9.尖らせているからむしろそこを突け

 密教には明王と呼ばれる荒々しい姿の仏がいる。


 有名なのはその筆頭たる不動明王だが、これに降三世明王ごうさんぜみょうおう軍荼利明王ぐんだりみょうおう大威徳明王だいいとくみょうおう金剛夜叉明王こんごうやしゃみょうおうの四仏を加えて“五大明王”とワンセットで語られる。


 ただし、天台宗では金剛夜叉明王を、烏枢沙摩明王うすさまみょうおうに置き換えるという。烏枢沙摩明王はトイレの仏さまなどと奉られることがあるが、この明王が烈火で不浄を燃やし尽すかららしい。


 なぜそんなことを覚えていたかといえば、神名が歴史と共に変遷した話を聞いたからだ。


 イラン辺りで大昔にゾロアスター教が信仰されていた。その火の神アータルが、インドでアグニとなり、仏教伝来の中で烏枢沙摩明王となった。変遷の過程で神格に対し、様々に権能が加えられているだろう。神の進化と改造だ。


 神の進化など、俺の中の中学二年生が意味深な鼓動を早めそうだ。……鎮まれ……鎮まれッ。




 五大明王は、大日如来をはじめとした五智如来の荒魂あらみたまというか、戦闘モードみたいなものらしい。


 説法やら慈悲で悟らせるのが困難な相手に対し、パンプアップしてゲンコツで殴りつけ、力技で悟らせる。そんな話を杉山から聞いたことがある。あいつは空手をやっているからか、ものすごい説得力だと思った記憶がある。


 ちなみに杉山は密教マニアだ。もし無事に現実に帰れたのなら、もう少し詳しく聞いてみても良いのかもしれない。あいつに聞けば嬉々として、梵字と真言まで含めて話始めるだろう。


 ただ、いくら杉山が密教マニアでも、実践まではしていなかった筈だ。まあ、確認したことは無いのだけれど。現実の肉体に即時に影響を出せるような、集団祈祷までは知らないとは思う。


 というか、杉山が殺意を持って迫ってきたら、正拳と肘で俺は死ねそうだ。




 今回の犯行で動いたという明王については、名前などの基本的な部分だけは知識があった。それでも、目の前にはその道のプロというか、本当の意味での神様がいる。聞けるうちに詳しい話を聞いておきたいと思う。


「大威徳明王が五大明王に含まれているとかは知っています。でも、名前くらいしか知らないです」


「怖い仏よ。明王がそもそも怖いけれど」


 俺の言葉に苦笑して弁天が答えた。


「神や仏がそれぞれに担当分野を歴史の中で増やすのは、良くあるでしょう」


「そうですね」


「わたくしにしても元々は河川神だったはずだけど、流れるという働きが音楽の旋律と結びついて芸能を担当するようになったわ。そして仏教に移ってからは、河川の荒ぶる流れがいつの間にかいくさの働きに対応すると意味づけられて、戦神としての担当も増えたの」


 弁天の説明を聞きながら、マアトが指を鳴らす。話を遮るでもなく、それぞれの席の前にコーヒーが出された。


 カルダモンだろうか、甘く清涼感のある香りがコーヒーの香りに溶け込んでいる。いわゆるエジプトコーヒーだろう。ちなみにお稲荷様である白狐の分は、陶器の深皿に淹れられていた。俺の店でもエジプトコーヒー出せないかな、と思う。いちど本部に相談してみようか。


「確かにそういう事はあるわね。私の知り合いでいえば、セトちゃんとかがそうかしら。元々は砂漠担当でキャラバンの守護神だったけど、砂嵐の破壊力でいつの間にか軍神になったとかあったわね」


「そう、神としては担当分野が増えていくの。それが普通。けれど、密教では良くも悪くも妄執的な分業が為されたのよ」


「確かにそうねえ」


 マアトがコーヒーを啜りながら、弁天と話し込む。俺としては、弁天の気にしていることが何となく見え始めた。彼女が怖いと呼ぶ部分について。


「結論を急ぐのもどうかとは思うが、妾たちも暇ではない。弁天よ、迂遠な説明はそれくらいで良いじゃろう」


「そうですね、西王母。――密教の仏の怖さは、分業によるその力の専門を尖らせることよ。くだんの明王でいえば、死に特化していること。もともと諸人の死に寄り添う阿弥陀如来と縁が深いから、仏敵へと死をもって臨み、六道に叩きこむの。それが彼にとっての救い」


「まさに、死神ですね」


 俺が呻くように応えると、弁天は頷く。


「けれど分業特化されているということは、対策もできる。密教の仏はそれぞれに方位と属性を持つの。彼に関していえば、西の方角を受け持っているわ」


 そこまで語って弁天は、品のある所作でコーヒーを一口飲んでから話を続ける。


「つまり、彼の攻撃に対抗するには、あなたの中で西の方角に対応する属性で相手をくらまし、その逆方向たる東の方角の属性で抗えば済むの」


「妾たちでいえば、東は龍で木気がそれに当たるが、そなたは異なるすべを修めておるのお」


「はい、そういう事でしたら、俺の流儀では東は風の元素が対応します。大天使でいえばラファエルですね。ラファエルがホドに対応するので……七十二天使でいえば、ホドに対応する天使の“再生”を担当するメヒエルの力を借りるのがいいでしょうか」


「あてはあるようじゃな」


 流派による違いは色々とあるだろうが、魔術では東西南北の大天使は順に、ラファエル、ミカエル、ガブリエル、ウリエルが対応する。


 ウリエル以外には生命の樹にそのまま紐づけられているが、ウリエルは地属性で色でいえば緑色となる。生命の樹で緑色が対応するのはネツァクという球体セフィラであり、俺の師匠によれば同じネツァクと対応する(大)天使が、ウリエルと縁が深いようだ。


「要するに、密教の人たちを相手にするときは、相手が分業して能力を尖らせているから、むしろそこを突けばいいわけね!」


 マアトが話をまとめて微笑む。


 そういえば、と俺は思う。魔術的には西方向の事象に対抗するために、東方向の風の力を使う。魔術では東方向を象徴する色は黄色だ。俺はそこまで考えて視線を黄衣こうえの神格を見る。彼(?)は大人しく椅子に座り、フードの下でどこに消えていくのかコーヒーを飲んでいた。


 俺の視線に気づいた彼(?)は、小さく二回うなずいた。自分が風元素を担当することを肯定したのだろう。


 彼(?)の頷きに合わせて、どこかひどく遠い場所で大質量の何かが身をよじったような、ねちょりどぷりという音を聞いた気がした。俺はすぐにそれを忘れることにした。


「次善の策はこれで善し。此度の仕儀は尊格に非ず。襲うもの在らば其れは尽きぬ」


 それまで大人しくコーヒーを皿で啜っていた白狐が口を開き、また俺の顔を舐め回した。ああ狡いなどという言葉がマアトから漏れるが、白狐の告げたことの方が俺にとっては気になった。


「正直、心当たりは無いです。手掛かりとするなら、密教の祈祷を使ったこと。集団で祈祷を行ったこと。大威徳明王を送り込んできたこと。そのあたりでしょうか」


「そもそも其れは貴様の課題なり。我らが送り主を語ること無し」


「え、課題って……」


「貴様がうつつに生ずる前に決めたこと。その一部なり」


「ええと――生まれる前に、俺自身が自らの課題として自らを襲わせるのを選んだ。そういうことですか?」


「然り」


 うわあ、生まれる前の俺を殴りてえ、などと思いながら俺は頭を抱えた。


「大丈夫よ、私たちも居るもの。白日はくじつたるマアトの名において誓うわ。あなたがあなた自身の法に恥じない身であるならば、私はあなたの魂を支えます」


 それまでのテンションを少し抑えて、マアトは真摯な笑みと共に俺に告げた。向こうからの申し出とはいえ、神に目の前で誓わせるのは流石に畏れ多かった。


「……ありがとうございます。非才の身なれど、俺は自らの法に反しないよう生きることに努めます」


「よろしい」


「妾も、拙女に請われる限りにおいては助力しよう。お主なら異は無い」


「わたくしも構いません」


 西王母や弁天以外に黄衣の神格も頷いてくれているようだが、他の神格へのそれとは別の意味でおそろしく、俺は視線を向けるのがためらわれた。


 それでも折角来てくれたのだからと黄色いフードを見ると、その中に広がる深淵の闇からずずずずみちみちみち、という何か酷く重いものを引きずる音がした気がした。俺はもう気にしないことにした。


「我に於いて改めて語るまでも無し。貴様を護るのに否となるもの無し」


 白狐は上機嫌な様子で、もふもふの尻尾をぶんぶんと振っていた。


「ここにいる皆の力で呪術祈祷への対処はどうとでもなるけれど、仮に呪詛を切っ掛けにして深刻な肉体への損傷や欠損があっても、幾つか奥の手はあるわ。安心なさい」


「どうしてここまでして下さるんですか?」


「久方ぶりに若い子に頼られたのが嬉しかったから、かしら?」


「頼るばかりというのも気が引けるんですが」


「なら先に述べた通りに励みなさい」


 最後はマアトがめた。その表情は眩しいくらい得意げだった。




 その後は話の流れで、俺が現実世界に戻ることになった。現実世界の俺は、明王から致死性のダメージを食らった。だが、いまこの場に来てくれた神格たちの力でそのダメージを押しのけ、回復に向かっているそうだ。死神怖いよ、ホントに。


「今回を含めて九回ここに来たら、新しい神に加われるように私が推薦してあげるわよ。少なくとも、オーディンくんも賛成してくれると思うの」


「いや、そんなに瀕死攻撃を食らいたくないです」


 北欧神話にそんな話があっただろうか、などと一瞬考える。


「えへへ、冗談よ、一応ね。さて、椅子の背に身を預けて目を閉じなさい。そうすればあなたの現実に送ってあげるから」


 それを聞いて俺は立ち上がり、深く頭を下げた。


「ほんとうに皆様には感謝いたします。ありがとうございました」


 神格たちは俺の言葉にうなずいてくれた。俺は再び椅子に座って目を閉じた。急速に意識が深い白の中に融けていく。


「いつでも私を呼びなさい」


 遠くなるマアトの声に被さるように、ベロベロと顔を何かに舐められているような感触があった。彼女が、ああ狡いとか叫んでいるが、髪をまたぐりんぐりんと撫で始めたような感触もある。それらの遥か向こうで、ずっずっずるっずるっと何か大質量のものがが引きずられる音が聞こえた気がした。

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