もうこどもじゃないから

真矢野優希

もうこどもじゃないから

「わたし、唯衣さんのことが好きです」

 かんかららん、と手からこぼれ落ちたビール缶が床を転がる、そんなイメージを抱いた。あれ落としてないよね? と思わず右手を見る。掴んでいたのはエアコンのリモコンで、じゃあ大丈夫かー、と口元まで持っていきかけて「違う違う」曖昧に笑ってテーブルの上に戻した。その間、隣に座る遥乃は真剣な眼差しでずっと私を見つめていた。見ないで。

「………………」

「………………」

 静寂を埋めるようにエアコンがごぅんごぅんと重苦しい音を立てて冷気を吐き出していた。蝉の鳴き声が喧騒から切り離されたように遠くに聞こえる。太陽はまだ高い位置にあるけれど、室内に届く光はカーテンに遮られて目を眩ませるほどではなくて、海の底にいるみたいな仄暗さを感じる。だから余計に、マンションの自室で遥乃と二人きりであることを意識してしまう。

 遥乃は、従姉妹だ。

 母の、姉の、娘。

 つい先日、二十歳になったばかりで只今絶賛飲酒中。しかも昼間から。悪いやつだ、まぁそれは私もなんだけど。

 それは別に気に留めることではないのだけど、そんな遥乃の発言の方が私にとっては大問題だった。

 好き。

 好きぃ?

 背中を伝う汗が緊張か、寒さによるものかわからない。

 心臓が脈打つ音がすぐ近くで聞こえる。どんどっとっと、って跳ねるように、唄うように。それは私か、それとも遥乃のものか。どちらのものかなんてわからないし、わかったところできっと意味はない気がした。

 燃えるような熱を持った耳の感覚と、桜色に染まった遥乃の頬を見れば答えは明白なのだから。

 とりあえず、こほん、と一つ咳払いをして聞いてみる。何事も確認は大事だ。

「私も、はるちゃんのことは妹みたいに思ってるよ?」

 十も歳が離れていれば自然とそういう目線になる。私自身、兄弟姉妹の類いが居なかったからなおのこと。

 だから、遥乃の言う「好き」が親愛の域にあるものか確かめる。

「やったー嬉しいーお姉ちゃん好きー」

 声に抑揚を感じさせないまま言って、遥乃が無邪気に頬を肩に擦り付けてくる。こういうのは、まぁ、その、従姉妹ならよくあることで流してもいいと思う。従姉妹ならセーフ。家族愛ってステキ!

「って、違います。ちーがーいーまーすーぅ」

 擦り付けてくるのを止めてぐい、と遥乃の顔が近づく。うひゃあ、と思わず仰け反ってしまった。

 花みたいな香りとアルコールの匂いが混ざって心が落ち着かない。首の後ろあたりがざわざわする。それは遥乃だから余計に。

 見つめられると遥乃の熱が移ったように顔が熱くなる。

 その好意を直視できなくて目が泳ぐ。テーブルの上に散らばった空き缶やお菓子の袋、床に落ちた読みかけの旅行雑誌なんかが視界の端に留まる。後で片付けなきゃいけない、なんて冷静なフリをして余計なことを考えなければ、遥乃の言葉をまともに受け止められる気がしなかった。

 そうやって無理やり空けた脳内スペースでさっきの言葉を反芻する。

 唯衣さん。

 私だ、私のことだ。

 私を、なんだって……好き?

 えぇー。なんで? どういう?  

「………うわっ」

 いつのまにか鼻と鼻がぶつかりそうになるくらいまで遥乃が近づいてきていた。遥乃の吐息が唇に触れて、背筋がぞわっとする。恥ずかしいような、目を背けたくなるような、そんな後ろめたさに満ちたものが頭の後ろを引っ張っていた。

 慌てて遥乃の口元を手で押さえて押し返そうとする。酔った勢いでキスなんてしてしまったら……私はともかく遥乃はどう思うのだろう。私が相手で良いのか? でも好きだって言ってくるくらいだし、大丈夫? いやいやそういう問題じゃないだろう。

 私、女。遥乃も、女。それに第一、従姉妹というのが一番の問題じゃないのか。

「んむーっ」

 ぱたぱたと遥乃が両手で宙を掻く。年齢にそぐわないその子供っぽい姿に少しだけ懐かしさを覚えて頬が緩む。酔っても歳を重ねても、そのわんぱくさは昔と変わらないようで安心し、

「がうっ!」

「わわわっ」

 感慨に浸っていたら突然遥乃が手に噛みついてきた。なんだこいつわんぱくにも程がある!

 前言撤回。やっぱりそのわんぱくさは幼少期に置いてきてほしかった! 甘噛みだったのがせめてもの救い……になるのかなぁコレ。

 そして私が怯んだのを遥乃は逃さなかった。

 手首を掴まれる。ひぇっ、と空気の漏れる音が喉の奥からした。勢いに負け、重心が支えを失ったように背中側へと崩れる。

 手が冷たいな、ってとっ散らかりそうになる意識の中でそんな感想を抱いた。

 そのまま流れるようにソファに押し倒される。

 遥乃の垂れた髪が顔にかかって花のような香りがより一層強くなる。

 遥乃にぜんぶ、取り込まれそうになる。

「唯衣さん」

 間近に迫った遥乃からもう逃げられなくて、そしてようやく、本当にいまさら、遥乃の言葉の意味を理解した気がした。

 そういう「好き」なのか。

 感情が居場所を失ったように落ち着かない。

 ……不健全だと思う。

 大人として何か言わなくちゃいけないと思う。

 ぎりぎりと頭の横が締め付けられるように痛んで、そのまま割れてしまえば、きっと。

 こんなことに悩まされなくて済むんじゃないかって思う。

 だけど。

 けれど。

 そんな一般論で誤魔化してしまうのはどうなんだ、って心が訴えていた。

 想いを向ける先が間違っていても、その想いを抱いたこと自体は、決して。

 間違いなどではないのだから。

 これ以上目を逸らすのは遥乃の真っ直ぐさに応えるには不誠実な気がして、だからおずおずと遥乃を見つめ返す。

「……………………ぁ」

 綺麗だな、って。

 素直にそう、思った。

 肌の艶とか淡い唇とか桜色の頬とかミルクティブラウンの髪とか顔の形、鼻の高さ、垂れがちな眉、私だけを見つめる瞳。

 全部引っくるめて、綺麗だな、って思った。

 夏の夜空を見上げているようで。

 眩しく、遠くにあるはずのものがいま、目の前にあった。

 その熱が、光が、サーチライトのように私を照らし出す。

 目を背けたいのに、その眩しさに魅せられてしまって目が離せない。

 心臓が身体を突き破りそうなほどに躍動する。

 ざぁぁぁ、と雨粒が地面を叩くような音が耳の奥で鳴る。

 歓喜にも似た衝動が全身を包み込んで。

 逃れられない、と熱に蕩けそうになる思考で悟った。

 だから。

「…………いいよ」

 私は、私自身を差し出すことを答えにした。

 うつくしいものに取り込まれるのなら、悪くない。

 遥乃の顔が迫る。星が流れ落ちるよりもなおゆっくりとした速度で近づいて。

 そして。

 ぽすん、と遥乃が私の胸に落ちた。そのままぐりぐりと谷間に顔を埋めてくる。

 大して高くもない丘陵の上に遥乃の顔があった。

「………………………………えっ」

 あれ、えっ、そっち? 

 な、なんでぇ? 

 予想外の出来事に冷水をかけられたように頭が冴える。真っ白になる。そして自分が想像していたことを今更のように思い出して一瞬で首から上が熱くなる。鏡を見れば真っ赤なトマトが目の前に映っている気がした。

 恥ずかしくてもう耐えられそうになくてあへへへぇと変な笑いがこぼれた。

 ……期待してた。

 期待してた。

 期待してた!

 年甲斐もなく馬鹿みたいに舞い上がっていや従姉妹相手なんだけどでも雰囲気的にそうだったじゃん期待しちゃうじゃん私間違ってたいや責任の転嫁とかいいからだけどあんな押し倒されてどうしろってでも綺麗だって思ったのは本当だし違う違わない違う違う!、いや、だってそもそも遥乃がヘンなこと言うから!

 思考が、視界が、ぐるぐるぐるぐると洗濯機のように回る。そのまま記憶も感情もなにもかも絞り出して纏めて全部、ぜんぶ、まっさらにしてほしかった。

「……唯衣さん」

 胸に顔を埋めたまま遥乃が喋りかけてくる。吐息が胸に当たってくすぐったい。

 足の指先や背中が別の生き物みたいにうぞぞぞと悶えて、意識しなければいまにも暴れ出しそうだった。

「唯衣さん」

 念を押すように名前を呼ばれる。

 返事の代わりに遥乃に視線を向けると、上目遣いでこっちを見つめる遥乃と交錯する。

「………………」

「………………」

 にらめっこでもしてるのか、ってくらいしばらくの間、お互いを見つめ合った。

 綺麗で、可愛くて、ずっと見ていられる気がした。

 その静止を破ったのは、やっぱり遥乃だった。

「……唯衣さん」

「……なに?」

「わたし、唯衣さんのことが好きなんです」

 聞いたよ。一番最初に。

「どうして?」

 問いかけて、身体の裡に熱が籠るのを感じる。

 人が人を好きになる理由を聞くのは何歳になっても嬉しさより気恥ずかしさの方が先行する。

 たぶん、それは。

 人との関わり合いに慣れていないから。

「……どうしてかは、その。言わなくちゃダメ、ですか?」

「ううん。言いたくないなら、言わなくても良いよ」

 むしろそっちの方が安心する。

 詳細を聞いてしまえば、炎天下にさらされたアイスみたいに自分を保てる自信がなかった。

「そ、ですか。……その、ですね」

「うん」

「わたし、唯衣さんのこと、めっちゃ、すごく、あの、すごく、好きで。ええと、いろんなことしたくて」

「いろんなことって?」

「た、たとえばその……手ぇ繋いだりとか、ハグ、したり、ちゅ、……ちゅ……ちゅーしたりとか、あと、その、え、えぇと……」

「えろいことだ」

「……ちっ、ちがいます! ぃや、違わな、……やっぱりなんでもないですぅ……」

 唯衣さんのイジワル、とでも言いたげに遥乃が真っ赤に染まった頬を膨らませる。

「……でも、そうやって、唯衣さんといろんなこと、もっとたくさん、したいし、知りたい……んです」

 一言一言、区切るように話す遥乃の声に小波を見る。嵐のように心を吹き荒んでいた感情はいまはその中心に取り残されたように落ち着いていた。

「そっか」

 いつの間にか自由になっていた手で遥乃の頭を撫でる。気持ちよさそうに身を捩る姿に昔飼っていた猫を思い出した。

 言葉を受け止めるのはそう難しいことではないと思う。

 輪郭をなぞり、見つめて、勢いよく飲み込む。味なんて、後から付いてくるおまけみたいなものだ。

 けれど問題は、その返し方。

 バッティングセンターで速い球はこんなにも速いんだ、ってことは誰でも理解できると思うけど。じゃあバットを振ってボールに当てて、自分が望む方へ正しく飛ばせるのか……そもそも打ち返すことができるのか? 打ち返すこと自体が正しいのか? って疑問が湧き水のように溢れて止まない。

 正しい繋がりを意識しようとすればするほど、返し方に迷い、戸惑い、思い悩む。

 だから私は人付き合いが苦手なんだ、と自分の心に閉じこもって目を瞑る。耳を塞ぐ。何も感じないように自分の内側だけを意識する。

 嵐が過ぎ去るのを待つように、じっとしていれば。

 いつか答えが見つかるような気がしていた。

 そう、信じていた。 

「……馬鹿みたいだな、私」

 昔にも似たようなことがあった気がする。

 遠い、淡い記憶の彼方。

 いつか、私が好きだった人。あの子の気持ちにちゃんと答えられていたら、向き合うことが出来ていたのなら、こんな想いを抱えずに済んだのだろうか。

 思い出と呼ぶにはまだ苦いそれを振り返って奥の歯で噛み締める。

 忘れられない味がした。

 忘れたくない味がした。

 だから今。

 かつての情景を導にして私は答えを選ぶ。

「はるちゃん…………ううん、遥乃」

 初めて遥乃を名前で呼んだ気がする。呼び慣れていなくて、どこか口の中で引っかかるような違和感があった。

 呼び続ければ、きっとその感触も失くなっていって。

 それが当たり前だと意識したとき、私は遥乃のことを好きと言えるようになるのだろう。

 その事実に感じ入るのは、ふとこれまでの道のりを振り返ったときのような寂しさ。

 それは変化していくことを、心のどこかで拒んでいる証なのかもしれなかった。

 それでも。

「私は」

 私は。

「きみといっしょに」

 遥乃の手を取る。

 手のひらを重ねて、指を絡めて、きゅっと握りしめる。遥乃と私の熱が混然となってその境界を曖昧にしていく。

 息を吸うと星の瞬きがすぐ近くで見えた気がした。

 言う。

「新しいものを見たい、って思うよ」

 それが、私の答え。

 遥乃への感謝とあいのことば。

 真っ直ぐ伝えることは慣れなくて、だから少し遠回りした言葉を選ぶ。もう子供じゃないから、それくらいが丁度いいと思えた。

 言葉に含まれるものに意味を、価値を、幸せを見出すことが、人が大人になることだなんて誰が言ったのだろう。

 相手の気持ちを察することなんてできない。

 理解することなんて尚更。

 言葉だけでも、行動だけでも、それ単体ではきっと伝わらなくて。

 だから欠けたものを擦り合わせるようにして、私たちは一つになっていく。

 捻くれて、迂遠で、どこまでも不器用だから。

 それが、いまの私にできる精一杯の好意の表し方だった。

 静寂が部屋を包む。その中で自分の心臓の音だけが妙にうるさい。声を出すのも躊躇われて、時間が隙間を埋めるように過ぎていくのをただじっと待った。

 待って、待って。

 ……待って。

「…………あの、遥乃、さん?」

 さすがに返事がないと恥ずかしいというより怖いという気持ちが先行し出していた。

 遥乃の表情は私の胸に顔を埋めたままだから窺い知れない。

「─────ぅ」

「…………っ」

 息を吸う音に身構える。なにが来ても……それこそいきなり顔をばっと上げられても大丈夫なように。

 そして。

「───────すぅ」

「………………………はい?」

 そうして待ち構えていた私を出迎えたのは。

 遥乃の穏やかな寝息だった。

 ………………………。

 ………………………。

 ………………………あー、その、なに。

 思考が、視界がぐるぐる以下略。

 ぼぼぼ、と火でも点いたみたいに首から上が一気に熱くなる。それまで考えないようにしてきた家族とか世間体とかそういった一般常識とさっきまでの自分の心情を思い出して、殊更熱が上がる。不整脈にでもなるんじゃないかってくらい感情の振り幅が激しく上下に揺れる。

「あああああおおあぅぅぅぅぅ」

 ぬああああっていますぐ床を右から左へのたうち回りたい。それかその場でぐるんぐるん回りだすか。

 どちらも遥乃が私の上で寝ているから出来ない。生殺しかよ。

「えーー……うそぉ、いつからぁ」

 疲労感にも似たものがずずーんと両肩に乗った気分だった。大きく息を吐き出せば、そのまま魂まで一緒に抜けていってしまいそうになる。泡でも吹いて倒れるのとどちらがマシだろうか。

 確かにちょっと静かだなぁ、とは思っていたけどさ。

「寝て……寝てるのかぁ……」

 一世一代ともいえる告白は遥乃に届いていなかった。……かもしれない。

 悲しい、つらい、その他諸々気分が沈む言葉を口にするのは簡単だけど。

 感情はまだ、そこまで追いついていなくて。

 整理、しきれてなくて。

「これでよかったのかなあ」

 ぽっかり空いた穴に放り込むように問いを投げかける。覗き込めばどこまでも落ちていけそうなほどに深く、暗い。返ってくるものは当然無くて、だからそれが余計に胸の内を掻き立ててくる。

 それでも、きっと。

「……そう信じるしかないよね」

 これでよかった。やるべきことはやった、と。信じるしかないのだった。

 そうして伝わったものが少しでもあればいいと願う。

 一方的に受け取ってしまって、こちらから何も返さない、というのも不誠実な気がするし。

 外から差し込む光が茜色に染まるのを眺めながら、そんなことをぼんやりと思う。

 暮れる夕陽に重ねるように、ゆっくりと瞼を閉じる。

 少し眠って。起きて、目が覚めたら。

 いつもと違う朝が来るのだろうか。

 

 



「…………コーヒーだ」

 視覚より先に嗅覚が覚醒を促していた。匂いにつられて、くるまっていたタオルケットからもぞもぞと這い出る。欠伸と一緒に眠気を吐き出すようにしてゆっくりと伸びをする。ソファで眠ってしまっていたからか身体のあちこちが鈍く痛んだ。

 カーテンの隙間から朝を告げる白い光が差し込み、鳥のさえずりとわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわ「うるさっ」元気な蝉の鳴き声が聞こえてくる。今日も朝から夏は元気いっぱいだった。

 息を吸うとまだ夜の名残りみたいなものが肺を涼やかに満たす。あと数時間もしないうちにこの冷涼な空気がまとわりつくような熱気に変わると思うと、少し、いやかなり気分が盛り下がるけれど。

 ともあれ鼻腔をくすぐる芳しい香りは確かにコーヒーのそれだった。しかし、ううむ、なぜ? という疑問が頭に浮かぶ。

 考えて、ぼんやりした頭で台所へ顔を向けて。

 そこでようやく答えを見つけた。

「あっ、おはようございます唯衣さん。……その、冷蔵庫とか、ちょっと他にもいろいろ借りちゃいましたっ」

 遥乃がいた。それはまぁ、いいのだけど。

「…………エプロンだ」

 朝起きたら十歳下の従姉妹がエプロンを着て台所に立っていた。事実を羅列しても、理解は言葉の表面をなぞるばかりで意味を認識しようとしない。

 つまり、うーん、意味わからん。

「えっと、変、ですかね……?」

「いや、その、変とかじゃなくて、むしろ似合ってるというか、なんというか……」

 もごもごと言いたいことが口の中で詰まる。

 素直になれない小学生男子か、私は。

「かっ、かわぁ、……いいんじゃないかなうんすごく」

 うんうんあははと早口で誤魔化す。赤くなる耳の熱を自覚するととても目を合わせて話せそうになかった。

 よかったあ、と顔をほころばせる遥乃を横目で窺う。

 遥乃は覚えているのだろうか、昨日のことを。

 酔ったときの記憶が残るタイプか、そうじゃないか。確認してみるのは簡単だけど、その後のやり取りを考えると気軽に聞くのは墓穴を掘りそうで怖かった。

 だって冷静に振り返ると色々ヤバいし。

 しかし、エプロン。エプロンか。家にあんなものあったっけ? 思い出せる範囲で記憶を漁るけど、一向にその姿を見つけることはできない。

 だとすると遥乃が持ってきたってことになるんだけど。

 こういうのは用意周到と言うべきなのか。それともマッチポンプ? 適切な表現が見つからなくて少し、……いや全然困らないのだけど。

 そんなマッチ売りな少女こと遥乃がとててとリビングを横切る。

「あ、あの……唯衣さん」

 カーテンを掴む遥乃の手が揺れる。

「昨日の! ことなんですけどっ」

 思わず背筋が伸びる。

「実は……途中からあまり覚えていなくて、ですね。で、で、気づいたら唯衣さんのお腹の上で寝ちゃってたっていうかなんというかですねええと」

 後半が早口になるにつれて遥乃の背中も小さくなっていくように錯覚する。髪の隙間から覗く小ぶりな耳が朝の薄暗さでもわかるくらい真っ赤だった。

「へ、変なこととか言ってないですよね、わたし!?」

「変なことって?」

「う、ぅぅ……それはぁ……」

 ハグしたいとかちゅーしたい、だろうか。

 一般的に見ればおかしなことかもしれないけど。

 なんていうか私は。そういうものを受け止められる土壌が既に出来上がっていたのだった。

 いつか、その辺りのこともちゃんと話せる機会があればいいのだけど。

「なんてね。冗談だよ、別に変なことなんて言ってなかったよ」

「ホントですか……?」

「もちろん」

「ホントにホントです?」

「うん」

 カーテンに隠すようにして小さくガッツポーズをするのを私は見逃さなかった。

 というかこのまま、遥乃の、私への好意が筒抜けな状態で、しかも私はそれに気づいていないフリをしてこれから過ごさなければならないのか。

 実は遥乃の気持ち聞いちゃったんだ、と言うのが色々と近道なのかもしれないけど。

 けれど、その為に置いていくもの、見ることのない景色があると思うとどうしても言い出せなくて。

 そんな不自由さを選んでしまうことが、いまの私の遥乃へ向ける気持ちなんだと思った。

 背負った荷物を下ろしたように、軽やかに遥乃がカーテンを開けると朝が部屋を白く満たす。

 逆光に映る遥乃の姿に眩しいな、って思った。

「大きくなったね、ほんと」

 背丈のこと。

 考えてること。

 いつしか子供だと思っていた子が、いつの間にかもう一人の大人になっていて。

 そのことが嬉しいような、寂しいような。そんな矛盾した想いに心が満ちる。

 けれど今は、それが少し心地良いとも感じるのだった。

 光を見つめるような私と遥乃の視線とが交錯する。

 しばしの間見つめ合って。

 そうして遥乃は嬉しそうに相好を崩すのだった。

「もう二十歳ですから」

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