6.根源的な領域で地雷を踏んだ
ひとの恋路を邪魔する奴は、などという言葉はある。別に俺もスタッフ間だろうが、誰と誰が交際を始めても文句は無い。
もっとも、終業間際のくたびれた時に当事者からのろけられたなら話は異なる。
誰と誰の社内恋愛の話なのかを、努めて冷静に浅菜に問うたが、彼女は首をかしげている。仕方ない、爆発物処理班とはこういう心根で仕事に臨むのだろうかと思いつつ、一石を投じる。
まず俺は右手の人差し指を立て、その指で自身を指し脳裏に『俺と』と思い浮かべる。そして流れるようにその人差し指は浅菜に向けられ、『浅菜かい?』と脳内で問うた。
浅菜は奇妙なものを見つけたような表情で、俺の人差し指と顔に何度か視線を走らせる。彼女は目を丸くし数瞬固まったあと、むんずと俺の人差し指をつかんだ。
ああ、何か再起動したんだな、などと俺は思いつつ、漠然と目の前の変化を見る。
浅菜は笑みを浮かべ、利き手で掴んだ俺の指を上下にぶんぶんと揺らしながら、はっはっはっは、と渇いた笑いを上げた。その腹から出た笑い声と、笑わない目が怖いです。何か俺は根源的な領域で地雷を踏んだのだろうか。
「……ふふ、店長は知ってるかと思ったよ、円ちゃんと辻くんが付き合い始めたんだってさ」
「お、おう。って
何がなるほどなのかは自分でも微妙に分からないまま、俺は答えた。こういう時は通説では素数を数えたほうがいいらしいが、俺は文系なので華麗にパスした。
ちなみに、
それでも癒し系と脱力系の中間というか、微妙なラインを突いてスタッフの中では皆から好かれている。
「そうなんだよ。それでね、今度辻くんがギターしてるバンドがライブやるんだけどさ、円ちゃんに誘われてるんだよ」
「ああ、ハコはいつものとこかな? かなり上手いぞあいつ」
「そうなんだ。――それでね、店長も良かったら一緒に行かないかい?」
「ほう、本題はそれか」
「頼むよ。付き合い始めのカップルのデートに、強引に誘われているみたいな状況なんだ」
「でもなあ、そんなのか……」
その瞬間、俺の脳内の言語中枢から前頭葉を経て運動中枢を動かそうとした神経伝達の働きについて、それ以上に優先度が高いと本能の部分で強制的な停止が掛けられた。
「え、そんなの?」
俺の高度に訓練された本能の働きは、サーキットブレーカーとして機能し、『そんなの彼氏をはやく見つければいいじゃない』というパワーワードの生成をリアルタイムで遮断することに、首の皮一枚を残して成功した。
「あ、……うん、そうだな。別に俺は構わないよ。照汰のギター、嫌いじゃないし」
「そっか、良かったよ!」
うんうん、と頷く浅菜の嬉しそうな笑顔を見ながら、俺は地雷原を突破することに成功した感触を持ったのだった。
その日、都内の貸しスタジオで、辻はバンド仲間と練習中だった。勝手知ったる間柄で、音の響きから皆のコンディションの良さが察せられる。
何曲目かの演奏の後に休憩を入れて、辻は温くなったミネラルウォーターを飲んだ。この分なら、次回のライブにはいい状態で仕上がるだろう。
つぎの刹那、鋭く短い耳鳴りが起こり、辻に異常を知らせた。周囲の気配を探るまでもなく、眼前に羽ばたく鳥の姿を幻視した。彼が用意した鳥で、バンド仲間たちに見える心配は無い。
その鳥は全身が黄色く、頭部からは羊のそれと同じ形の巻角が生えている。鳥の目もまた羊のように、瞳が横長の四角で出来ていた。
その鳥にはバイト先の警護と情報収集を任せていたのだが、視線を合わせると急いでいる様子が伺えた。同時に鳥から、得意げな表情を浮かべてこちらに微笑む守谷が、ストンと呆気なく倒れこむイメージが流れ込んだ。倒れこんだ守谷には、死の気配がまとわりついているようだった。
何か緊急事態なのだろうと、辻は顔をしかめた。
「ちょっとええか?」
「どうした?」
「すまん、電話してくる」
「そうか、時間かかるようなら俺らで合わせてるから」
「頼むわ」
ベース担当の仲間が関西弁の混じる辻の声に応じ、壁の時計を見た。ギターを置いてスマホを手に、辻は貸しスタジオの部屋を出た。
「ハスターが
思わず呟いて、辻は通話を他人に聞かれない場所へと急いだ。
本来は至福の瞬間だった。午後のお茶の時間にコーヒーを淹れ、買っておいた洋菓子を前に、子安は手を止めた。まさに味わおうとしていた時、何かに呼ばれた気がしたのだ。
良く片付けられた自宅マンションの室内を見渡し、ベランダを見やるが、そちらではない事に気づく。
よく研ぎ澄まされた、殺気のような気配が微かに感じられる。室内では壁になっている向こう。自宅の寝室ではなくさらに遠く。そこまで思いを巡らせて、その方角が自身の勤め先であることに気づく。
「お店の方角? 嫌ねー、誰かケンカでも始めたのかしら」
喧嘩というには余りにあからさまな殺気であることは、すでに分かっている。同時に、自身が喫茶店の仕事を終え、店長に挨拶したときの様子が脳裏を満たす。店長は穏やかにほほ笑んでいたが、その表情のまま膝を崩し、ぱたりと床に倒れこんだ。
その心象を脳が理解した瞬間、子安は自身が自宅マンションで菓子用のフォークを強く握りしめていることに気づいた。
「だから言ったじゃない……!」
何とかしなければという焦燥と共に言葉を捻りだすと、リビングの椅子を立ち、殺気の漂う方角に身体を向け、胸の前で合掌する。そして子安は二拍手し、口を開いた。
「とほかみえみため、とほかみえみため、とほかみえみため、
守屋従治の御魂と血肉を護り給え、
かんながらたまちはえませ!」
「勝手に逝ったりしちゃだめよ……!」
子安は自らが、頬に涙を伝わせているのに気づく。慌ててそれを拭うと彼女は、これから外出する支度を始めた。
その瞬間の記憶は、後に思い出しても寒気がした。スタッフからの話では、厨房から店側に出るところで、血を吐いて倒れたそうだ。
接客をしようとしたのだったか、俺は店の方に足を向けたところで息ができないことに気づいた。苦しさを身に覚えつつ、息を吸い込もうとして詰まり、息を吐きだそうとして口腔内に鉄の味が満ちた。次の瞬間、用意された呼気と共に呻きつつ、血を吐いた。
何事かと自問しながら息が吸えることに気づいたが、そこで腹のあたりに、酷く熱いものが外部から物理的に差し込まれたような感触があった。
反射的に自身の腹部を見るが、そこには何もない。何もないことに疑問を感じつつ、意識をそこに集中させると、諸刃の剣が刺さっている。
そんな馬鹿なと思いつつ、その剣が良く筋肉の付いた、逞しい腕で差し込まれていると認識する。
俺は店にいる筈だと思いながらその青黒い腕が伸びる先を確認すれば、耳には次第に多人数の
その腕の先には、炎を肩に背負った明王の姿があった。腕は六本あり、足も二本以上あるようだ。
「……集団、祈祷?」
掠れるような声で俺が呟くと、その明王は凄絶に笑い、俺の腹から剣を抜き去った。次の瞬間俺は、その場に膝から崩れ落ちた。
急速に視界が虚空を想起する白に消されていくと共に、経を上げる多人数の音声が去っていく。それと入れ替わるように、女の声が聞こえる。浅菜だろうか、耳に優しいよく知った声だ。それに応えようと声を絞り出す。
「だいじょ……」
まったく楽観はできなかったが、反射的に大丈夫だと俺は伝えたかった。せめて笑顔だけでも作らなければ。
急速に俺の中の熱のようなものが去っていくのを感じる。脳裏には混然とした記憶の並走に煩さを覚えながら、この身に死が迫ってきたことを思った。
死の可能性を認識した俺は、ある種の諦観とともに、やり残したことが無かったかを一瞬考えた。同時に、いま死にたくなかったかな、と思った。
これまでの俺のしてきた事を脳内で振り返り、それでも自分自身に恥じることは無かったと考える。そして、脳内で乞う。
……神に乞う。
……法の女神に乞う。
もし俺が字義の、真なる意味、において、法に、……恥じない者で、あったなら、……俺に、生を。それ、が叶わない、ならば、
せめて、
こいつらに、
幸いを、
と。
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