15_路地裏の記憶

 十年前――


 ブロモンド王国が長く対立関係にあった大陸の大国、アステラス帝国との国交樹立を記念し、大公爵を中心とした使節団が訪れていた。

 街ではパレードが催され、お祭りモード一色で、あちらこちらで露店が出たり大道芸人が一芸を披露したりと、街は華やかな雰囲気に包まれていた。


 十一歳のアイビスはあの日、両親とヴェルナー一家と共にパレードを見に来ていた。


 だが、余りの賑わいにより、少し人混みに酔ったアイビスはこっそり大通りを外れて人がいない路地裏に避難した。

 日当たりが悪いためにひんやりと涼しく、初夏の暑さを凌ぐにももってこいの場所だった。


「ふぅ、少しマシになったわ……そういえば、この路地裏はどこに繋がっているのかしら」


 少し休んで元気になったアイビスは、好奇心から路地裏の奥に進んでいった。

 細い小道を抜けると、少し開けた通りに出た。こんな場所があったのかとワクワクしつつ、冒険家気取りで辺りを散策した。


「きゃっ!?」


 その時、不意に身体を浮遊感が襲った。

 ぐっと視点が高くなり、自分が担ぎ上げられていることを悟ったアイビスは慌てて後ろを振り向いた。


 アイビスを抱き抱えていたのは、頬に大きな傷のある男だった。片目に眼帯をつけており、いかにも悪人面である。

 そしてもう一人、手に濡れタオルのようなものと、麻袋を持った男がニヤニヤと下品な笑みを浮かべながらアイビスににじり寄って来ていた。


 直感的にあのタオルはマズイと思い、アイビスは内心で焦った。男はアイビスの顔に向けてタオルを近付けてくる。十一歳のアイビスにとって、大人の男はとてつもなく大きく見え、恐怖に震え上がりそうになった。


 だが、アイビスは幼い頃より軍部の父に鍛え上げられてきたため、そこらの兵隊に匹敵するほどの技術を身に付けていた。


「離してっ!!」


 アイビスは思いっきり身体を捻って、自分を抱き抱える男の顎に肘を入れた。


「がはっ…!!このガキ…!!」


 男の身体がぐらりと揺れた隙に、足裏で腹を蹴り飛ばして拘束から逃れる。


「誰かーー!!!助けて!!!人攫い!!!」


 目一杯お腹に力を入れて叫ぶが、大通りを離れたこの場所に人の気配はない。それどころか、通りはパレードで大盛り上がりを見せており、アイビスの渾身の叫びは喧騒に掻き消されてしまった。


(なんでパレードの日に、こんな男たちが……!ん?もしかして、パレードの日……?)


 ふとアイビスがそんなことに思い至っていると、ザリ、と砂利を踏み締める音がして慌てて目の前の敵に集中した。


「がははっ、ここには誰も来ないさ。さあ、大人しく捕まやがれ」


 低く、地を這うような男の声に、アイビスはぞくりと身を震わせる。迎撃の構えを取るが、男二人を相手にどこまで太刀打ちできるか分からない。


 ジリジリと壁際に追い込まれていくフリをしながら、アイビスはチラリと後ろの壁に視線を投げ、バレないように距離とタイミングを測る。


(今よ!)


 そして男たちが掴み掛かってきたと同時に、壁に向いて走って一息に駆け上がった。数歩壁を走り、強く蹴って男たちの頭上を宙返りで躱す。


「ぶっ!!」


 驚いた様子の男たちは、勢い余って壁に激突した。


(逃げるわよ!!早く、早く知らせなきゃ!!)


 アイビスは震える足を鼓舞して小道に駆け込んだ。後ろから言葉にならない罵声が飛んで来て、振り返らなくても男たちが立ち上がって追いかけて来ていると悟る。


 アイビスは懸命に腕を振って細い道を駆け抜けた。

 入り込んだ時はこんなに長く感じただろうか。走っても走っても路地裏から出ることができずに、じっとりとした影がアイビスの足を絡め取ろうとしているかのようだ。


 やっとのことで見えて来た大通りから賑やかな音が耳に届き、眩い光が行く手を照らしてくれる。


「痛いっ!」


 あと少し!というところで、アイビスはグンっと身体が突っ張りその場に尻餅を付いてしまった。

 頬に傷のある男が追い付いてアイビスの腕を引いたのだ。


「このアマ……子供ガキだからって容赦しねぇぞ」


 はぁはぁと肩で息をしながら、男が怒りを露わにアイビスに殴りかかろうとしたその時――


「アイビスー!!アイビス、何処だ!?」

「アイビー?!どこに行ったの、返事をして!」


 父と母がアイビスを探す声が耳に届いた。

 アイビスは反射的に深く息を吸うと、持てる限りの力を振り絞って叫んだ。


「お父様ー!お母様ー!!ここよ!!アイビスはここにおります!!」

「アイビス!?まさか、こっちか?!」

「…………チッ」

「なっ!?お前たち!!アイビスに何をしている!!おい、待て!待ちなさい!!」


 すぐに声の出所を探り当てた父が路地裏の小道を覗き込んで叫んだ。男たちは盛大な舌打ちをすると、アイビスから手を離して路地裏の奥へと逃げ込んでいった。


 高価な服が汚れることも厭わず、父のデュークはアイビスに駆け寄った。


「ばかもん!勝手に離れるなとあれほど……!ああ、怪我はしていないか?なんだアイツらは…すぐに警備隊を派遣させよう。この王都で犯罪を起こそうだなんで許せん!!」

「うう……お父さまぁ……!」


 父に優しく抱き起こされ、プツリと緊張の糸が切れたアイビスは急に身体の力が入らなくなった。ふるふる震えながら、止めどなく涙が流れる。

 大人の男相手に奮闘したが、アイビスはまだ十一歳の少女である。父の顔を見て安心した途端、ドッと恐怖が押し寄せてきた。


 えぐえぐ泣きじゃくりながら、父のシャツが濡れることを気にせずに縋り付いた。すぐに大通りに戻ると、デュークはアルドラにアイビスを託し、急いで警備隊を呼びに責任者の元へと駆けて行った。


「ああ、アイビス……!無事で良かった!」

「お母さまぁ」


 母の腕に抱かれ、依然として泣き続けるアイビスに、おろおろ狼狽えているのは幼馴染のヴェルナーであった。

 アイビスが居なくなったことにいち早く気付いたヴェルナーが、アイビスの両親に訴えてアイビスを探し始めたのだった。


「アイビス……」


 恥ずかしがらずに手を繋いでおくべきだった。

 パレードに夢中にならずにもっとアイビスに気を配るべきだった。

 アイビスを見失い、自分を責め続けていたヴェルナーの目尻にもじんわり涙が滲んでいる。


 いつも強気で男子顔負けの強さを誇るアイビスが、年相応の少女らしく泣きじゃくる様子に、ヴェルナーは強く心を揺さぶられていた。

 この少女を護れる存在になりたい、もっともっと強くなりたいと、人知れずそう固く誓って拳を握りしめた。

 ――ヴェルナーが幼い頃より抱いていた淡い恋心が色を濃くした瞬間である。



 この日の出来事をきっかけに、アイビスは女性が我が身を守る術を身に付けるべきだと考え、護身術の師範を目指すようになった。

 実際に父の教えが身についていたために危機を脱することができたアイビスだが、普通の貴族令嬢であればそうはいかなかっただろう。


 アイビスは悔しかった。


 犯罪者から逃げるしか術がなく、恐怖に震え、犯罪者を逃してしまったことを強く悔やんだ。アイビスが逃したことで、他の誰かが被害に遭っているかもと思うと心が張り裂けそうだった。

 デュークがそうならないように王都の警備を強化すると言ってくれたことが唯一の救いであった。実際のところ、平民貴族問わずに行方不明の少女の届出が出されることはなく、犯人の男たちはアイビスやデュークに顔を見られたことで、この国から出たのかもしれないと父は語った。


 こうして、この日からより一層鍛錬に励み、ますますアイビスは男勝りに強く逞しくなっていくのであった。

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