第16話蛙の歌を絶唱した話(−1)
「看護師がいないから、お願いっ!」
そう、学生時代の飲み屋の姐さん風の恩師が学校退職後に勤める老健でバイトをする事を頼まれ、一晩2万5千円で本業の隙間にアルバイトをはじめました。
バイト開始当初はなかなかバイト先で初めてする技術もあり、看護師として「パワーオブジャスティス」な世界で生まれ育った自分の未熟さを痛感し、凹んだりもした。偶には男優になったりもした。
が、数ヶ月経って、なんとか軌道に乗り始め、今月は3回ほど夜勤バイトを入れてみた。
で。1回目は何事もなく終えて。
今月2回目。バイト現場に行ってみると、なんか、慌ただしい。そしてなんか職員の人数少なくない?
そして、いつものように始業前に薬をちぎり、用意する。
で、申し送り。
「感染性胃腸炎が流行ってて大変なのよ。」
と。
おいっ。ボク1時間目から出勤してフロアいるんだからもっと早く言えよ!!もうあっちこっち素手で触っちまったじゃねーかよ!
で。職員にも感染してて出勤できる職員が数少ない事、嘔吐してる利用者が個室隔離で、点滴してるのも数人いると言う事、それで申し送りが終わる。
マジかー…自分の病院に持ち帰るリスクもあるし、先に言ってくれてたらバイトに出勤しなかったんだけどなー…。まぁ、そうなったら困るから黙ってたのだろうが…。
そして、日勤者は薄めたハイターを浴びて帰り、スリリングな夜勤が始まる。夕食、夕薬眠薬迄はなんとかこなした。感染部屋の使った使い捨てガウンを「もったいないから。」で使いまわしてるのが誠に遺憾だが、バイトの分際なので黙って従う。きっとコレはエコ活動なのだ。
一息ついた頃。共に夜勤をしていた介護士2人のうち片方が、トイレに消える。そしてーーーーーーー
「ゔぉえっ!!!うゔぉっ!!!」
トイレから響く濁音多めの声。
「うー、吐きました…。」
しばらく経って、そう言いながら青い顔で出てくる男。
「大丈夫ですか!?」
と、女性のスタッフが心配していた。が、ボクは所詮バイトで一回り以上年下、「今すぐ帰れ」と言いたいが、黙ってことの成り行きを薄暗いホールの隅から見ていたのだった。
それからきっかり1時間後。
「ゔぉえっ!!!うゔぉっ!!!」
トイレから響く濁音多めの声。
「うー、吐きました…。」
しばらく経って、そう言いながら青い顔で出てくる女。
…デジャウかな?
その後、青い顔の男女が唯一の職員トイレを代わる代わる通っている。もう今すぐ二人とも家に帰って欲しいが、代わりの人員もいないそうで、このメンバーでやるしかない。逆にボクが帰っちゃダメかな?
「コレ、良かったら飲んで下さい。」
ため息混じりにそう言って、自動販売機で買ってきたポカリを二人に提供するボク。
「あとボク起きてんで、二人で変わるが変わる休憩入ってください。」
そう言って、完全徹夜を引き受ける。
そして、明け方午前3時。そろそろ経管栄養付けに行くか…と立ち上がった私に届く愛のメッセージ。
「新たな嘔吐者が出ました!!!」
おーい。マジか。その部屋に行き、バイタルを取り、ゲロを片す。
こんな使い回しの感染予防着でゲロと対面しているのだ、ボクもそう長くはない健康寿命なのだろう…と未来を憂う。
それでも、今をやるしかないならやるだけで。慌ただしい朝食前の離床トイレ戦争に時間は移ろいでいく。
途中、ゲロ吐いてた男の職員が素手で入れ歯を扱っているのを確認した為、使い捨て手袋を勧めたが、今度は手袋をそのまま使い回しているのを確認し、この徹底したエコ思想に絶句したのは良い思い出。
そして、激動の朝食最中、キャイキャイと日勤の職員達が来る。どうやら日勤者が足りなさすぎて、とうに退職した人員まで招集したらしい。よくもまぁ、命を賭けて退職した職場の危機に立ち上がるもんである…と、寝不足でしょぼしょぼした目で見守るのだった。
で、この間に点滴していた利用者が二人揃って自己抜針していたりもしたが、一分の隙もなかった為、日勤の看護師に託し、ボクはゲロの海からボロボロになって家路に着いたのだった。
そして、次の日。自分の本来の勤務先の日勤の朝。唐突に午前3時に目が覚める。
あれっ…。なんだろう…。身体が謎の違和感を訴える。そして、ボクも間も無くトイレの国の住民となったのだった。
そんでもって、本職の職場に「バイト先で流行性胃腸炎がうつりました。」とも大っぴらに言えるはずもなく、師長にだけコッソリ事実を伝えて職場には「体調不良でしばらく出勤できない。」と伝えて貰ったところ。
トイレとお布団を震えながら行ったり来たり有酸素運動している麗らかな午後。
ピンポンピンポンピンポン!!!バシバシバシ!!!
「可出君!!大丈夫!!?返事しなさい!!!」
中途半端な情報で駆けつけた職場の70代後半のお節介看護師婆様が家に突撃してくる。
「あ…大丈夫です…。ご心配ありがとうございます…。」
ドアを開けずに弱々しく礼を言う。
「いいからここ開けなさい!!!大丈夫なの!?開けて!!」
開けられるか馬鹿野郎。この人に事実をどこまで説明しようか…遠い目をしていると、
「早く開けなさいって!!」
ドアノブをガチャガチャさせながら騒ぎ続けるお節介お婆様。コレは一体ご近所にどんな誤解を与えるのだろうか…体調不良で揺らぐ意識が尚揺らぐ。
結局、良いウソも思いつかず、歳の差カップルの痴話喧嘩疑惑がご近所に流れる前に、正直に事情を窓際でロミジュリしながら説明し、お引き取りいただく。そこからはダイエットが勝手に成功した以外何事もなく、具合が悪いまま2日ほど休み、3日目には体調もやや回復したので自分のところの夜勤に出る。この夜勤の明けでそのまままたバイトだし、久々の食事に精のつくものを…と、コンビニで買ってきた焼肉弁当を夕食に食べる。即胃腸がビックリしてまた吐いたのは言うまでもない。が、それ以外はつつがなくすすむ。
そして、結局満足に食事を出来ぬまま、明けと体重減少で死にそうな顔で、助っ人を頼まれている以上穴を空けるわけにもいかないのでバイトの現場へ。存外バイト先はアレ以降感染拡大はなく、終息したようで、そこは良かった。きっとボクの日頃の行いの賜物だろう。
が、青い顔の不完全な体調で夜勤をこなした結果、「愛想が悪い。」とモンペ系利用者に家族からクレーム迄入れられて散々なまま終わるこの騒動。バイト代の約7万円は、もう何もかも嫌になって死んだ目の自暴自棄モードのボクが行き着いた近所のひなびたパチンコ屋で、日本きっての貢がれ女子・謎の金髪水着女に一度の当たりもなく1000回転突破の深い海に引き摺り込まれて1日で全て持って行かれた。もうどこにも救いはない。残ったのは胃液に塗れた思い出だけだ。
この件以降、どんなに頼まれてもボクはもうバイトの夜勤は月に一回しか入れまい…固くそう誓うのだった。
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