7-新たな伝説のはじまり(前編)

 ドアの向こうで鳴り響くベルの音に起こされ、魔王はのそのそとベッドから這い出た。

「なんだ、やかましいな……」

 このホテルは宿泊客に快適な一夜も提供できないのか、と魔王は思った。

 元々、朝が弱いこともあって、けたたましいベルはいっそう頭にくる。

「いったいなんだというのだ」

 モーニングコールにはまだ早い。

 ホテル側の落ち度なら文句をつけて朝食にデザートを追加させてやろう、と魔王は勢いよくドアを開いた。

「魔王様、一大事にございます! お急ぎくださいませ!」

 廊下には幹部たちがいた。

 みな一様に慌てた様子で、魔王が出てくるのを待っていたようである。

「何事が起こったというのだ? 低血圧だから朝はひかえてくれと言っておろう」

 寝直そうとドアを閉めかけたところに、幹部のひとりが慌てて足を挟んで阻止する。

「おい、何をする? それはセールスのときにやるテクニックだぞ?」

「勇者です! 勇者一行が現れました!」

「ゆうしゃ……?」

 魔王はあくびをひとつし、つぶやくように幹部の言葉を繰り返した。

「ゆうしゃ……勇者だと!? なぜそれを早く言わぬのだ!」

 眠気が吹き飛んだ魔王は窓の外を見た。

 彼方の風景は、一面の黒を下から青紫が押し上げているところだった。

「まだ日も見えぬ時間だというのにか……?」

「おそらく今日はこのホテルに泊まり、明朝に魔王城を攻めるつもりでございましょう」

「ぐぬぬ……報告ではキクイタダ大橋の手前にある洞窟で停滞していると聞いたが……いつの間にあの洞窟を抜けたのだ?」

「と、とにかく、今すぐに支度をなさってくださいませ。急ぎチェックアウトしましょう」

「あ、ああ、でもその前に――」

 魔王はちらちらと視線をさまよわせた。

「その前にひとっ風呂浴びてからでよいか? ここの温泉に浸かるとお肌がすべすべになるのだ」

「なにをおっしゃいますか! のんびりしていて大浴場で勇者と鉢合わせになったらどうします!」

「むむむ……」

 魔王は勇者を激しく憎悪した。

 起床後に軽く入浴。

 地元で採れた野菜をふんだんに使用した朝食で空腹を満たし、もう一度温泉に浸かる。

 それがここ数日の魔王の楽しみだった。

 全身のコリがほぐれ、血行促進に疲労回復……。

 魔族を束ねる仕事というのは、世にはびこる”玉座にふんぞり返る魔王の姿”――とは正反対で、なかなかに激務なのだ。

 関係各所との調整や魔物たちのモチベーション維持、幹部会議。

 そうした日々の疲れを癒すのに、このホテルの温泉はうってつけだった。


 手早く身支度を済ませてチェックアウトする。

 長期滞泊は1カ月単位の契約であり、今回はの一方的なキャンセルとなるため、次回更新までの宿泊費に加え、手間賃としていくらか余分に支払う。

「当ホテルはいつでもお客様をお待ちしております」

「ああ、勇者を倒したらその時にな」

 表向き、決戦を待ち望む魔王を装うが、心境は複雑だ。

 なにしろ今から片道数時間かかる”魔王の間”まで行かなければならないのだ。

「では行くぞ!」

 お前たちも道連れだ、と言わんばかりに最強クラスの魔物を率いてホテルを後にする。



「あぁ……やはりなかなかの難所だな……」

 一度往復しているだけあって、体感的な時間の流れは初回ほどは感じなかった。

 が、それでもやはり3時間はかかってしまう。

「魔王様は体調を整えられ、魔王の間にてお控えください。勇者どもは……我ら四天王が片付けましょう」

「うむ、うむ……奴らも伝説の装備を身にまとい、力をつけておるだろう。油断はするな」

「おまかせを!」

 数体の魔物を残し、幹部たちはそれぞれの持ち場に散った。

「勇者はここまでやってくるでしょうか?」

 ヘビの頭を持つ魔物が問う。

「分からぬ。四天王の力が勝るか、勇者どもが勝るか――」

 どちらであっても最後には魔族が勝つ、と魔王は鼓舞した。

 決戦を前に魔物たちの間にも緊張が走っている。

 こうして勇気づけるのも魔王の仕事だ。



「遅いな……」

 魔王は何度目かも分からないあくびをした。

 魔王の間には雰囲気づくりの禍々しい壁画や、何に使うワケでもない祭壇っぽいものしかないため、暇つぶしに使えるものがない。

 部屋をぐるりと回ってみたり、窓の外を眺めたりとしてみたが、どれも退屈しのぎにはならなかった。

「最終決戦ですから、勇者たちも万全の態勢で臨もうとするハズです。チャーボの町で準備を整えているのでしょう」

「それもそうだな」



 魔王はそわそわしはじめた。

 遅い。

 遅すぎる!

 最終決戦の時を待つこの瞬間は、魔王人生の中で最も緊張する局面のひとつだ。

 勇者が万全の態勢で挑んでくるように、魔族もまた戦力を結集して迎え撃つ。

 彼らにとって、また世界にとってもクライマックスなのだ。

 ところが――。

「勇者たちはまだ来ないのか?」

 魔王はイライラしながら部下に問うた。

「報告によれば、勇者たちはこの下の大迷路にたどり着いたとのことです」

「そ、そうか……」

 となれば少なくとも数時間はかかる。

 苦難の果てにやって来た勇者たちを待ち受ける魔王――を演出しなければならない。

(少し横になるか……)

 玉座に座り続けて腰が痛くなった魔王は床に横になると、脱いだマントを丸めて枕代わりにした。

「2時間経ったら起こしてくれ」

「は、はい……」

 魔物はうやうやしく頭を下げた。

「あの、魔王様」

「どうした?」

「絵本は読まなくてもいいですか? なんなら子守歌でも――」

「いや、今日はいい」

「そうですか……」

 それからしばらくして、魔王は寝息を立て始めた…………。



「2時間経ちました。お目覚めください」

 部下に揺り起こされ、魔王はぬっと起き上がった。

「おお、もうそんな時間か」

「勇者たちは迷路の中ほどにいるとのことです」

「そうか、いよいよだな」

 大きく伸びをした魔王は鉄製の小さな像に炎の魔法をかけた。

 指先からほとばしった火球がたちまち像を包み込む。

「魔王様、何をなさっておいでですか?」

「これだ」

 魔王は枕代わりにしていたマントを床に広げ、炎で熱した像を軽く押し当てた。

「しわになってしまったからな」

 中央から四隅に広げるように像をすべらせる。

 それを何度か繰り返すとマントは元の張りを取り戻した。

「暮らしの手引きに書いてあったのだ。あれはなかなか便利だぞ」

「さすがです」

 いくらか疲れのとれた魔王は身なりを整え、来たるその時に備える。

「さあ、来るがいい、勇者どもよ。人間たちがすがるその希望を、叩き潰してくれよう」

 魔王は玉座に腰かけた。

 それから30分。

 もう30分。

 さらに30分。

 魔王は玉座の上でまたもそわそわし始めた。

「いかがなさいました?」

 魔物が心配そうに問う。

「ちょっと、な……」

「魔王様?」

「……トイレに行きたくなった」

「なんと……!」

 雰囲気作りを重視したここ、王の間にはもちろんトイレなどない。

「ゆ、勇者たちはどこにいる……?」

「迷路を抜けられず、まだ中ほどをうろうろしております」

「ということは――」

「あと1時間以上はかかりましょう……」

「なんということだ……」

 魔王は天を仰いで大息した。

「勇者の前に……尿意と戦うことに、なろうとは……まさに、内憂外患だ……」

「魔王様! しっかりなさってください!」

「ば、ばかもの! 揺らすなっ!! 出てしまうではないか!!」

「こ、これは失礼いたしました!」

 魔物は慌てて魔王から離れた。

 周囲を見回し、テーブルの上にある調度品の花瓶を見つける。

「ちょうどよいものがありました。これをお使いください」

「お、おい、まさか……」

「他に方法はありません。私は後ろを向いていますから」

「いや、しかし……!」

 その時、別の魔物がやって来た。

「報告いたします。勇者たちは迷路の攻略をあきらめ、引き返しました」

「本当か!?」

「確かな情報です。仕掛けを攻略することができず、今日のところは引き返すことにしたのでありましょう」

「そ、そうか……!」

 魔王は安堵した。

「では部下たちに伝えよ。引き返す勇者は追うな。道を開けて、すみやかに城外に出られるように、と」

「承知しました」

「よ、よし。では我々も行くぞ」

 広間を出た魔王は内股ぎみに迷路を逆進した。

 部下からは逐次勇者の状況に関する報告を受け、引き返す勇者一行に追いつかないように歩みを調節する。

 トイレは1階の奥、エントランスから枝分かれした先にある。

 その構造上、勇者たちが城外に出なければトイレにはたどり着けない。

(頼むぞ、勇者どもよ。寄り道せずにすみやかに来た道を引き返してくれよ)

 のろのろと歩むこと数十分。

 とてつもなく長く感じる時の末に、魔王はついにそこに至った!

(危なかった……あと5分遅れていたら洪水になるところだった……)



 天にも昇る解放感を味わいながら、魔王は誓った。


 必ず勇者を葬ってみせると。


 そしてお手洗いは事前に済ませておこう、と――。   



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る