第36話 許せないものがある

 村娘ユーリの腕を掴み、自らの邪な感情を彼女にぶつけようとする兄グレン。


 そんな兄の行動、姿に、僕は人生で初めてかもしれない程の怒りを抱いた。


「——せ」


「……あ?」


 僕の口から、想像以上に低い声が漏れる。


 ピタリと兄グレンが足を止めた。


「いま、何か言ったか?」


「その手を……離せ!」


 じろり、と兄グレンを睨む。


 底から湧きあがる怒りを、どうにかギリギリで抑えながら一歩前に出た。


 しかし、兄グレンは額に青筋を浮かべて笑った。


「はぁ……? お前、俺さまに命令してるのか、それは」


 パッとユーリから手を離すグレン。しかし、それは僕の命令を聞いたわけではない。


 ポキポキと手を鳴らしながらこちらに近付く。


 目の前までやって来ると、憎たらしい顔で吐き捨てた。


「末っ子の、姉に守られなきゃなにもできねぇお前が……俺さまに命令? ふはっ! 面白いじゃねぇか。その顔、別人になるまで殴ってやろうか? 弟の躾も兄の務めだよなぁ?」


 兄グレンが拳を握りしめる。


 これまで以上に下卑た顔で、最後にヤツは言った。


「安心しろ。お前をボコボコにしたあとで、あの女はたっぷりと可愛がってやるからよぉ!」


 そして、グレンの拳が落とされる。真っ直ぐに僕の顔面に向かって。


 だが、兄グレンの拳は届かない。僕が平然とその一撃を受け止めたからだ。


 パシンッ、という軽い音が鳴った。


「——は? お、俺さまの拳を……ヒスイが、止めただと!?」


「そんなに驚くこと? 何の力も乗っていない、アザレア姉さんに比べたら子供みたいな攻撃が止められて」


「ヒスイ、てめぇ! 俺さまをバカにしてんのか!!」


 怒り狂う兄グレン。


 もう片方の手にも拳を作ると、反対側の頬目掛けて振るう。


 空気を引き裂いてグレンの拳が迫るが、首をわずかに傾けるだけでその一撃は虚空を叩いた。


「なっ!? どうして……俺さまの拳が……!?」


「言っただろ、アザレア姉さんに比べたら、お前の力なんて児戯だよ。そもそも、〝呪力〟は物理的な強さじゃない。どれだけ必死に拳を振り回したところで……」


「クソッ!」


 人の話を最後まで聞かず、兄グレンがさらに僕を殴ろうとする。


 もはやそれを受け止めることも、避けることもしない。


 ようやく、兄グレンの拳が僕の頬に届いた。


 しかし、


「ぐあっ——!? な、なんだこの硬さは!?」


 攻撃したはずの兄グレンのほうが負傷した。


 手の甲の皮膚が、わずかに裂けて血が流れる。


 ほんのわずかな怪我に、いちいち動揺しすぎだ。


「当然の結果だよ。呪力しか使えないお前の拳が、使僕に届くはずがないだろ? 肉体の硬度すら上げられる魔力を使えば、こんなこと簡単さ」


「ま、魔力……? なぜ、お前がアザレア姉さんと同じ力を!?」


「そんなの決まってる。ずっとずっと隠してきたんだ。本当は、家を出るまで秘密にしておくはずだったんだけど……お前が、あまりにもゲスで抑えられなかった」


 なぜ、そんなことができる。


 なぜ、簡単に人を傷付けられる。


 なぜ、他人から奪おうとする。


 人が哀しむと解っていながら、どうしてお前は平然と悪者になれるんだ?


 理解できない。理解したくない。もう、お前という存在が嫌いでしょうがない。


 僕は、本当は誰かを殴るのは好きじゃない。こうして傲慢になるのも好きじゃない。それでも、許せないものがある。


 誰かの平穏を、人生を、日常を踏み荒らすというなら……僕がお前を、傷つけて奪ってやる。なにもかもを。


 そう決意を胸に、右手を握りしめた。


「自分のしでかしたこれまでの罪と、姉さんや僕に対する虐めの数々……ちょうどいいから、いま、全部償ってもらおうか。どうせ隠しておくのは無理だし、少しでも僕の気持ちがスッキリするほうを選ぶよ」


「ま、待て——」


 待たない。


 兄グレンを殴った。


 たった一撃で、グレンが血を流して地べたに転がる。


 恐怖と痛みの色に顔が歪んでいた。けど、僕は止まらない。


 怒声を上げながら転がる兄グレンの上に立つ。


 罵詈雑言を浴びせるグレンの顔を、その後、——何度も殴った。


 真顔でひたすら殴る。


 魔力による強化はしていない。強化するとあっさりグレンを殺してしまうから。


 やってるのはただの治癒。神力によって自らの拳を守っている。


 あとはただ、ひたすら殴るだけ。


 涙を流し、懺悔の言葉を呟いているが無視する。死なない程度に殴り続ける。


 顔に血が飛び散って付くのも無視して殴る。


 前世では、過剰防衛なる言葉があった。


 やりすぎると、倫理観をもとに責められることもある。法律が罪を裁くのだと誰かが言った。


 しかし、僕は違うと思う。誰もが誰も、本当の意味で人を裁けない。


 裁くには、自分自身を悪だと断定するほどの覚悟がいる。


 僕は自らの行いを正当化するつもりはないが、この男のこれまでの行動、態度、性格の悪さを許すつもりはない。


 だから殴る。誰かが許しても殴る。そこまでする必要はないのだと言われても殴る。


 悪を裁くのは、いつだって悪者なのだから。




 しばらくの間、家の前では、グレンの呻き声とユーリの震える声、それに僕がグレンを殴る音だけが聞こえ続けた。

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