思い出、彩り。

かぐや

思い出、彩り。

「拝啓、あなたの見る世界が、どうか光に満ちた温かい世界でありますように——」



 私は今、ほんの一年足らずの間だけだったが、家庭教師をしてくれたリョウコ先生との思い出に耽けながら、手紙を綴っている。


 先生は今、どうしているだろう……。



 漫然とした空虚な日々を過ごす中で、私にはほのかな楽しみがあった。

 週に一度、夕方になると呼び鈴を鳴らしてやってくる、家庭教師のリョウコ先生の存在だ。

 大学生にしては大人びていて、でも化粧っ気が無く、服装もきまってシンプルなTシャツにジャケット、ジーパン姿で、無造作に伸ばした髪。

 

 それでも気後れしてしまうほどに綺麗で大人びているその姿に、いつも見惚れてしまう。

 斜めから差し込む橙色の陽光をカーテンで遮り、お決まりのように、先生に今日の香りの好みを聞く。

 

「先生、今日はどれがいいかなぁ?」

「ふふん。今日の気分はシトラス系かな。よろしくっ」


 先生の笑顔にこちらもほくそ笑んで、相槌を打つ。手に取った小さなガラス瓶をゆっくりと開けると、ほのかに熟したオレンジやライムの爽快な匂いが広がった。

 「嫌なことをするときは、気分良くいなきゃね」と、先生は得意げによく言うが、賛成だ。

 でも私にとっては、いつも一瞬でその場の空気をさらっていくリョウコ先生の茶目っ気が、うじうじと悩みがちな気分を晴らしてくれる。


 ――ほんとに、ずるい。

 

「アカネちゃん。あと半年ほどで受験だから、そろそろスパートかけなきゃね。私と同じ大学に行くんでしょ」

 

 先生はいつも構えてなくて自然体で、無色透明の存在のよう。まるで私とは正反対だ。

 最初は、人見知りや遠慮をしないさっぱりした立ち振る舞いに面食らっていた。

 私の周りにはいないタイプで、どう受け答えしていいかわからなかったこともあり、先生からの質問にはいつも受け身がちだった。

 でもあるとき、先生は言ってくれた。


「アカネちゃんってさ、頭の中いつもぐるぐるしてるでしょ?」

「えっ?」

「ふふん。図星だ!」 

 いつものように、憎らしい笑顔を振りまいてくる。


「そ、そんなことないよ。ふ、普通だよ、普通」

 動揺を隠せていないのは、自分でもわかる。

 

「どうしていいかわからなくて、悶々としてる感じ。ん、悩んでるーって顔してるよ」

 窓の外を見ながら真剣な顔で話しているかと思ったら、すぐにいたずら顔でこちらを覗き込んでくる。


 他人のことに興味なんてなさそうなマイペースな人だと思っていたし、そんな距離感が心地良かっただけに、意外な一面に面食らった自分がいた。

「――とりあえず今は、吹奏楽部で頑張ってるコンクールの練習があるし」

 

 勉強の間は無駄話をあまりしない先生が、今日はそんな素振りも見せず、嬉しそうに続ける。

「私は、やりたいこと、あったよ?」

「やりたいこと?」

「そう。……夢に終わった夢、かな」


 目を細めながら、懐かしそうな口調で、でもどこか悲しげな様子もうかがえる。

 少し無音の時間が過ぎた後、遠くの方で通り過ぎるバイクのエンジン音がこだました。

 

「アカネちゃん見ていてね、なんかこう、ウズウズするの」

 机の上に置いてあったクッキーを手に取ってひとくち食べたあと、こちらを見ながら先生は続けた。


「受験勉強頑張らなきゃーとか、友達の間で流行ってるゲームとかコスメとか頑張ってついていかなきゃって。……ん、なんかね、物足りないんだろうなって見えるの」

「だって、受験頑張らないとだし、それに家庭教師がそんなこと言っていいの?」

 思わず二人して、クスッと笑う。

「今は、先生としてじゃないよ。うまく言えないけど、やりたいこと、我慢しなくていいのにって思ってね」


 それから先生は、高校生の頃のことについて語ってくれた。

 何度も何度もオーディションに挑戦しては落ちる日々で、高一のときも、高二のときもダメ。

 最終選考まで進んだ高三の夏も、やっぱりダメで。


 歌手になりたくて本気で挑戦したけれど、壁は高くて、東京からの帰りの新幹線では、いつも不安で押しつぶされそうになっていたこと。


 ――なりたい何者かになれるんだろうか。


 そう思ってはまた、不安に襲われてしまっていたこと。

 結局のところ、誰かに認められたいとか、褒められたいとか、それらを大事にしすぎていて、全力で楽しんでいたときのことをすっかり忘れてしまっていたこと。

 気がつけば、受験とか忙しいとかを言い訳にして、逃げるようにやりたいことを遠ざけて、諦めていたこと……。

 

 「もしもアカネちゃんの中に、全身で向き合いたいと思う何かがあるなら、やってみてほしいな」

  ふわっとした言い方なのに、重みがある。

 今の私には、明確にやりたいことなんて言えるものはないけれど、先生は、私が何か物足りないようなふうに見えると言う。

 受験勉強とか、別に自分から好きでやってるわけじゃないけど、やらないといけないから頑張っている……。

 でも、本気になれていないのは、先生の言うとおりだと思う。


 私には、何があるだろう……。


 あまりこうしたことを言うのが得意じゃないのがわかる。

 我に返ったようにひととおり言った後で、先生はどことなく照れくさそうな表情を隠すように、「さ、勉強するよ!」といつもの先生に戻っていた。

 


 帰り際、玄関先で何気なく先生に告げた。

「先生、吹奏楽部での最後のコンクール、よかったら見に来て」

 

 振り返って、笑顔でうなずいてくれた。

「じゃあね」

 

 押しつぶされそうな不安でいっぱいのコンクール。

 昨年の失敗をずっと引きずっていて、そのときのことが今でも脳裏を反芻する……。



 台風が近づく中、朝から外は荒れ模様だ。

 湿気も強く、せっかくの日だというのに、コンディションは最悪だ。

 

 それでもお構いなしに、定められた時間はやってくる――。

 

 控室で顧問や部長の檄が飛ぶ。

 緊張からか、遠くの方でかすかに聞こえるほどで、ほとんど耳に入って来ない。

 リョウコ先生は、来てくれているだろうか。


 お願い、先生……。


 

 ――ゴクリ。

 

 

 指揮者の部長が、力強く両手を掲げて、一人ひとりを見つめてくる。


 あぁ、始まるんだ……。


 息を飲み、思わず手に力が入る。

 汗ばんだ手がすっかり冷え切っていて、サックスの重さを感じる余裕もなかった。


 次の瞬間、静まり返った会場の空気が一気に変わった。


 フルートの静かな音色とともに始まる。

 木琴(シロフォン)が続き、そしてクラリネットたちが優しく続く。

 ゆっくりと、フルートが力強くみんなを先導して音色を響かせ、呼応するようにサックスやトランペットたちが後を追う。

 合図を轟かせるシンバルや大太鼓が、会場を飲み込むかのようにこだまする。

 一気にテンポが加速し、徐々にボリュームも最大へと近づいていく……。

 

 そしてサックスの最大の見せ場。

 木管楽器や金管楽器をメインとしたピークの瞬間。

 ここぞとばかりに全身全霊でサックスに想いを詰め込む。


 渾身の力を込めて吹いたせいで、気が飛んでしまいそうだ……。

 

 ピークを過ぎ、集中が切れたほんのわずかの間に、目線を感じ、思わず対角線上の客席を見てしまった。

 かすかに目に映ったその姿は、溢れんばかりに大粒の涙を流して嗚咽しそうになっているリョウコ先生だった。

 冷静で余裕のあるいつもの先生でない様子に動揺してしまった私は、すぐに指揮者へと目を遣った。



 残響が、優しく会場にこだまし、遅れて客席側から多くの拍手が聞こえてきた。

 



 あのコンクール以来、先生とは会えていない。

 大学での実験や研究が忙しいからと、以前から時折、しばらく休みになることがあった。

 でも今回は少し感じが違う。

 これまでは一週間ほど前から言われていたが、今回は突然、当日に電話で言われた。



「ごめんね、急に。どうしても外せない急用ができちゃって――」


 

 詳しくは言ってくれなかったが、そろそろ就職活動か何かなのかなと思った。

 

 東京にでも、行っているんだろうか……。


 「先生から、アカネ宛てに手紙が来ているわよ」 

母にそう言われてすぐに階段を降り、手紙を受け取った。手紙には、知らない郵便局の消印が押印されている。やっぱり、どこかに行っているんだ。


 リョウコ先生、会いたいよ……。


 封を開けると、ほのかにラベンダーの香りが鼻を通っていく。

 手紙と一緒に入れられていた、文香の香りだ。

 手紙には、直筆で紙いっぱいに書かれていた。


 「拝啓、あなたの見る世界が、どうか光に満ちた温かい世界でありますように——」

 

 先生らしくない書き出しだ。それでもすぐに、私の涙腺をくすぐってくる。

 

  アカネちゃん。照れくさいけど、きちんと冷静に伝えたいと思ったので、あえて手紙という形にしたためました。

  私のことなんて、アカネちゃんに言うことではないのかもしれません。

  でも、アカネちゃんが私に見せてくれたように、きちんと私なりに伝えたいと思っています。

 

  最初に……突然いなくなってごめんなさい。

  私は今、東京にいます。

  勝手ながらですが、家庭教師を辞めさせてください。

  アカネちゃんが受験を控えているのをわかっていながら、身勝手な私をどうか許してください。


(中略)

 

  前に少し言ったことがあったかと思います。

  私は、歌手になりたいと思っています。

  一度は諦めた夢。

  もう過去に置いてきたと思っていた夢。

 

  でもね……、諦め切れなかった。

  一度夢を諦めたときからずっと、心にぽっかりと穴が空いていたみたいに、これから何しようかなと思っても、何も手につかなかった。

  ほんのつい先日まではね。

 

  アカネちゃんが悪いんだよ?

  アカネちゃんのあの演奏を見て、アカネちゃんのあの真剣な目を見て、私は決心がつきました。

  夢を諦めたはずが、ずっと心にしこりとして残っていて、それを見ないようにしてたんだって気づいてからは、もう迷いが晴れました。

  ちゃんと自分の夢と向き合おうって。

  挑戦しないうちから結果がどうなるかなんて誰にもわからないし、ぶつかって気持ちよく散るのもいいかなって。

 

  そしてもう一つ。

  アカネちゃん。

  やりたいこと、見つけてね。

  ううん、もう見つけているのかもしれないね。

  アカネちゃんの中で、誰にも譲れない、譲りたくない本気のものをね。

  あの真剣な目をできるアカネちゃんなら、きっと大丈夫。

 

  あなたの作る世界が、きっと彩り豊かな世界になると信じて。 敬具

 

 

 頬を伝う涙が少し、こそばゆかった。

 寂しいという気持ちと同時に、どこかすっきりした気持ちの自分がいた。

 

 ――前向いたんだね、先生。


 私の吹奏楽生活は、先日のコンクールで終わった。

 今はただ、目の前の受験勉強に向き合ないといけないけれど、それとは違う一足先を見つけられた気がする。

 私の全身全霊を捧げられるものを。



 しんしんと降るぼた雪が、屋根瓦を濡らしては、徐々に積もっていく。

 温かいコーヒーの湯気が、メガネを曇らせる。



 ――拝啓、あなたの見る世界が、どうか光に満ちた温かい世界でありますように。


(中略)


  先生、いつの日か、ステージ楽しみにしてます。

  先生のファーストライブチケット、誰よりも先に予約しておくね。

  いつになっても、絶対見に行くから。 敬具

 

 追伸 大学受かったよ、先生。  アカネより

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思い出、彩り。 かぐや @KAGUYA0111

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