第15話 平癒

 退院してから一ヶ月後、新田はお茶の水の大学病院に向かった。癌の浸潤状態や今後の治療方法を告げられるのである。外科外来の窓口で手続きをした後、控室に通された。すでに二十人ほどの患者が、控室の長椅子に腰掛けていた。大学病院だけあって、診察室は十五部屋ほどもあった。新田は、長く待たされることがわかっていたため、鞄から本を取りだして読みはじめた。どの患者も深刻そうな顔をしている。ひとりずつ名前が呼ばれて診察室に入って行った。新田の隣に座っていた、五十代と思われる男性の名前が呼ばれた。まるで、人生に疲れ果てた老人が歩いて行くように診察室に向かって行った。同時に三人の若い女性が、その男性に付き添って診察室に入った。たぶん、彼女たちはその男性の娘なのだろう。雰囲気からしてかなり重篤じゅうとくそうであった。新田はその男性の患者よりも、むしろ三人の若い娘に関心があった。これが本来の家族の在り方なのだろうと、新田は寂寥せきりょうを感じていた。


 一時間くらい待たされただろうか、新田の名前が呼ばれた。診察室に入るとなかで待っていたのは執刀した医師であった。医師の緩んだ顔貌がんぼうから軽度の癌ではないかという希望を抱いた。


 医師は、はじめに顕微鏡検査の結果について説明した。


「癌は筋層まで浸潤していませんでした。リンパ節にも癌は転移していません」


 新田の全体重が、座っている椅子にかかると思われるほど緊張がほぐれた。そして新田は、あらかじめ用意していた質問を医師に問いかけた。


「ステージはいくつですか?」

「ステージ一です」

「他の臓器に転移する可能性はどれくらいですか?」

「ほぼゼロです」

「食べてはいけないものはありますか?」

「何でも食べられます」

「酒は飲まない方がいいですか?」

「飲んでかまいませんよ」

「……」

「もう癌のことは忘れて、今までの生活に戻りなさい」


 医師のこの説明に少し気落ちした。新田は、生活習慣についてのアドバイスを医師に求めていたのである。


「念のため今後五年間、年一回検査をします。血液検査とエコー検査、それと内視鏡検査を行います」


 次回の診察日を予約して新田は診察室を出た。受付に頼んでおいた保険会社に提出するための診断書を受け取ると、何度も何度も眺めた。診断書に書いてある医師の字は、拙劣でよく読めない。どうして医師は、診断書にわざわざ読めない字を書くのか前々から不思議であった。帰る途中、三省堂書店によって大腸癌についての医学書を読みながら、暗号を解読するように診断書に書いてある医師の文章と見比べた。その結果、ステージ一のなかでも軽い方であることがわかったのである。


―助かった―


 新田は、こころの中でそう呟いた。

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