あっちです
水山天気
あっちです
君が言いかけた 言葉のその中から
――大槻ケンヂ「猿の左手 象牙の塔」(『花火 大槻ケンヂ全詩歌集』所収)より
👆
人間の手首。
道の先に落ちている。
誰の。
何者かの最後の意志を固めたように、人差し指だけを真っ直ぐ突き出し、無人の道のその先を指している。
太い指だった。
骨が太い。
爪が太い。
脂が太い。
ちぎれた手首の断面からのぞく
空手の手。
空手の島だ。この島は。
現地の人間の手首だろうか。だとすれば、道の先に何があるのか知っていたはずだ。
私は顔を上げ、周囲をぼんやりと眺めた。どちらを見ても、同じような景色にしか見えない。四方八方から火の手が上がり、見渡すかぎり隙間のない巨大な炎の輪が夜空を
どういうわけか、恐怖は感じていなかった。はっきりと前を指している奇妙な手首の先にあるものを見たいと思うだけだった。
この道を行けばどうなるものか。
私の足は、空手の手が指す方角へ向かっていた。この島を歩くのは、これが最後になるかもしれない。外出時の行動は厳しく制限されており、そしてこの島はひどく蒸し暑かった。訓練とその前後の個人的なトレーニングで疲弊した体を、快適な兵舎の外へ運んでいく気にはなれなかった。この島は、私たちの隊にとっては一時的な滞在地でしかなかったし、望めばいずれまた訪れる機会があるとも思っていた。
――本当の空手。
空手は常に近くにあったが、それ以上に距離が縮むことはなかった。故郷には小さな道場があり、ひそかに憧れていた友人に誘われたこともあったのだが、私をふくむ近所の悪童たちはボクシングと近代柔術のジムで子犬のように遊び狂っていた。勝った時に思いきり歓喜を爆発させることも許されないような窮屈な道場へ行く気はなかった。
――本当の空手。
それを「学んで」いるという友人は、いつまで経っても強くなったようには見えなかった。「すぐに強くなるようなものではないのだ」と友人は言った。「短期間で兵士を造り上げるためのものではない」とも言っていた。しかし、先に徴兵されたのは彼のほうだった。私と彼の性別は同じだが誕生日は異なり、そして彼は私よりも少しだけ運が悪かった。
彼もこの島に来ていたはずだが、あの手首は彼のものではないだろう。
彼の指は細かった。空手に興味を持ち出してからは、それなりに厚みのある手になっていったが、それと併行して顔色が悪くなり、ついには肝臓の精密検査を受けるほどになった。酒を飲むような少年ではなかったので、おそらく空手のせいだろうということになった。小さな手は全身とつながっている。大岩や厚い鉄板のように重く硬い物で
それから彼は、「独学」の道を引き返し、バスの中で自分の病状を見抜いた空手家のいる「本当の空手」の道場に通うようになった。
――
空手の師は、まず初めにその言葉を教えたという。月を指す師の指を見るのではなく月そのものを見なさい、という教えが込められた言葉である。師にほめられるために稽古をしていることに気づいたらそんな空手はすぐにやめなさい、とも言われたそうだ。独学には独学の危険があり、師事には師事の
→
黒いボウガンの矢。
道の先に落ちている。
尖った先端は右を指している。十字路の中央で、真っ直ぐ右を示している。
念のためにその周りを照らしてみたが、弓やゴム紐やカタパルトのような物は落ちていない。
ならばこれは間違いなく矢印の矢だ。弓矢印やスリングショット印の一部ではない。サイズと形状から見て、90度回転して飛ぶ棒手裏剣印の代用品とするには無理がある。これそのものが完全な
右の方に進むべきである。
そんなことにすら理屈を絡めて疑うような哲学者もいるが、馬鹿げている。
この矢は右に飛ぶ矢である。時間さえあれば、右に飛んでいる。人間の意志が乗っている。
私は矢のように右を向き歩き続けた。
獲物は右だ。太古の森の中でも、このように人から人へと情報は伝わっていったのだろう。
――黒人は嘘をつけない。
祖父の右眼は「→」の左側にあった。
この場合の「→」はスリングショット印だ。ジャングルの中でゴム紐から放たれた細い鉄の棒は左に飛び、祖父の右眼に突き刺さった。
祖父は現地の住民に
――黒人は嘘をつけない。白人は嘘をつける。しかし、
祖父の曾祖父は、ひどく差別的な信念を持っていたようだが、彼が私の祖父に伝えた人生訓の中には黒人と白人しかいなかった。指針の欠けた戦場で、祖父は右眼を失った。他人に弱みを見せることを嫌った祖父は、右眼が義眼であることもなんとか隠したいと思っていたのだろう。私の記憶の中の祖父は、いつも不自然に頭部を動かしている男だった。そのことを無遠慮に指摘した幼い私に対して、祖父は新たな家訓を伝えておく気になったのだろうか。人種についてのレクチャーが始まった。活用したことは一度もない。
あの、落ちていた手首の肌は、どうだったろうか。
不意にそんなことが気になってしまった。
黒人の手首であったようにも思われるし、白人の手首であったような気もする。そんなことはできるだけ意識しないようにして生きてきた。
いずれにせよ、あれは人間の手首だった。人間は人間の一部を見れば人間だと判る。いちいち腹を裂いてみなければ判らないようでは、人間はとてもやっていけない。この世界が既に「紛らわしい生き物」が滅ぼされた結果ある世界だったとしても、この先にそのような惨禍はないと私は信じている。
こころなしか、炎の輪が穏やかな姿になってきたようにも見える。
いつかは火も消えるのだ。
しかし、戻れるだろうか。
火の夜に誰かが誰かを指さして。
たとえ夜が明けたとしても、何もなかったことにはならない。
☭
鎌と槌。
農具と工具。
持ち手を失い、地面に放り出されている。
定住を始め、墓に取り囲まれて生きるようになった人間たちは、それでも時間の先端を見失うことはなかった。
左に進むべきである。
この世で最も進歩的であることを自認する人々は力を合わせ、にもかかわらず小さな議場の内部では右と左に分かれて座った。針先がめまぐるしく揺れる。彼らがそれぞれ思い描く針路は凄まじい速さで分かれていき、ある日の左は次の日にもう右となった。そして人々は混乱したまま他人の土地へ進軍していった。中心から周縁へ。つまりどちらへ進んでもよかった。それから100年経った時には、辺境にこそ中心があった。歪んだ大伽藍の矛盾が集中する一点。張り詰めた茎。収穫の鎌を、ハンマーの一撃を待っている。地上で最も悲惨な場所にこそ、あの御方は現われる。
なぜ私はこの島にいるのだろうか。
必要な準備をすませて次の島へ行くため。
しかしそもそも、私が次の島で戦わなければならない理由は何だったか。
戦わなければならない必然性が、本当にあっただろうか。
提供される「理論」は
――声東撃西。兵は
数千年前からそれを知っている者たちはいた。敵を異常な世界に
卍
思い出せない。
時計回りに回転するようにも、反時計回りに回転するようにも見える。矢印のような判りやすさのある記号とは言えない。
下水道へつながるマンホールの蓋に、その記号が
――人の子の
私はバールで蓋を開け、
万字は渦である。左旋であるか右旋であるかは重要ではない。渦の本質は上下である。そして、私の前に現われたのは地中へ向かう梯子だった。北極の氷の闇の中から勝利の栄光に包まれて流出した人間力は南極の大穴から地球内部の空洞へ吸い込まれていく。誰もが兵士となりうる時代において、最も強力な兵器は虚無の中に構築された正当性である。友の誰もがそれを信じ、敵の誰もが到底それを信じられないようなものであれば最も強い。その柱は土地と人間そのものの中心に立てられなければならない。
天の一点からさしこむ光が消えた。
周囲は完全な闇だった。
腰にあったはずの懐中電灯の重さが消えている。右手が梯子をすりぬけて壁に溶け込んでしまったような気がする。続いて左手。体の各部の状態を確かめようと意識した瞬間に、その部分が弾けて溶ける。懐かしい夜の蒸し暑さに包まれて、穴の内壁をゆっくりと滑り落ちていく感覚だけが続いた。
下からざわめきが聴こえてくる。
渦の下には、この世で最も悪意に満ちた忌むべき者たちがいるのかもしれない。
しかし、人間である。
ただどうしようもなく離れがたい音だけがあった。
声。
人間の声。
高名な解剖学者が死体の腕一本を無言で示して論義の相手を退散させたという禅問答めいた故事にもありますように動物というものは同種の肉体の一部が転がっている光景に出くわしますと本能的に恐怖を感じて比較的安全だろうと思われる方角つまりもと来た道を引き返したくなってしまうものであるようです。先へ進めば自分より強い生き物に襲われる確率が高いわけですから無理もございません。
(終)
あっちです 水山天気 @mizuyamatenki
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