10.これによって果てしなく続く大地が

 次第に覚醒していく意識の中で目を開けると、そこには知らない天井があった。ややくすんだ白だ。俺は自身がベッドに横たわっていることに気づく。意識して五感の情報を集めれば、自分が現実世界にいることに気づいた。


「ここは……病院、だな」


 容態をモニターしていたのか、直ぐに看護師が現れ、それに続いて医師が現れた。身体に異常を感じるか問われたが、特に問題なさそうなのでその旨を伝えた。看護師によれば近隣のホテルに俺の両親が来ているそうで、連絡するので直ぐに来るだろうとのことだった。俺との受け答えに満足したのか、彼らは俺のベッドから離れた。


 両親が来ているのか。多分倒れたことで説教されるだろうな。ああ、この歳になって説教食らうのはキツいものがあるな。などと取り留めもなく考えている。


 俺が居るのは大部屋のようだから、そこまで煩くすることは無いだろうと見るのは希望的観測だろうか。


 しばらくして、医師と看護師を伴って両親が現れた。


「ようやく起きたか。具合はどうだ? 仕事をしすぎたんじゃないのか?」


 目を合わせると父が微笑んで口を開いた。父は古流の武術を修めている。俺が実家を離れるまでは、身にまとわせた気配で実際の身長よりも大きく感じた記憶がある。それでも目の前の父は、年齢なりに小さく見えた。俺は、自身が心配をかけてしまったことを悔やんだ。


「来てくれたんだな、遠いところごめんな」


「気にするな。お前は倒れてから三日も寝てたんだぞ」


「そうだったんだ」


 母はそんなやり取りを苦笑しつつ眺めていた。こういう状況で母は、多くを語らない。静かに内圧を高めたところで、一番問題があると感じたことを抉るように突いてくる。いちど親戚の葬式だったか、集まった中でそんなやり取りを目にした。


「従治もはやくいい人を見つけて、結婚しなきゃダメよ。仕事にせよ生活にせよ、分担すれば大変なことも何とかなるのだから。歳を取るのはあっという間よ」


 俺はいきなり会心の一撃を食らった。一応まだヒットポイントは残っている。


「母さん……。分かってるよ。心配かけてごめん」


「仕方がない子ね。いい機会だし、徹底的に検査して貰いなさい」


 俺たちのやり取りを見ていた医師は、認知機能に問題は無さそうですねと静かに告げた。そして、程なく主治医が来られるので彼から容態を話す、と告げて看護師と退出していった。


 その後さらに待ってから、車椅子を使って病棟の診察室に移り、説明を受けた。自分の足で歩けそうだが、寝ていたためか身体を起こすと多少は怠い。


 倒れた時点では着衣に喀血の跡が見られたが、検査の結果は異状なしという事だった。血圧も正常値で、血管気管消化管をはじめ体内の損傷は無し。他の検査値も異常が無く、脳にも読影を含めて問題ないとのことだった。


「逆に、悪いところが見つからなくて、脳の細かいところの損傷を疑ったのですが、とにかく異常は見つからなかったです」


 そう言って頬をかく主治医は困ったような笑みを浮かべていた。


「そういう事ですので、再度検査して、数日様子を見てから退院ということになります」


「ありがとうございます」


 俺たちは揃って感謝の言葉を伝えた。


「それにしても……」


「どうされたのですか?」


 電子カルテを眺める主治医に、母が問いかけた。


「いえね、こんな仕事をしていると色んな患者さんを診るのですが、ごくごく稀に意識を失っても医学的には全く健康体というひとも居るんですよ。脳死とも違ってね。……私らも日々、勉強なんですけどね」


「愚息が本当にお手数をかけて、恐れ入ります」


「いえ。でも息子さんに関しては、問題無いと思いますので、すぐ日常生活に戻れるでしょう」


 俺としては寝ている間に経験した記憶を語ったら、特殊な診断がついてしまうだろうなと苦笑した。




 病室に戻ると俺の店のスタッフが二人待っていた。一人は浅菜で、もう一人は久喜春也くきはるやさんだ。


 久喜さんは普段はジャケットを着こなし、その立ち姿は遠くから見ても美形中年俳優といった雰囲気がある。彼は専業主夫で、奥さんが服飾デザイナーをしている。本人は結婚前に飲食店厨房で働いていて、料理はプロ級だ。


 そのまま俺たちは病棟内の談話室に移動した。


「店長、お帰りなさい!」


 皆が椅子に座る前に開口一番、浅菜が俺の手を取って上下にぶんぶんと揺らしながら告げた。それを見た俺の母の視線が、猛禽類か何かの気配を帯びた気がしたが今は気にしないことにする。


「何か血を吐いちゃったみたいで、色々とごめんな」


「本当だよ。どれだけ心配したと……」


「そのくらいにしておきなさい。店長もこうして無事なんだ。細かい小言なんかは後回しでもいいんだ」


 浅菜の目がだんだん赤くなっていくのがいたたまれない。空気を読んだのか、久喜さんがイケオジスマイルで割って入った。俺もこんな歳の重ね方をしたいななどと思う。


 その後互いに自己紹介を済ませ、薬剤師をしている俺の母から浅菜と久喜さんに容態を説明した。久喜さんからはその後の俺の店の様子が聞けたが、カフェチェーンから応援の人員が来てくれたそうだ。店の営業に関しては問題ないと聞いて、俺は安堵した。


「今日私らはシフトが入って無くてね。親御さんから店まで意識が戻った連絡があって、それを辻くんが私らに教えてくれたのさ」


「そうなんだよ。それで慌ててお見舞いの品を用意して、店で久喜さんと合流してここに来たんだ」


「そのお見舞いがねぇ……」


「べ、別にいいじゃないか。知らなかったんだし」


 非常に安定した品質でイケオジスマイルを展開しながら、久喜さんが説明する。俺の店で合流したとき、浅菜はお見舞いの品として橙色のガーベラの花束を用意していた。見舞いの品といえば花束だろうと近くの花屋に駆け込み、大急ぎで作らせたらしい。その花にしたのは、見渡した時に一番いい花だと感じたからだそうだ。


「ご自宅に見舞うなら生花でもいいのだが、病院では普通は禁止になっているだろう? 感染症予防だったかな」


「うん、僕は知らなかったんです」


「はは、そういう事もある。それで花束は店に飾ることにして、道すがら橙色つながりでこれを買ってきたわけだ」


 久喜さんが手で示したのは、テーブルに置かれたオレンジのゼリーだった。


「橙色のガーベラ――花言葉は“神秘”と“冒険心”!」


 うちの母がゼリーを見ながら何かつぶやいている。内圧どころか、妙な小宇宙的なエネルギーなアレとかをその身に貯めていなければいいのだが。


「ところでれいちゃん、突然だけれどあなたは独身かしら?」


「はい? ええと、そうですね?」


「もしうちの愚息で良ければ、いつでも大歓迎よ! 脳裏の片隅の余白にフリクションペンでもいいからメモしておいてくれると、私はいつでも逝けるわ!」


 いきなり何か会心の一撃的な特大の地雷を、目の前で母親が設置しやがった。


 というかいつでもと言わず今すぐ逝ってくれ。幸いここは病院だ。


「ああ、浅菜。すまん、うちの両親はこう見えて疲れてるんだ。なにか口走っても取りあえず気にしないで欲しい」


「そ、そうですか」


 なにか絞り出すように応えた浅菜の表情は、どうにも固まっていた。そのやり取りを父は空気になって見守っており、久喜さんは生暖かい視線でニコニコと眺めていた。


 その後、さすがに無難な世間話を散りばめつつ適当な所で面会を終えた。父は教員の仕事を、母はドラッグストアの仕事をそれぞれ休んで来ている。浅菜や久喜さんたちを引き留めるのも気が引けた。


「とにかく、無理するなよ。元気でな」


「今は薬が発達してるけど、今回みたいに人は突然倒れるの。健康に気を付けなさい」


「父さんと母さんも気を付けてな。ありがとう」


 そんなやり取りをして、浅菜と久喜さんにも礼を言ってから皆を帰した。




 そうして少ししたら、再度久喜さんが俺のベッドまでやってきた。


「二つ言い忘れていたんだ。一つは今回の君について易を立ててみた。結果は地雷復ちらいふく初爻しょこうだったよ」


「それは、どういう結果ですか」


「地は世間とか対外的な状況を意味してる。良くも悪くも安定していて変わりようがないものだ。かみなりは君の周囲の状況を意味していて、大騒ぎしてとにかく激しいことが起こるような状態だ」


「激しいことですか」


「喀血して意識が飛ぶとか、十分激しいかな。……卦としては冬至の地面の下で、春に溢れる命のエネルギーが準備されているようなものだ。その初爻で雷の象意が地に代わる。これによって、果てしなく続く大地が目の前に広がる状況になる。前に進めるようになるのさ」


「分かるような分からないような……」


「まあ、勝手に私が見てみただけさ。参考にしてほしい。地雷復の初爻だよ、それほど悪い卦では無いんだ」


 伝え忘れというか、俺の両親を前にこの人は自身の趣味としている易占の話をするのを避けたのだろう。久喜さんは筮竹を使った占いもできるが、コインで易をする方法もあるそうだ。


 易といえば当たるも八卦当たらぬも八卦だ。心のどこかにメモしておこう。もう一つの言い忘れは何だろう。


「もう一つは辻くんからの伝言だ。君が退院してから、とても濃いコーヒーの話をしたいそうだ」


「エスプレッソよりも濃い奴ですね」


「ああ、そういえば分かるだろうと、彼は言っていたよ」


「そうですか」


 そこまで告げると久喜さんは、それじゃあねと渋い声で告げて部屋を出て行った。

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