第17話非日常
イオンを出ても、雨は降ったままだった。悪天候にも関わらず、繫華街には人が多い。色とりどりの傘の群れが無秩序に行き来しているさまは、なんだかカラフルで心躍る。
「いやあ、でも楽しかったね、ショッピング企画! またやりたい!」
「いいけど、あたしはもう貯金がすっからかんよ。やるならしばらく時間を置いてからにしてほしいわね」
「ボクもちょっと奮発しすぎたな」
「……ていうか皆、普通に予算オーバーしてなかった?」
「ぎく」
「……フフ」
水口さんは気まずそうに顔を逸らし、伊勢崎さんは少し曇った笑みを見せた。
「うーん、やっぱり無効試合にしてよかったなあ」
呆れたように、清香が言う。
「いやあ、でも審査官の渡辺の評論が思いのほかまともだったのが、今回の買い物で一番驚いたところかもね」
水口さんは面白そうに僕を見てきた。
「何か僕、まじめにやった結果ひどい言われ方してる気がするんだけど……?」
「多分、みんな褒められてちょっと照れてるから揶揄ってるんだよ」
「れ、麗様⁉」
信じていたのに、と言いたげに水口さんは衝撃を受けた顔をしていた。すかさず、伊勢崎さんは水口さんの顎にそっと触れた。
「でも、そう言う意地っ張りな水口さんも素敵だと思うな」
よせばいいのに、伊勢崎さんはまた水口さんを口説いていた。水口さんの顔が真っ赤になって、目がとろんとしてくる。何かいけない薬物でも使ったようだ。
そんな様子を眺めていた僕は、ふと奇妙な音がしたことに気づいた。人混みの中、わいわいという賑やかな声の中に混ざる、甲高い声。
それは、悲鳴のように聞こえた。
「今、何か」
「三人とも、ボクの傍を離れないで」
僕の言葉に被せるようにして、伊勢崎さんが鋭く警告を発した。
やがて、どよめきが大きくなる。人だかりがぱっくりと空き、そこから細身の男が出てきた。
その男は、どう見ても尋常な様子ではなかった。黒いパーカーに身を包んでいる。深くかぶったフードから垣間見える目はかっぴらかれていて血走っている。肌は病的に白い。極めつけに、その手には、幅広の包丁が握られていた。
「通り魔だ! 逃げろ!」
誰かの叫びが、あまりも現実離れした響きを持って僕の耳に飛び込んできた。
逃げなければ。そして、みんなを守らなければ。
そう思った瞬間、僕は男と目があった。その目には、僕が見た事のない光が灯っていた。憎悪を煮詰めて凝縮したような、この世全てを恨んでいるような瞳だった。
男のひび割れた唇が、緩い弧を描く。男の足取りは、僕の方を向いた。
「ひゅっ」
恐怖から、口から不自然な呼吸が漏れる。初めて感じる命の危機に、僕の全身が危険信号を発する。
逃げろ。殺されるぞ。
体を翻す。震える足をなんとか踏み出して、駆け出す。
しかしあまりにも遅い。細身の男は、その身に似合わぬ俊敏さで僕の方へと駆けてきていた。
心臓が狂ったようにバクバクと鳴り続けている。体が芯から冷え、全身の感覚がなくなっていく。踏みしめる地面の感覚すら失った僕には、もはや自分が走っているのか止まっているのかすら分からなかった。
どうすれば、僕は生き残る? どうすれば、この危機を脱することができる?
答えの出ない問いかけばかりが頭をグルグルと回り、それが終わればまた恐怖に脳が塗りつぶされる。
どこかで僕の名前を呼び声がする。あそこにいけば、僕は助かるのか? ──いいや、ダメだ。みんなを巻き込むわけにはいかない。
走る、走る、走る。もう百メートルは走ったような気がしたが、視界に映る景色はほとんど変わっていない。ひょっとしたら五秒も経っていないのかもしれない。
再び、振り返る。細身の男は狂気的な笑みを浮かべ、包丁を振り上げていた。
──殺される!
けれどその瞬間、僕と細身の男の前に躍り出る黒い影があった。
伊勢崎さんが、僕の目の前に立ちふさがっていた。その美しい顔は、見たことないほど恐ろしい形相を浮かべていた。
男が包丁を振り下ろす。
「──伊勢崎さん!」
それから僕の見た光景は、あまりにも現実離れしていた。包丁を振り下ろす男に対して、ビデオの早送りみたいに俊敏に動いた伊勢崎さんが懐に入り込む。次の瞬間、男の全身は地面に叩き付けられていた。
「え──」
全身を強打した男の体がバスケットボールみたいに跳ねて、口から勢いよく血が噴き出た。鳥肌が立つような、恐ろしくて現実離れした光景だった。
その様子を見た僕は、全身に鳥肌が立った気がした。
「死ん、だ……?」
雨が、僕の頬を打った。それで僕はようやく現実に帰ってこれた。群衆のざわめきが、耳に届くようになる。
「ころ、した……?」
口をついて出た言葉には、多分意味なんてなかったのだろう。
でも、僕の言葉に伊勢崎さんが勢い良く振り返った。先ほど男を地面に叩きつけた時と同じく、人を殺してもおかしくないほど恐ろしい顔だった。
「ひゅっ」
反射的に、呼吸が漏れる。その音に、伊勢崎さんが大きく目を開いた。
すぐに、僕は後悔した。何をやっているんだ。伊勢崎さんは僕を助けてくれたんだぞ。
「ぁ……伊勢崎さん、ありがとう」
出た声は、雨音に搔き消されてしまいそうなほどに小さくて、みっともなく震えていた。
けれど、伊勢崎さんは僕の言葉には応えずに、くるりと後ろを向いた。そして、間近で経緯を見ていたであろう通行人の男に淡々と話しかけた。
「目撃証言をお願いします。今のは友人の命の危機を救うため。私の正当防衛でした」
「あ、ああ」
通行人の男の声は、僕と同じくらい震えていた。近づいて来た伊勢崎さんが恐ろしくてたまらないように、わずかに身を引く。
その態度はないだろう。そう言いたかったが、すぐに自分も似たようなものだったことに気づく。
「正人! 怪我はない⁉」
聞き馴染みのある清香の声が聞こえて、僕はようやく現実に帰って来たような気がした。
「ああ、大丈夫……」
「良かった……!」
清香が安心したように一息ついていた。後ろには、水口さんも一緒だった。僕も、みんなが無事で少しだけ安心する。
やがて、サイレンの音が聞こえてきた。誰かが呼んだのだろう、パトカーだけでなく救急車も一緒だ。
制服姿の警官が二人、こちらに近寄ってくる。それでようやく、僕は自分が事件に巻き込まれたんだという実感が湧いて来た。きっと僕は、これからドラマでしか見た事のない事情聴取というやつをされるのだろう。
どうした僕。待ち望んでいた、僕が特別な人間になれる機会だぞ。喜べよ。
そんな冗談を心中で吐いても、僕の心はどん底のままだった。
心の中には、ずっと伊勢崎さんの二つの表情が張り付いていた。人を殺してもおかしくないほど恐ろしい顔の伊勢崎さん。そして、僕のみっともない怯えに目を見開いた伊勢崎さんの顔だ。
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