第37話 旅立ちの日
「ハァ……ハァ……ハァ」
荒い呼吸が繰り返される。
沸騰した頭が、徐々に冷静さを取り戻した。
ぼやけていたはずの視界が鮮明に晴れていくと、ようやく上手く現実を呑み込むことができる。
現状は、最悪だった。
兄グレンの上に馬乗りになった僕と、顔から血を流してぐったり倒れるバカ兄。
そのそばで、ぐずぐずと泣いているのは、僕に助けられた村娘の子。
青空の下、清々しい空模様とは正反対の混沌が渦巻いていた。
べっとり血の付いた両手を一瞥すると、そこでようやく、僕は兄グレンの上から退く。
すでに兄グレンはなにも喋らないし動かない。
殺したわけではないことを、規則的に動く腹部を確認すればわかる。恐らく、兄グレンは気絶しているのだろう。
もう一発ほど殴りたくなるが、その気持ちをグッと抑えて深い息を漏らした。
「やりすぎちゃった……かな」
正直、あーあ、だ。
いくら兄グレンにぶちキレたからと言って、ほぼ一方的に殴りまくるのは子供の行いではない。
魔力こそ使わなかったが、すでに僕は十四歳。肉体的にかなり仕上がってることを含めると、圧倒的な過剰防衛。
前世なら、普通に僕のほうが加害者になる案件だ。
近くにいる、状況を唯一知る女の子も、さっきからずっと泣いているしね。
両親やもう一人の兄ミハイルに見つかったら、確実に僕は怒られるだけじゃ済まない。
けど、不思議と後悔はなかった。
やっと嫌いだった兄グレンをボコボコにできて、むしろ清々しいとすら言える。
最後にもう一度ホッと息を吐くと、そばで泣いてる女の子に告げた。
「ユーリ、君はもう帰ったほうがいい。家に帰って、安静にするんだ。いいね?」
返事はない。ぐずぐずとした声だけが聞こえ、ジッと僕を見つめる彼女の視線が重なった。
しばし無言で見つめ合う僕たち。
気まずい沈黙を断ち切ったのは、途中で視線を逸らした僕のほうだった。
服でごしごしと両手を拭くなり、重い体を引きずって自宅に戻る。
——こうなった以上、もはや僕の計画を前倒しに進めていくしかない。
ガチャリと扉を開けると、まっすぐに二階の一番奥にある角部屋を目指した。
そこは僕の部屋じゃない。荷物を取りにいくわけではない。
荷物の大半は〝収納袋〟の中に入っているから平気だ。それより何より、僕は最後に残った姉と話し合う必要がある。
今すぐにでもこの家を出ないといけないのだから。
木製の床板を軋ませながらスタスタと歩き、目的地に辿り着く。
控えめな音で扉をノックすると、内側から鈴の音みたいな綺麗な声が返ってきた。
「はい、どなた?」
「僕だよアルメリア姉さん。ちょっといいかな」
「ヒスイ? どうしたの? さっき部屋を出たばかりじゃない。忘れ物?」
扉を開けると、窓際の椅子に座る次女、アルメリアの姿が見えた。
腰まで伸びた美しい薄緑色の髪が、開いた窓から入ってくる風に揺られる。
深窓の令嬢って感じだ。
「ううん、忘れ物じゃないんだ。姉さんに話しておきたいことがあって」
「話? なにかしら」
「今から、僕はこの家を出る」
「……え? ど、どういうこと?」
案の定、アルメリア姉さんは酷く動揺した。知的だからこそすぐにその意味に気付く。
「今しがた、村民に襲いかかろうとしたグレン兄さんをボコボコにしちゃってね。確実に問題になるから、これを機に外へ行くよ。森を通って王都を目指す」
「そ、そんな……ヒスイが、そんな危険な真似を……」
「グレン兄さんの件はいいの? 僕が森を抜けるよりよっぽどヤバい状態だよ」
「グレン兄さんは自業自得です。前々からヒスイをバカにしたり、私を蔑むあの顔が気に入りませんでした」
「お、おおう……」
アルメリア姉さんにしては珍しくキッパリ嫌悪感をあらわにしていた。
彼女はあまり人を嫌うタイプではないのに。
「それよりヒスイのことです。本当に王都へ行ってしまうのですか?」
「うん。この家に残っていてもあとが辛いからね。アルメリア姉さんを置いていくのだけが心残りだよ」
いますぐに彼女を王都へ連れていっても、まともな生活をさせられるかわからない。
なにより、アルメリア姉さんまで消えたら両親がどう思うのか。
これまで関心がなかったとはいえ、一応はクレマチス男爵家の令嬢。王都で僕と一緒に過ごしていると知れば、確実に親の権利を行使して連れ去られてしまうだろう。
そうでなくとも、アルメリア姉さんは体が弱い。病気自体は治っても、あまり危険な強行軍はさせたくなかった。
だから、もう少しだけ待ってほしい。
僕が王都で生活環境を整えたら、すぐにでも彼女を迎えにいく。
アルメリア姉さんには特に、不自由な生活などさせたくない。少しも不安を抱かせず、必ず幸せにする。
そのためには、アルメリア姉さんにとって安全なこの家にいてもらったほうがいい。
「ヒスイ……」
深い知性の宿る瞳が、わずかに雫を滲ませて僕を見る。
お互いに泣きたい気持ちでいっぱいだが、そんな時間はない。
馬鹿グレンは家の前に放置したままだ。いずれ、家族のだれかが戻ってきてバレる。
だからいまは、すぐにでも家を出ないといけない。
「解ったわ。止めたい気持ちはあるけど、ヒスイの気持ちも理解できる。気をつけて。絶対に、怪我なんてしちゃダメよ」
「ありがとう、アルメリア姉さん。必ず姉さんを迎えに行く。準備を済ませて絶対に」
そう言って僕は彼女のもとまで行くと、お互いに両腕を広げて抱きしめあった。
「ふふ……期待してるわね、わたくしの王子さま」
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