第18話僕は馬鹿だ

 結局のところ、あの通り魔の男は一命を取り留めたらしい。全身の打撲で内臓がいくつか損傷したらしいが、なんとか後遺症なく回復する見込みだそうだ。警察病院での治療後、裁判にかけられるそうだ。その事実に、僕は少しだけ安堵した。きっと、伊勢崎さんのことを考えたからだ。

 

 けれど、事件が無事に終わっても僕らの関係は変わってしまった。

 あの日以来、僕は伊勢崎さんと目が合わなくなった。一度だけ、なんとか彼女を捕まえて謝罪をした。伊勢崎さんと対面することには成功した僕だったが、実のところ何を言えばいいのか分からなかった。結局、「ごめん」と一言告げただけ。

 伊勢崎さんは、男前な笑顔で「君に謝られることなんてないよ」と言うだけだった。

 

 あの日以来、僕は伊勢崎さんの素の姿を見ていない。彼女は常に完璧な王子様みたいな立ち振る舞いをしていた。まるで、僕と接していたあの気弱な彼女が嘘だったみたいだ。

 陰鬱な顔をしていた僕を見かねたのだろう。清香は僕に冗談めかして聞いてきた。


「それで、正人。何を悩んでいるのか、何でも分かる幼馴染に相談してみないかい?」

「清香には分からないことだよ」

「……そう」


 僕の返事を聞くと、清香は興味が失せた、と言いたげに冷たい表情をした。

 あの日以来、なんだか日々が気だるい。気分が上がらず、僕が辛気臭い顔ばっかりしてるからか、みんなと遊ぶこともなくなった。申し訳ない。

 

 そんな晴れない気持ちのまま、一週間ほど過ごしたある日のことだった。

 朝の憂鬱な気分を抱えたままで教室に入ろうとした僕の目の前に、突然立ちふさがる影があった。少しだけ期待して、顔を上げる。けれどその影は伊勢崎さんではなかった。


「渡辺、例の場所来て」


 水口さんはあまり表情の読み取れない顔で一方的に告げると、何事もなかったように自分の席へと戻っていった。なんだか彼女と話すのも久しぶりな気がした。きっと、僕が伊勢崎さんと距離を置いているからだろう。

 ああ、伊勢崎さんと元通りに話したいな。そう思っても、どうすればいいのか僕には分からなかった。


「それでは、前回出した課題のところから。教科書の──」


 いつの間にか、授業が始まっていた。僕はノロノロと教科書とノートを机の上に出す。

 教師の念仏みたいな説明を聞き流しながら、僕は伊勢崎さんの様子を窺う。麗しい顔は真っ直ぐに教師へ視線を注いでいて微動だにしない。時折細い指がノートにサラサラと文字を書く。


「はあ……」


 ため息が出る。気を取り直して前を見ると、ちょうど教師と目が合った。


「退屈そうだな渡辺。じゃあこの問題に答えてみろ」


 ……憂鬱だ。



 ようやく授業が終わり、僕が水口さんとの待ち合わせの約束を果たす時がきた。

 

 温かい風が肌を撫でる。放課後の屋上には誰もいなかった。校舎の五階に相当するこの場所からは、荒川の方まで一望できた。伊勢崎さんとの出会いの場が目に入って、僕は少しだけ感慨深くなる。

 こんなにも開放感あふれるいい場所なのに人がいないのは、何か理由があるのだろうか? 今度清香にでも聞いてみようか。


「早いじゃない」


 きぃ、と金属音を立てながら、屋上のドアが開く。そこに立っていたのは、相変わらず表情の読めない水口さんだった。

 僕の返事すら待たず、彼女はつかつかと近づいて来た。その姿に得体の知れない迫力を感じた僕は、一歩後ろに下がる。けれど彼女は、そんな様子など気にせずに僕の目の前に近づいて来た。


「……近いよ」


 水口さんの綺麗に整えられた顔が近づいてきて、僕は動揺した。


「渡辺」


 強い意志の籠った、力強い声だった。


「……なに?」

「麗様を早く元に戻して」

「……伊勢崎さんは変わりないと思うけど?」


 僕の言葉に、水口さんは大きく顔を歪めた。


「馬鹿にしないで。あたしがどれだけ麗様を見ていたと思ってるの。いつも通りかっこよく見えるけど、でも違う。前とは何かが違う。笑った顔が違う。綺麗な立ち振る舞いが違う。凛々しい声が少し違う。渡辺。あんたが一番信頼されてるあんたなら、分かるはずでしょ」


 曖昧な物言いだったが、水口さんはそれを確信しているみたいだった。


「……戻すって、どうやって」


 どうやって。どうやれば、僕はまた前みたいに伊勢崎さんと話すことができるんだ。僕はぐつぐつとした感情を胸の中に抑え込んで、静かに聞いた。

 僕の表情は醜く歪んでいたと思う。それでも、水口さんは冷静に言葉を紡いだ。


「話せばいいでしょ? 分かるまで、分かり合えるまで話すの。あんたならできるでしょ。だって、あんたはあたしとちゃんと話して、麗様に対する誤解を解いてくれた。麗様も同じ人間だって、あたしに気づかせてくれた」

「──でも!」


 言葉にして、思ったよりも大きな声が出たことに驚いた。こんな大きな声を出したのは久しぶりだった。

 水口さんは、動揺せずに僕の言葉の先を促した。


「でも、伊勢崎さんは僕と話したいとは思ってない。もう彼女は、僕に本心を見せてくれなくなった」


 伊勢崎さんの、僕に向けた完璧な外面を思い出す。その美しい顔には、僕の知る弱気で優しい伊勢崎さんはいないようだった。


「きっと、失望された。あの日、僕は通り魔からみっともなく逃げて、伊勢崎さんに助けられた。なのに無様に彼女に怯えて、お礼すら満足に言えなくて、伊勢崎さんを傷つけた」

「……そう」

「そうだよ。僕に伊勢崎さんと話す資格なんて……」

「──だからなに⁉」


 水口さんは、怒りに染まった顔で僕に掴みかかって来た。勢いに押され、僕の体が後ろに下がる。がしゃ、と音がして、僕の背中が落下防止のフェンスにぶつかった。


「あんたが過去に一回でも失敗したら麗様と話せないの⁉ あたしの弱さを認めてくれたたあんたが、あんたの弱さを否定するの⁉ そんなの、あたしが許さない!」


 必死に叫ぶ水口さんの顔は赤くなっていて、その必死さがひしひしと伝わってきた。

 

 目が、離せなかった。僕の言ってしまったことを否定した彼女から。僕の過去を肯定してくれた彼女から。

 感情を吐き出して冷静になった水口さんが、掠れた声で語り掛けてくる。


「話してくれないなら、何度でも話しかければいい。どうしても話せないといけない状況を作ればいい。そうやって地べたを這いつくばるみたいに進まないと、きっと望んだ未来なんて得られない。友達一人とも仲直りできない。──だからさ、渡辺」


 彼女の瞳に籠る強い意志に、僕は釘付けになる。


「うん」

「麗様を元に戻して。あたしには分からない何かで結びついていたあんたたちの関係を、元に戻して」


 僕の襟首を掴んでいる彼女の手は、小刻みに震えていた。

 それを見る僕の心は、もう既に決まっていた。


「任せて」



 考えて、考えて、考えた結果僕の頭に浮かんだ方法は、お世辞にもスマートとは言えないひどいものだった。きっと清香が聞けば鼻で笑うことだろう。けれど、普通な僕がもう一度伊勢崎さんと話をするには、これしかないと思えた。

 

 正直、怖くって足が震えてしまう。けれど、これでまた、伊勢崎さんと話せるのなら僕はできると思った。

 

 どうやら、自分で思っていたよりもずっと、伊勢崎さんと関わっていた時間は大切なものになっていたらしい。

 キラキラしていて、特別な、王子様みたいな伊勢崎さんと、気弱で、普通な、女の子の伊勢崎さん。

 

 僕は、そのどちらも伊勢崎さんだと思った。そして、その両方を見ていたいと思ったんだ。我儘な願いだけれど、本当の彼女を見てしまった今、王子様みたいな彼女だけでは満足できなくなってしまったのだ。

 

 だから、僕はやる。





 この学校の屋上には、ある噂があるらしい。私がそれを聞いたのは、私を慕ってくれている噂好きの女の子からだった。曰く。


「麗様知ってますか⁉ 屋上のキクコさんの噂!」

「へえ、知らないなあ。どんな話なんだい?」

「はい! 昔、キクコさんっていう女子生徒が、ずっと好きだった男子生徒に告白するために彼を屋上に呼び出したらしいんです。キクコさんは真っ赤になりながらたどたどしい告白をして、恐る恐る手を差し伸べました。すると、その男子生徒が嫌な奴で、『お前みたいなブスと誰が付き合うか』ってひどい振り方をしたらしいんです」

「ひどい話だね」

「一世一代の告白をこっぴどく振られたキクコさんは、あまりのショックに彼の目の前で屋上から飛び降りてしまったんです!」

「……ひどい話だね」

「ですよね! それで、それ以来この学校では屋上からの飛び降り自殺が多発するようになったんです。噂によると、どうやら屋上に行った生徒はみんな怨霊になったキクコさんに憑かれて、彼女と同じように飛び降り自殺させられてしまうみたいなんです」


 学校で自殺者が多発するなんてもっと大きな噂になりそうなものだが。私は思い浮かんだ野暮なツッコミを胸の内にとどめた。


「だからこの学校では、誰も屋上にいかないんです。行ったら最後、キクコさんに飛び降り自殺させられてしまうからって」


 私は、その噂話をなんとなく覚えていた。別に今更お化けを怖がるような感性は持ち合わせていない。あの世界では、ゴーストと呼ばれる魔物とだって戦っていた。けれど、私の頭の片隅に、その話は残り続けていた。

 そして今日、私は突然渡辺君に屋上に呼び出されたのだ。



 正直、彼とあまり話をする気分ではなかった。いつものように王子様みたいな仮面を被って、乗り切るつもりだった。そうすれば、渡辺君も諦めてくれるだろう。そうすれば、もう渡辺君に怯えられることもない。

 けれどそんな私の思考は、あっさりと裏切られることになった。


「やあ、伊勢崎さん」


 屋上に向かった私を迎えたのは、引き攣った笑みを見せる渡辺君だった。けれど、様子がおかしい。足がガクガク震えていて、何かに怯えていた。


 何よりも。その体は、落下防止のフェンスの先。屋上の先端に立っていた。


「何をしてるんですか、渡辺君!」


 思わず、口調を取り繕うことすらできずに叫ぶ。同時に、私の脳内にはあの噂話が蘇った。屋上に出た生徒は、キクコさんに憑かれて飛び降り自殺してしまう。

 そして渡辺君は、さらに信じられない行動に移った。


「さようなら、伊勢崎さん」


 身を、投げた。渡辺君は軽く飛ぶと、四階建ての校舎の上から空中に身を躍らせた。


「ッ!」


 考えるよりも先に、体が動いていた。あの世界で授かった脚力が信じられない加速を生み、金属製のフェンスを突き破る。

 そして、手を伸ばす。人間離れした速度で動いているはずの私の体が、ひどくゆっくり動いているように見えた。焦燥が、私の思考を加速させえていた。

 

 そして永遠にも思えた時間が過ぎて、私の手が、間一髪、渡辺君の腕を掴んだ。

 

 張り詰めていた気持ちが、安堵に包まれた。素早く彼を引き上げる。渡辺君の体がふわりと浮かび、その足が地面に付いた。


「な……なにやってるんですかッ⁉」


 激情のままに、私は叫んだ。体が怒りで熱い。こんな体験初めてだ。きっと私は、人生でこれほど怒ったことはなかったのだろう。

 けれど渡辺君は、満足げに笑うだけだった。


「やっと素の伊勢崎さんを見せてくれたね」

「あ……」


 正直、そんなことを考えている余裕なんてなかった。

 渡辺君は私に引き上げられた姿勢のまま、屋上の先っぽに立ったままで、話を始めた。


「どうすれば完璧な伊勢崎さんを動揺させられるか、考えたんだ。僕は頭が良くないからね。スマートな方法なんて思いつかなかった。だから、僕がどれだけ伊勢崎さんと元通りに話したいのか示せればいいと思ったんだ」

「……それで、どうして屋上から飛び降りることになったんですか」

「伊勢崎さんと話すためなら、どんなことだってできる。大袈裟かもしれないけれど、そういうことが証明したかった。だから、ここで伊勢崎さんがちゃんと話してくれないなら、僕はまた似たようなことをするよ」


 晴れ晴れとした表情には迷いなんて少しも見られず、私は少し見惚れてしまった。


「渡辺君は、馬鹿ですね」

「そうだね。僕は馬鹿だ」


 誇らしげに、彼は言った。一歩踏み外せば地面に墜落する場所に立ったまま、足を震わせたままで、渡辺君は話を続けた。


「そして僕は馬鹿だから、君を傷つけた。僕を助けてくれた君に、みっともなく怯えてしまった」

「渡辺君は、悪くないです」


 あの時、本気の殺意を感じた時、私は確かにあの世界にいた頃の私に戻っていた。つまりは、殺意に対しては殺意を返す、野蛮な世界で生き抜くために完成された私へと。


「平和に暮らしてきた人ならみんな、怯えるものなんです。……悪いのは、私の力なんですから」


 そう、悪いのは、私だ。平和な世界には無用な力を持ち続けている私だ。


「でも、君は僕を助けてくれた。通り魔に刺されそうだった僕を救ってくれた」

「助けたんじゃなく、壊したんです。私の力は、壊すことしかできないですから」


 超人的な筋力も、付け焼き刃の魔法も、全部が壊すための力だ。あの時、私は一人の人間を壊しただけだ。たまたま死ななかっただけで、一歩間違えれば私はあの男を殺していた。


「でも君は、今、確かに僕を助けたよ」

「え……?」


 渡辺君が先ほどの一幕を思い出すように、背後を見た。その先には、先ほど彼を飲み込みかけた奈落があった。


「もしかして……そんなことを言うためにこんなことをしたんですか……?」

「そうだね、それも目的だ」

「馬鹿ッ!」


 渡辺君は控えめに笑うだけだった。その顔に、私の苛立ちが増していく。


「なんでそんなに必死になれるんですか。私なんていなくても、渡辺君なら簡単に友達くらい作れるじゃないですか。どうしてめんどくさい私のために命を張ったんですか。命を救ったのはたまたまです。私はたぶん誰が襲われても助けていました。恩なんて感じなくていいんです」

「助けられたからじゃないよ。僕が、伊勢崎さんとちゃんと話したいんだ」

「じゃあ聞きますけど、ここまでして、渡辺君は何が言いたかったんですか? 私にどうしてほしいんですか?」

「そうだなあ……」


 渡辺君は少しだけ宙に視線を漂わせると、私の目を真っ直ぐに見てきた。晴れ渡った、無邪気な顔だ。彼の初めて見る表情に、私は唾を飲んだ。


「僕にだけは、本当の君を見せて欲しい」


 ──その時、私の心臓が感じたことのない跳ね上がり方をした気がした。

 止まってしまった呼吸を再開して、私は感じたことをそのまま言う。


「……私みたいなこと言うんですね」


 私であって私ではない、王子様みたいな私に、今の彼はよく似ていた。


「伊勢崎さんみたいにかっこよくはできないけどね。……僕は普通で、凡人だからね」

「……そんなこと、なかったですけどね」

「え?」

「ともかく」


 吹き抜ける風に紛れた私の言葉を誤魔化すように、私は話を先に進める。


「私がまた前みたいに普通に話したら、渡辺君はこんな馬鹿なことをしないんですね?」

「そうだね。正直怖かったし、二度目は遠慮したいところだね」


 渡辺君は未だにブルブルと震えている自分の足を指して、自嘲気味に笑った。


「今日のこと、私は簡単に許す気はないですからね」

「それは困ったな、僕はどうすればいい?」

「私の言うことを聞いてください。私、本当は臆病で我儘でめんどくさいんです。渡辺君には、私の弱いところ全部に付き合ってもらいますから。きっと、いっぱい迷惑をかけます」

「うん。臆病なことも我儘なこともめんどくさいことも、全部知ってるからね。覚悟の上だよ」

「……馬鹿ですね、渡辺君」


 私の最後の言葉はまた吹き抜けた風に紛れたらしい。渡辺君は否定も肯定もせずに、ただ言った。


「じゃあ、一緒に帰ろうか」


 振り返り、穴の開いたフェンスへと向き直る。いつの間にか下りてきていた太陽が、橙色に私たちを照らしていた。

「……ところでこのフェンスの穴、どう説明すればいいですかね? そもそも渡辺君のせいだと思うんですけど」

「……説明しようがないし、黙って帰ろうか」


 ああ全く、最低の解決方法しか浮かばないなんて、渡辺君はやっぱり馬鹿だ。

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