第33話 あなたの名前は

 ローズ・ミル・リコリスは、リコリス侯爵の娘だった。


 クレマチス男爵領という、一種の巣窟の隣に居を構える貴族で、北東部の大半を治める王国一の剣の家系。


 ローズはその家系の長女だった。


 クレマチス男爵家に比べれば圧倒的に裕福な生活は、ローズ自身の人生を幸せにした。


 特に不自由なく暮らしていた彼女は、しかしある日、唐突に絶望の淵に立たされる。


 と言っても、家が没落したとか、両親が死んだとかそういう話ではない。


 近い話ではあるが、——端的に言って彼女の母親が病気を患ってしまった。


 それもかなり重い病気に。


 街の教会に所属する聖職者では治せないほどの重い病。世界的に見ても【呪力】ほどではないが、【神力】の所有者は少ない。


 そこから更に母親の病気を治せる者など、ほんのひと握りだった。


 彼女の父親はなんとか王都にいる神官を呼ぼうとするも、王都の教会に所属する高位の〝神官〟は、基本的にかなり忙しい。


 いくら激戦区の北東部を治める侯爵といえども、おいそれと呼び出すことはできなかった。


 苦悩し、それでも王族への手紙を飛ばす。


 返事が返ってくるのは相当あとになる。そもそも王都にいる神官でも、母の病気を治すことができるとは限らない。


 最悪、王国中を探してもリコリス侯爵夫人の病気を治せる者はいないのかもしれない。


 ——いざという時は覚悟していてくれ。


 そう父親から告げられたローズは、当然、その言葉を呑み込むことなどできなかった。


 大好きな母を失うことを受け入れられない彼女は、家族に秘密で護衛の騎士を伴って街の外に出た。


 本で読んだ薬草を片っ端から採取していけば、もしかしたら母が治るかもしれないと考えたからだ。


 焦り、慌て、彼女は忘れる。


 父がそんな当たり前のことをしていないワケがない、ということを。


 そして外に出た彼女は、順調にさまざまな薬草を手に入れるが、森の奥まで入ったところで、最悪の敵と遭遇した。


 相手の名前は〝バジリスク〟。


 本来、人里の近くに現れるような存在ではない。まったく現れないワケではないが、非常に稀だった。


 何より、バジリスクは魔獣の中でもひときわ強大な能力を有する個体だ。一匹のバジリスクに街が滅ぼされたなんて話も聞いたことがある。


 そんなバジリスクを前に、恐怖に足を震わせたローズ。


 護衛の騎士たちが逃げるように伝えるが、薬草の入った籐かごをぶら下げる彼女は、上手く足を動かすことができなかった。


 近くにある馬車に乗るだけでもいい、と言う騎士の声も届かず、バジリスクは攻撃を始める。


 幸い、馬車は少しだけ離れたところに置いてあった。被害は受けなかった。


 代わりに、ローズを守ろうとした騎士が負傷した。


 仲のいい、評判の高い若き騎士が、ローズを庇って片腕を失った。


 もうひとりの騎士も負傷する。


 それぞれが、本当は叫びたいほどの苦痛を感じているはずなのに、必死にローズに逃げるよう叫んだ。


 ずっと昔から一緒に暮らした仲間だ。彼らを無理やり引っ張った挙句、こんなバケモノの前で死なせるなど、ローズは哀しくて苦しくて辛くて、どうしていいのかわからなくなる。


 辛うじて恐怖に少しだけ慣れ始めた頃、彼らのためにも逃げなきゃいけない。彼らの犠牲を無駄にするのはよくない。彼らを置いて……自分だけ、生きる。


 という苦しみを抱え、必死に足を動かそうとした時。


 ——奇跡は起きた。


 突然目の前に現れた少年が、バジリスクを横から蹴り飛ばしたのだ。


 ありえない光景を見た。


 バジリスクとは災害だ。絶望の象徴だ。人間よりはるかに巨大な体を、自分とほとんど背丈の変わらない少年が吹き飛ばしてしまった。


 その事実に、護衛の騎士と揃って強い驚愕に見舞われる。


 そこから更に驚愕は続いた。


 なんとその少年は、あれだけの身体能力を発揮したにも関わらず、ローズたちに近付いて負った傷などを治療したのだ。


 グチャグチャに折れた腕はもちろん、石化した足さえも彼は治してみせた。まさに神のごとき能力だとローズは思った。


 ひとしきり治療を終えると、少年はバジリスクを討伐しに向かう。


 少しして、少年がバジリスクを倒して戻ってくる。本当に倒したのかどうかは解らないが、ローズには確証があった。


 あれだけの能力を持つ少年が、無傷でバジリスクから逃げるわけがない、という一つの確証が。


 不思議な気持ちを抱きながらも少年の名前を知りたいと思った彼女は、高鳴る心を抑えながら自らの名前を明かす。


 しかし、少年はその途中で脱兎のごとく逃げ出した。


 まるで自分の正体を明かしたくないかのように。


 その後ろ姿を、先ほどの雄姿を、なにより特徴的な緑色の髪を見送って、さらに大きく、ローズの心臓は強く跳ねた。

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