第02章「鏡 対 鏡」

問題編

02-01

 それは誰からも隔絶された、特別な空間のはずだった。

 これは偶然だったのだ。

 それに出会ったのも、自分がここに居たのも――偶然なのだ。


 偶然だからこそ――ここに賭けるんだ。

 鳥肌が立っていた。





「――い! ――い、探偵!」

 頭痛に似た腹立たしい振動が、眠りこけていた探偵の頭を真横に強く揺さぶった。

 神奈川県警に所属している虞須磨均ぐすまひとし警部補の声は、モノの少ない事務所の中に、ドア越しでもガンガン響く。探偵より干支半周ぶん年下、かつ公僕でありながら、探偵という職業を蔑視しない珍しい存在である。

 しかしながら、そんな貸しは惰眠を破壊した分で、帳消しを通り越して大赤字に突入している。

 探偵は文句の一つもつけてやろうと、おもむろにソファから起き上がって事務所の入り口のドアを開いた。

「あんねぇ、人間の集中力っちゅのは一時間しか保たんの。この小休憩がこの後のワーク・パフォーマンスにどれほど――」

「事件です」

 福島くん――虞須磨のあだ名――がこの探偵事務所に訪れるときの切り出し方は、いつもこうである。

 ステレオタイプな男子中高生のようなスポーツ刈りに、力強い視線。この顔から繰り出される請願を拒否するためには、より強い権力を持つしかあるめぇよ、とは探偵の愚痴である。

 かーっ、と探偵は大仰に手を広げてから、右手で頭を掻いた。

「まーたお手上げギブアップ?」

 それは私からは言えません、と福島は首を横に振った。

 これは所謂、警察からの横流し依頼――つまるところ、福島の上司にあたる警察上層部が会議室で皺と知恵を寄せ集めても、状況を打破できそうにない事件が発生したことを意味している。

 ただ、警察直々に依頼したとなると体面・メンツ・沽券に関わるので、こうして下っ端の福島がやってきて「ちょっと知恵を貸してくれよ」の体で交渉を始めるのである。

「お忙しいですか?」

 どう転んでも最終的な手柄は警察のものにしかならないから、探偵からしたら全く面白くないという複雑な事情がある。

「いえ全然」

 ただし、金払いはいいので身体は唯々諾々と従うのであるが。

「いつの? 一昨日の事件なら僕が――」

「一週間前、と言ったら分かって頂けますか」

 そう聞くなり、探偵は右手で顎髭をさすりながら宙空を見やった。

「そうか、か――」

 探偵たるもの、行動圏内で起きた事件にはアンテナを張っているから、どの事件がなのかは大凡見当が付いていた。

「福島君、人間というのは須くデリケートだ。つまり僕は遺体の放つ刺激臭にも慣れていないからにして――」

 探偵はそう言って戸棚の防塵マスクに目をやる。

「現場検証なんかとっくに終わってますよ。探偵さんは怪しい人物を指摘して頂くだけで結構ですので、行くのは署です」

 ――だけ、ってなあ。

 探偵は喉まで出掛かった言葉を押し込め、部屋の電灯のスイッチを切った。

 福島が事務所前で待ちぼうけを食っている間に、探偵はすっかり外出の準備を整えていたのだ。

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