが、高校球児というにはどうにも歳を取っているようだ。


「全く、いきなりぱたぱたと気を失ったときはどうなるかと思ったぞ」


「仕方ないだろ、気づいた時には倒されてたんだから」


「総長を張ってたまでは良かったが、結局逃げられたからなあ」


「また慶刻けいこくさん辺りが修行のやり直しとか言い出すぞ」


 青年達はそんな話をしていた。


 修行という単語を聞いて、鼓典は彼らが僧侶であることを考えた。確かに熱海には宿泊施設も多いから、そういう集団もいるかも知れないななどと考えていた。




 温泉地として長い歴史を持つ熱海は、近年都心からのアクセスの良さにより活況を見せていた。


 だが、経営者の高齢化により、中にはその営業を終える旅館もあった。


 元は客室だった和室で青くひろがる相模湾を窓から眺めながら、立花網膳たちばなもうぜん煤山観解すすやまかんげは佇んでいた。彼らが建物ごと借り受けたそこもまた、旅館業を終えた場所の一つだった。


彼らがが借り受けたその施設にはいま、かつての客が見せた活気の代わりに、若い僧侶たちが動き回っている。


「本番を前にして皆で行う祈祷は、これが最後になるじゃろう」


「はい」


「見てみるがいい観解よ、斯様に海も、山々の緑も、この世は黙っていても美しいものよのう」


「はい」


「儂はもう、いつ彼岸に渡っても本望じゃ」


「……」


「観解よ、重ねての話じゃが、後は頼むぞ」


 そう告げる立花の表情は穏やかだ。首都圏の喧騒も、木立に囲まれた年季の入った建物には無縁で、和室には外でさえずる鳥たちの声があった。


 立花は座卓に出された緑茶に口をつけて、煤山を見やった。


「そこは頷いてくれんとのう」


「網膳さま、本当に遷化せんげなさるお積りですか?」


 遷化とは高僧の死を名状する言葉だ。この世での後進らへの指導を終え、彼岸に旅立つことを指す。それを望むように語る立花について、煤山は納得できていない様子だった。


「是非もないわ、今さらじゃの」


「ですが」


 自身へと訴えようとする眼に対し、大きく腹から笑い声をあげ、立花は煤山を諭そうとする。それは聞き分けのない生徒に対し、優しく導こうとする教師のような姿だった。


「幾度も話して決めたことじゃ。いまこの国は停滞しておる。それ故に衆生は日々の暮らしでさえ追い詰められ、その手で罪を犯し自ら死を選ぶ者も多い」


「だからこそ、停滞そのものを終わらせる。そこまでは良いのです」


「停滞を自らのものと衆生が理解するには、全てを失う覚悟が必要じゃ。――『本当はすでに失っておる』ということに気づかなければならんのじゃがな」


「網膳さまはかつてその身で経験された、全てを焦土とされて失った大空襲の話をしてくださいましたね」


「そうじゃの……」


 立花は幼いころに経験した大空襲を忘れたことは無い。


 自分が経験したものだけでも死者行方不明者は十万人を超え、焼夷弾の油で河川は燃える川となり、逃げ遅れた母子の焼死体などは数えきれず見た。そして後には焼野原が残った。


 比喩ではなく、文字通り見渡す範囲一面が火災で更地になったのだ。自身が生き残ったのは、運が良かっただけと思って生きてきた。


「失っていることを気づかせるにせよ、この世の地獄を見せるわけにはゆかぬ」


「しかし……」


「それにのう、就職凍土期で苦しんで居った甥っ子が、一番苦しい時に助けてやれなんだ。元より儂は大した坊主でも無かったが、あの子が自ら死を選んだのを知ったとき、経典で得た己の小賢しさには溜息しか出んかったのじゃ」


「……」


「祈祷で命を尽くさねば、衆生の命に影響が出るじゃろう。ならそれは儂の仕事じゃ。――なに、彼岸であの子に出遅れたと詫びることができるなら、むしろそれは喜びじゃ。それに祈祷の中で逝けるのなら、儂のようなクソ坊主には僥倖じゃよ」


 そのとき煤山に向けられた笑顔は、大それたいたずらを正に成功させようとする悪童のような清々しさがあった。


 そのとき煤山は、自身がどのような顔を浮かべていたかは分からなかったが、無意識に立花へと手を合わせていた。




 あの阿修羅に追い立てられた日から数日して、俺たちは中野駅近くのカラオケボックスに集まっていた。巻倉がその後の状況について話をしたいということだった。


 お約束のように巻倉は遅れて登場し、相変わらずくたびれた様子だった。ちなみに巻倉が到着したときたまたま照汰が歌っていたが、止めるでもなく最後まで一曲歌い切っていた。


「本当に申し訳ありません。随分お待たせしたでしょう」


「気にせんでええよ、ぼくらの中でマッキーが遅れてくるのはもうお約束みたいなもんやし。そやね店長?」


「お約束というのはどうかと思うけど、気にはしていないから。巻倉くんはもう少し労働環境を職場で相談したほうがいいんじゃないかな」


 そんなやり取りをしている間に巻倉の飲み物が来たので、巻倉は付箋紙を使った陰陽術でカラオケボックス室内を呪術的に隔離させた。


「それで、何か動きはあったのか?」


「はい、先日飯能でお会いした小堂さんとうちの上司、河内こうちというのですがそちらとホットラインが出来ました。これにより、先の寺宝の盗難事件捜査の名目で、阿那律院非主流派の調査が始まりました、」


「ええと、具体的に盗難事件の方は今どないなん?」


「物証が少なくて、捜査担当者が頭を抱えているそうだ。ただ、寺宝を回収した倉庫周辺の建物の、警備会社とは別の防犯カメラから車両を特定したらしい。そこからは地道に追うことになるそうだ」


「ただなあ、関係者は記憶をいじられてる可能性があるんだろ?」


「そこも防犯カメラのリレーとか、保管場所で無関係だった者の証言などで埋めていくらしいです。記憶をいじられているなら、催眠術などの類いで犯罪をさせた場合と同じ罪科を問うつもりみたいですね」


 寺宝の盗難に関しては非主流派が関与している可能性が高く、協力した者たちはある意味で被害者みたいなものだろう。その辺りは警察がうまくやるそうだ。


「経典の解読とかどうなん?」


「そちらでも、進展があった。うちの上の方と盗難被害に遭った門跡寺院が協力して解読を進めていたことは話したな。そこからさらに複数の言語学者や歴史学者、宗教学者を上司の河内こうちが引っ張り込んで解読したそうだ」


「……結論として、経典に効果はあるんか?」


「あると結論された。密教儀式全体は寺の秘中の秘らしいんだが、その核心部分で特定の真言を唱えることや、特定の神仏に請願する記載があったらしい。密教の祈祷に通じる者なら実践は可能だそうだ」


「カルト集団が握る、実効性ある密教経典による、世の中のリセットか……」


「リセットと言っても元は改元かいげん――元号を変えるのに併せて行われる儀式ですから、全体としての効果はそこまで邪なものでは無いようです」


「全体としてはいうと、こまいとこに何か懸念があるん?」


「……祈祷の中に遷化せんげを促すところがあって、場合によっては少なくない人数の人死にが出るかも知れないそうなんです」


 仏教へと影響を与えた宗教の中には、生き物を生贄に供するものがある。俺は、その経典がそういう類いのものでは無いことを願った。

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