7.それだけで意味があってもいいはずだ
自分で何を叫んでいるのかを認識したのは、守谷の身体に触れたときだったろうか。
「店長!!
最初に目に飛び込んだのが血の赤だった。手にしていたものをその辺に置き、浅菜は駆け寄って守谷の身体を仰向けにさせた。自発呼吸はかなり細い。
「従治さん!! 従治さん!!」
「店長の身体を揺らすな、そのまま気道を確保して仰向けにしてろ!」
日に焼けた黒い肌の女性スタッフ、
「お客様の中に、お医者様か看護師さんはいらっしゃいませんか!」
彼女がその返答を待つことは無い。客がざわつく店の中を獣のように素早く移動しつつ、杉山は声を上げる。その間も手足は止めない。
杉山がAEDを収納ボックスから取り出したのとほぼ同時に、店の入り口から救急隊員が入り込んできた。そういえばやけに近くからサイレンの音が聞こえていたな、と杉山は思う。
救急隊員と目が合った杉山は、倒れる前に通報されなければこう成らなくね? と自問しつつ、口を開く。
「うちの店員が一人倒れてます。口から血を吐いていて、意識が無さそうです」
「分かりました」
「店の奥です。こちらへ」
すぐに守谷の傍らにひざまずくと、救急隊員は大丈夫ですかと声掛けを始めた。さらにもう一人、隊員がストレッチャーを店内に運んできた。程なく隊員たちは守谷を救急車に運んでいく。
隊員の一人が、付き添いをどうするか杉山に問う。彼女は浅菜の表情を伺ってから、目を閉じ数瞬考えてから、口を開いた。
「
「……付き添い?」
杉山の見立てでは、浅菜を店に残したほうが心配だった。他のスタッフはまだ、自分の仕事をできるだろう。
だが彼女は目の前で守谷が倒れるのを見てしまった。どう控えめに言ったとしても、浅菜は動揺している。だから、明確な役割を与える。
「ああ、頼む。こっちは皆に連絡してオレらで回しとくから、病院まで店長を頼む!」
「……わかったよ」
「大至急手を洗って、スマホと財布だけ持ってそのまま救急車に乗れ」
うん、うん、と頷きながら浅菜が厨房に向かった。その後、病院についたら電話するように伝えてから救急車を送り出した。
「お客様、大変お騒がせいたしました」
杉山はアフターフォローを進め、他のスタッフに指示を出したり、この場に居ないスタッフに電話している間に、店に駆け付けた子安に状況を説明した。店から自宅が一番近い子安には電話が繋がらなかったのだが、その時には自転車で移動中だったようだ。
「まったく、何がどうなってるんだよ……」
彼女は取りあえず子安の応援に安堵しつつ、守谷の身内にも連絡しなければと考えていた。
救急車は受入れ先が直ぐ見つかったらしく、最寄りの大学病院に守谷を搬送した。救急車の中では隊員たちが慌ただしくしていたが、その間、守谷の意識が戻ることは無かった。
守谷はそのままICUに入り、浅菜はその近くの廊下のソファに座ってうなだれて居た。脈はあり、自発呼吸もしていて、血圧は低めだが安定しているという説明はされている。いまは血液検査やMRI検査などを進めているところで、脳やそのほかの内臓などの状態も明らかになるだろうとのことだった。
店を任せた杉山には、すでに状況をチャットアプリではなく、電話で伝えてある。
「そうか、まだ意識は戻らないか」
「うん、いま検査してるところ。状態は安定してるみたいだけど、意識が戻らないのは気になるよ」
「慌てても仕方ない。店長の親には連絡が付いた。オレも後でそっちに行くから、店長についててやってくれ」
「わかったよ。……ありがとうね、
「気にするなって。オレは空手やってるだろ。壊しただの、倒しただの、救急車は慣れてるんだよ。……まえに組手で膝を使ったら、相手が倒れてさ。後で聞いたら、内臓までダメージ行ってたとかあったんだわ」
「それは……大変だったね」
そんなやり取りをした。
自販機で緑茶を買い、それを飲みながら浅菜は考える。守谷が倒れ、意識を失ったままであることについて。
喀血し倒れたものの、状態は安定している。それでも意識が戻らないなら、倒れたときに何か脳にダメージがあったのではないかと心配になる。そういった漠然とした不安が、自身に纏わりついてくるのが嫌だった。
いま何か、守谷のためにできることは無いだろうかと、彼女は考える。
自身が医者で無いのは仕方がない。それこそ魔法のような奇跡のたぐいが使えるなら、世界はもっと人にやさしいのだろう。そう考えること自体がズレているのは、浅菜自身にも分かっている。
それでも。
「奇跡か」
自身がその身に修めている仙術は、奇跡を行えるだろうかと自らに問う。
「僕は、従治さんの力になりたい。オカルトでもいいじゃないか」
ひとり呟くその声は誰に聞かれることもない。だが、浅菜の意志を、いまこの時この空間に在らしめるための引き金となった。
「誰かのために願うことは、それだけで意味があってもいいはずだ」
ひとり呟くその声は浅菜の裡に響き、彼女の引き金は引かれた。
浅菜は師匠の言葉を思い出す。台湾出身の女仙の
本来は平時に作法に則って祭儀を行う。丁寧に気を配して呪符を作製し、生活空間などに呪符を配して暮らしの助けとする。それでも急に術の助けが要る場合は、気の動きと共に四神五行に働きかける。
座禅を組むのがいいのだが、場所が場所だ。今はソファに深く座って背筋を立ててから、浅菜は気を動かす。彼女は先ず
天に満ちた気が頭頂部から身体に入り、身体の前面の
仙人らしく不老不死を目指す仙道に臨むなら、そこからさらに気を巡らす経路を広げ、大周天と呼ばれる気の巡らせ方を丁寧に鍛錬する。
『でも仙術では、小周天が基本にして奥義の門を開くカギなのよ。どの道でもそう、基本こそ奥義と言ってもいいわ』
師匠はそう言って得意げに笑っていた。
何度か経絡に気を巡らせてその感覚を強くした後、祭壇の代わりとするために、右の手の平を上にして太ももの上に置く。
今回行う仙術では、冬を象る五行の水気を、春を象る五行の木気に関連付ける。五行相生でいう“
『四季が巡って冬が春になり、死に近しい眠りから命に満ちた覚醒をもたらす』
師匠から以前、そう聞いた説明を思い出しながら、気を動かす。
「大丈夫、僕はやれる」
口の中でそう呟いて、さらに気を動かす。小周天で回した気をいちど丹田に集め、気の塊を作る。この塊を、もう一度会陰と背骨、頭頂部と動かして、喉から右肩を経て右手先に移動させた。これで簡易の祭壇は右の手の平にできた。
「
腹話術でもするかのように微かに口を開き、口腔の中だけで音が響くかのような小さい声で祭句を告げる。
略儀なら、女仙はつねに自身の前面の祭壇に西王母を仰ぐ。西王母は西に在るので、地球上の方角と無関係に、女仙はつねに西を向いて仙術をしたことになる。
左手の人差し指で、気を集めた右の手の平中央を一度、とんと叩く。太易を象る。
一拍間を取って、中央から指二つ分ほど右の位置を、とんとんと叩く。二度叩いたのは陰陽を象る。また、西を向いた時の右側は北だ。北は五行の水気を象る。
もう一度左手の人差し指で、右の手の平中央を一度、とんと叩く。
そしてまた一拍間を取って、中央から手前側の位置を、とんとんと叩く。西を向いたとき、その後方は東だ。東は五行の木気を象る。
「
最後に口の中でそう告げると、浅菜は急速に強い眠気を覚えた。
「……ふふ、手の平に集めていた気がすっと消えたね。これは“通った”と思うよ、店長」
略儀ながら、祭儀はいまこの場で成立したようだ。気は動き、時も空間も超えて、女仙を統べる西王母がその願いを受け取った。少なくとも、浅菜はそう感じた。
まだ何か変わったわけではない。救急外来のある病院で、ICUから出た廊下の隅のソファの上で、守谷の容態に気を揉んでいる事実は変わらない。
それでも浅菜は今この瞬間、自身のためでなく、大切な誰かのために自らが修めた術を使ったのだ。
『仙人は究極の個人を目指すわ。それは間違いではないけれど、大抵の者は生きるのに他人に力を借りるものよ。誰かのために、仙人の知識を土台にして、他者に協力を乞うことだって間違いでは無いの』
師匠がけらけらと笑ってそんなことを言っていたのを、浅菜はふと思い出した。
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