8.この場に深淵と狂気が満ちるからな

 目を開けると、知らない天井などは無く、そこは白い空間だった。いよいよここは彼岸というか、魂が分解される準備でもされてるんだろうかと思う。それでも俺の意識が保たれているのはどういう状況なのだろう。意識に伝わる情報では、俺が今日職場に着て来た服装をまとっているようだ。


 誰か都合よく説明してくれたらいいのだが、などと考えながら上半身を起こすと、周囲に人影がある事に気づいた。いや、この状況で相手が人間なのかは疑問ではあったが。


 まず前方中央にいるのは、サラサラの黒髪の長髪をした美少女だ。白い清潔感のあるワンピースを着ており、顔立ちはヨーロッパというよりは中東のあたりの美人顔だ。


「えへへ、もっと褒めていいわよ」


 頭には大きな一枚の羽根で作った髪飾りを付けている。というかいまナチュラルに心を読まれた気がするな。


「そうね、その認識であってるわ。こうして会うのは初めましてよね」


 心を簡単に読まれるのは精神衛生上、都合が良くない。魔術的な意識操作のトレーニングの延長のような感じで自身の表層意識をしまい込み、ふつうに会話できないか試してみる。


「そうですね、初めましてだとおもいます、お嬢さん」


「……ああ、器用ね。いきなりガードしたわね。それより“お嬢さん”呼びしたわこの子! もう色んな加護を上げたくなるわ!」


「ええと、加護もうれしいのですが、先ずは情報を頂けたらと思います。これは、どういう状況でしょうか」


 周囲に視線を向けると、彼女を含め女性が三人と、それとは別に黄色いローブを着た人が一人。あと、巨大な白い狐が一頭、尻尾を振りながらこちらを伺っている。


「そうね、まずは場所を変えましょうか。えい!」


 ワンピースの少女がぱちんと指を鳴らすと、俺はどこかのベランダで椅子に座っていた。海外の高級リゾートだろうか、眼前の手すりやその上のアーチには中東風の飾りが施されている。


 椅子は丸いテーブルを囲むように並び、それぞれが席に座っていた。




 ベランダから外を見れば、芝生の中に石畳の道が巡らされた中庭がある。ところどころ中庭には巨大なナツメヤシが並び、庭の向こうは大きな川が流れている。川向うには、やはり中東で見られるような、丸屋根の塔を含んだ石造りの街が広がっていた。


「さて、自己紹介と行きたいところだけど、そもそも私はあなたに呼ばれたのよ? 覚えてないかしら」


 少女は可憐な声でそう告げると、期待を込めた視線を俺に向けた。


 彼女からプレッシャーを感じつつ、俺は必死に記憶をたどる。召喚やら喚起の類いは仰々しく行っていなかった筈だ。そもそも俺は店で倒れた。――その時に、神なる者に願った記憶はあるな。ええと――


 法の女神。


 だとしたら、俺にとって法の女神とは、誰だ。やばい、間違えると神罰を被ったりするんでしょうかこれ。落ちつけ、こういう時は素数を数えたり、は俺は続かないけど。


「誰でしょうか? うん?」


 そう問いかける彼女の底意のない笑顔が、今は畏れ多く感じながら、女神といえば多神教だと思う。多神教で女神といえばギリシャかエジプトを直ぐ想起する。ギリシャの法の女神といえば剣と天秤を持ったテミスが真っ先に思い浮かぶか。


 だがテミスは、裁判所の装飾などで描かれる姿で目隠しをしている。そうなるとエジプトか。そういえば、このお嬢さんは黒のサラツヤキューティクルな髪をしている。


 美麗な黒髪の女神ならエジプトの女神で間違いないだろう。そして俺は彼女の髪飾りが目に留まった。上にまっすぐと伸びる一枚の大きな羽根を使ったもの。法に関わる女神。


 ――そうか、分かった。


「マアト様、ですか」


 それを聞いた少女は立ち上がり、両手を握りしめてふんすと鼻息を出すと。俺の傍らに瞬間移動して両手で頭をぐりんぐりんと撫で始めた。超スピードとかそんなちゃちなもんじゃ断じてねえ。瞬間移動だったよいま。


「いいわこの子! お持ち帰りしたい! お持ち帰り!」


「マアト、落ち着くのじゃ。そなたも神なる身なれば、威厳を絶やしてはならぬ」


 やや呆れた視線をマアト神に向けながら、彼女の席の向かって左側に座っている女性が口を開いた。


 エジプトの神話では、マアト神は確かオシリス神が冥界に行くのにくっ付いて行ったはずだ。俺は果たしてどこにお持ち帰りされるのだろうか。




 俺はマアトをたしなめた女性を見る。その姿はチャイナドレスだ。


 ツヤのある橙色に金糸の刺繍をあしらった服を、品よく着こなしている。黒のやや大きな扇を握るその手は、白磁のような肌だ。総じて浮世離れした美しさを、あでやかに漂わせていた。


 彼女の言葉により、名残惜しそうな表情を浮かべながら、マアトは自席に瞬間移動した。


「全く、自己紹介が進まんな。わらわが仕切るぞ。マアトはもう良いな。妾は西王母せいおうぼじゃ。拙女に乞われて顔を出しておる」


 西王母は道教の神格だ。仙人と縁が深いから、浅菜が何か取り計らってくれたのだろうか。


 浅菜や他の奴らにも心配を掛けただろうか。何は無くとも謝らなければ、とおもう。


 そんなことを反射的に思えば、見透かされたのだろう。それまでこちらを値踏みするように観ていた視線が、どこか柔らかいものに変わった。


「ふむ、続けるぞ。そちらが辨財天べんざいてんじゃ。数多の名を持つが、気にするで無いぞ」


「わたくしは辨財天です。弁天と呼んでくれればいいわ」


 西王母は、マアトの席から向かって右に座る者を扇で示す。


 弁天なら子安さんが働きかけてくれたのだろう。そういえば子安さんから、何か起こると釘を刺されていたことを思い出す。


 弁天もやはり、浮世離れした美貌だ。ただ、美しい黒髪はお団子にまとめられ、その服装はラベンダー色の襟付きシャツとデニムで、スニーカーを履いている。


 格好だけなら渋谷辺りをふつうに歩いていそうだが、彼女が歩くだけで男どもどころかその場の女性たちも含めて、立ち振る舞いで通行人の視線を集めるだろう。


 彼女の表情は優しく、その笑みに深い母性を感じさせた。


「そしてこやつは――」


 西王母の席から向かって左側には、黄色いローブを着た者が座っている。フードの奥には人体の頭部どころか、底なしの闇が広がっているようだ。フードの向こうを探るのは危険だと、俺の本能的な何かが告げていた。


「この場で名を呼ばぬ方が良いな。お主の現世うつしよにもこやつの名は語られておるが、我らがここで語ればこの場に深淵と狂気が満ちるからな。いあいあ、――おっと」


 ちょっと待ってくれ、と俺は思う。この黄衣こうえの神格はあからさまにヤバい奴だ。それだけは分かる。


 俺がフードの方に視線を向けていたら、何となく相手と目が合ったような気がした。


「あ、どうも」


 そう告げて反射的に俺が目礼すると、黄衣の者もちょこんと軽く頭を下げた。


 その時俺は遠いどこかからの、大質量の何かが身をよじったようなぬちゃりぞぶりという音を聞いた気がした。俺はすぐにそれを忘れることにした。


「こやつもまた、お主の朋友に乞われてこの場に現れたようじゃ。このような姿でもお主の味方じゃ」


 まあ、味方なら心強い。今はそう思うことにする。


 つか、誰だよ喚んでくれた奴。


「そして最後は、そちらの者じゃな」


 西王母が白狐に視線を向ける。白狐は先ほどから俺の席の左側でお座りをしている。


「我、自ら来た。たまにはえにしある者に直答したい。たまには会話を成したい」


 大きなもふもふの白狐が喋った。朗々とした女性の声だ。日本人が白狐の神は何かと問われたら、子供でもお稲荷さんと答えるだろう。


 そういえば俺の実家の近所には、きちんとした石の鳥居がある稲荷社があったはずだ。たしか祭神の名は稲荷神の本当の名としてウカ――


「我の名をいま語る必要は無し。我の名はこの場では強すぎるゆえ」


 白狐が呑気に尻尾を振りながらにやりと笑った。心なしか、清廉ではあるが濃厚な神気の残滓が、白狐から漂っていた。本来は稲荷神と認識しなければ不敬なのかもしれないが、先方の反応から白狐と認識することにした。


「そもそも貴様は我には無沙汰ぶさたなり」


 白狐はそう告げて、マアトが止めようと手をあげるのを無視し、べろんと俺の顔を舐め上げた。


「そ、それは済みませんでした」


「幾年もの無沙汰は如何なるや。折に顔を見せぬは、百日夢枕に立ち、貴様を舐め回すが善きかな」


「ごめんなさい、お稲荷様。子供のころは確かに折に触れて伺ってました。今後気を付けますんで、百日舐め回すのはさすがに勘弁して下さい」


「ならば善し!」


 どや顔でぶんぶんと、もふもふの尻尾を振る白狐を前にして、反省と比例するように溜息の衝動が出てくる。だがさすがに不敬かと、俺は我慢した。こうしてわざわざ来てくれたのだし。


 こんど日本酒でも持参して、近くの稲荷神社に参拝するか、などと俺は考えていた。




 ひとしきり紹介が済んだところで、弁天が口を開いた。


「今回この子を襲ったのは、大威徳明王だいいとくみょうおうよ。密教で奉られる尊格だけれど、戦いの面でいえばほぼ死神みたいなものと思ってくれていいわ」


 どうやら俺は、職場に死神を送られてしまったようだ。


 字面だけでいえば殺し屋を想像すれば良いのかも知れないが、説明しているのは弁天である。弁天は美と芸能の神ではあるが、同時に強力な戦神としての顔も持つ。


 その弁天が死神と呼ぶことは、とても重い意味が含まれた。


 スイスに銀行口座を持ち、戦場を選ばず、突撃銃を狙撃銃にも使えるように魔改造するような死神と、どちらの方がたちが悪いだろうと、俺は考えていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る