第2話 兆候

 その広告会社では、年に一度健康診断が行われる。場所は新橋の一角にあるビルの四階にあった。ビルの入口にクリニックの看板が掲げられていなかったので、新田はクリニックにすぐたどり着くことが出来なかった。そこは健康診断を専門に扱うクリニックで、一般診療は行っていなかったのである。四階にあがって控室に入ると、他の会社の社員と思われるひと達が、長椅子に腰掛けて閑談かんだんしながら順番が来るのを待っていた。新田の会社の社員はひとりもいなかった。業務に支障をきたさないようにするため、半日ごとに人数を割り振っていたのである。検査内容は、これまで勤めた会社の健康診断と比較してもかなり精密なものであった。


 クリニックから検診報告書が届いたのは、検査を受けた日から一ヶ月後のことである。内容を見てみると要注意・要精密検査と記載されている。一つは尿酸値にょうさんちが基準値を上回っていて、痛風つうふうになる可能性があること。もう一つは血便があるという指摘であった。


 検査結果の通知を受けたあと、クリニックから執拗に再検査の依頼が来たので、やむなく新橋に向かった。血便は便秘の時によくでることであったし、以前も血便で精密検査を受けたことがあったのだが異常がなかったため、新田は特に気にしていなかった。むしろ、痛風にかかることを気にかけていた。


 尿酸値については飲食についてのアドバイスを受けて、血便については大腸のバリウム検査を受けてから会社にもどった。


 二週間ほどたった頃、クリニックから再度必ず来院するようにと、しつっこく連絡が入った。


 翌日の午後、クリニックに伺うと医院長の診察室に通された。医院長はバリウム検査のレントゲン写真を新田に見せて説明した。


「ここ、見えるでしょ。ちょっとギザギザしたところがありますよね」


 そのレントゲン写真を見ると、確かにギザギザしたところがある。


「他のところと比べてみて。正常であれば、このようになめらかな曲線を描いているものなんですよ」


 新田は、医院長に尋ねた。


「どういうことですか?」

「癌の可能性があります」


 一瞬、新田の神経の末端までが戦慄せんりつした。


「癌の可能性はどれくらいですか?」

「九十パーセント癌の可能性があります」

「……」


 新田は言葉がでてこなかった。


「幸い、軽度のようです。紹介状を書くので、明日にでも大学病院に行ってください」


 医院長は、王貞治が内視鏡ないしきょうで胃癌の外科手術を受けた時のことを新田に説明した。


「現代医学はとても発達しています。腹腔鏡手術ふくくうきょうしゅじゅつという方法があります。開腹しないで内視鏡を体内に入れて、外部で操作して手術を行う方法です。この方法だと術後の負担が少ないし、傷跡もほとんど残りません」

「そうですか」


 と新田は答えた。「そうですか」という言葉以外の言葉が思い浮かばないのであった。


「お茶の水の大学病院に、大腸癌について日本で五本の指に入る名医がいるので、そこでいいですか?」

「あ、はい、お願いします」


 新田は、紹介状とバリウム検査のレントゲン写真を受けとって帰路についた。電車に乗っている間、頭のなかは真っ白だった。何も考えたくはなかった。見渡す限りの景色がすべて白黒に見える。気がつくと、渋谷駅周辺をふらつくように歩いていた。談笑だんしょうしている女子高生。手をつなぎながら歩いているカップル。幼児の手を引いているいかにも幸せな母親。自分以外のすべての人間が、幸福なのだと新田は思った。

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