第209話 醤油

「あ、あの! アネモネ様にお聞きしたいことが」


 期待に胸を膨らませて、僕は彼女に訊ねた。


「質問ですか? なんなりと」

「海上都市アクアビット……いえ、皇国には《醤油》と呼ばれる調味料はありませんか?」

「醤油? ええ、ありますよ。皇国ではもっとも人気のある調味料ですね。わたくしが食べた刺身にも使われていました。それがどうかしましたか?」

「本当にあったのか⁉」


 思わず勢いよくソファから立ち上がる。

 興奮を抑えきれなかった。


 アネモネに詰め寄るように、さらに質問を重ねる。


「そ、その醤油っていうのは、やや塩辛い味の黒い液体ですよね?」

「は、はい……そうですね。確か、大豆という豆を使って作っていると聞きました」

「ビンゴだ!」


 顔を離す。


 やっぱり僕の予想どおり、皇国は日本に近い国だ。生魚を食べるだけじゃない、醤油まであるなんて!


 内心で歓喜の舞を踊る。

 片や、僕の様子にアネモネは怪訝な眼を向けていた。


「ヒスイ子爵? 大丈夫、ですか?」

「え? ああ、平気ですよ。すみません、一人で勝手に盛り上がって」

「いえ、それは別に構いませんが……醤油が何か?」

「実は僕、ずっとその醤油を探していたんです。皇国に似た物があるだろうな、とは思ってましたが、まさかそのまんま醤油が出てくるとは……。さすが異世界。こういう所は適当だな!」

「異世界?」

「こっちの話です」


 おっとっと。危ない危ない。

 僕が前世の記憶を持つ転生者だとバレたら、どんな眼で見られるか解ったもんじゃない。


 ごほんと一度咳払いをしてから、話を続けた。


「それより、よかった。醤油があるならぜひ行ってみたいですね、海上都市アクアビットに」

「本当ですか⁉」


 バン、とテーブルを叩いて、今度はアネモネがソファから立ち上がった。

 彼女は瞳をキラキラさせながら言う。


「やりましたわー! ヒスイ子爵をどうやって旅行に誘おうかと思いましたが、醤油と刺身が勝利のピースになるとは思いませんでしたわ——! お母様、アネモネはヒスイ子爵を射止めましたわ——!」


 射止めてませんよ? 醤油と刺身に釣られたのは事実だが。


「ふふっ。今後はヒスイ子爵をこの手で釣りましょう。ええ。それが一番効率ですね」


 ぐふふ、という声を漏らしてアネモネが懐からメモ用紙のようなものを取り出す。

 ペンを手に、何かを書き殴っていく。


 小さく「ヒスイ子爵は食べ物に釣られやすい」みたいこと言っていた。

 僕はそんな単純な男じゃ……ないこともない。

 うん、今、僕は釣られているから言い訳のしようがなかった。


「それではヒスイ子爵。アクアビットへの旅行は、夏休みに合わせて行きましょう。長期休暇を利用するのが一番です」

「夏休み……」


 そういえばそんな時期か、もう。

 最近、僕はあっちにこっちにと忙しすぎてすっかり季節感を忘れていた。


 入学してから数ヶ月しか経っていないのに、学園が襲撃されたり、帝国へ戦争を止めにいったりといろいろあったなあ。


 割と平穏な日常を過ごせていないことに気づき、やれやれとため息を吐いた。


「そうですね。僕は構いませんよ」


 今すぐでもいいくらいだ。気分だ。


「ありがとうございます。日程や荷物に関してもこちらで準備しておきます。長期休暇には混雑する恐れがありますが、そこはグリモワール公爵家の名と財を使えば楽勝です! お任せください!」

「ほ、ほどほどにお願いしますね? お金は僕も払いますから」

「いいえ。グリモワール家は王族以上にお金を持っているのでご心配なさらず」

「は、はあ」

「そんなことよりヒスイ子爵には、たっぷりと旅行を楽しんでほしいですわ! おほほ」


 それだけ言って用は終わったと言わんばかりにアネモネは自宅に帰っていった。

 嵐の如き彼女に、僕は苦笑しか出てこない。


 しかし、アネモネのおかげで僕は大変気分がいい。準備までやってくれるなんて、彼女はいい子だなあ。

 内心でもういないアネモネに感謝する。


「ご機嫌だねぇ、ヒーくん」


 小さく笑う僕の頭上から、三人の女神が下りてきた。


 フーレが僕に抱き付く。


「フーレ。そりゃあ上機嫌にもなるよ。僕の前世にあった調味料や文化を見られるんだからね」

「ヒーくんの前世? 地球、だっけ」

「うん。僕の住んでた国には、凄く有名な調味料があってね。それが醤油なんだ。まさか皇国にあるとは思わなかったな」

「へぇ。ヒーくんの故郷の味かあ。私たちも楽しみだよ!」

「フーレたちも来るの?」

「当たり前じゃない。あなたが行くならどこへでも。そういう関係でしょ」

「くすくすくす。アルナの言うとおりです。仲間外れにしないでくださいね?」

「しないよ。むしろみんなが一緒で嬉しいな。ずっとアネモネ様と一緒にいるわけでもないだろうし、フーレたちと観光するのも楽しみだ」

「わーい! ヒーくんとデートだあ!」


 わざわざ地面に下り立ってからぴょんぴょんとフーレが跳びはねる。


 楽しそうな彼女たちの顔を見ていると、僕までさらに楽しくなってくる。


 うんうん。旅行はこうじゃないとね。


———————————

あとがき。


書き直すことになった新作「俺の悪役転生は終わってる」。

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