第73話 元女神ミスト

 友人達に俺の事情を話したことで、ホッとしつつも、皆を巻き込みたくないので、どうにか元女神とチェルシー・ダフニーを遠ざける方法がないかなと考える。

 話してから既に三日が経ち、今日は魔法学園は休みだ。

 友人達に話した日、皆と別れた後、その足でタンジェリン学園長の元へ行き、同じく説明した。

 俺の事情を何となくだが、察していたらしい伯母になるはずだったタンジェリン学園長は、ここ数日、溺愛が重くなった。巻き込まれまくっている俺を哀れんでいるようだ。

 更に魅了魔法を可視化する魔導具を作るために、妖精の鱗粉を貰えないか相談すると、すぐに貰えた。

 その妖精の鱗粉からの妖精王の鱗粉という、とても貴重な素材を含めて、バイコーンの角、セイレーンの涙からの水の精霊王の魔力が込められた水、聖の精霊王の魔力を宿した魔石、禁書から書き写した魅了魔法を可視化する魔導具の作り方をサイプレスに渡した。

 ちなみに、冒険者ギルドに買い取ってもらったバイコーンは、かなりの金額で買い取ってもらえた。

 ハイドレンジアの話だと、冒険者達が迷惑を掛けたことによる謝罪も込めて、ギルドマスターのヒュアランが色を付けたそうな。

 そのお金は一緒に行った人数で均等に割り、渡した。皆にかなり恐縮されたが、俺としては皆も巻き込まれたのでそのお詫びだ。

 そして、そのお金は今のところ、使い道がないので空間収納魔法で収納された。使うとしたら、魔法付与用の魔石や今後、授業で習うはずの魔導具の素材代等だろうか……。あとは、もちろん、愛しのウィステリアに贈るドレスやアクセサリーの費用だろうか。

 王城の南館の俺の私室で、父が相変わらず溜めた書類を捌きつつ、溜め息を漏らす。


『リオン、どうした?』


 俺の右肩に乗る紅が不思議そうに尋ねた。


「いや、相変わらず父は仕事を溜めるなぁ……と思って」


『良い笑顔でリオンが説教したのにな』


『……良い笑顔というか、冷ややかな笑顔の間違いじゃないかな。リオンの周囲、体感温度が氷点下だったよ。私は剣だから、寒くもなかったけど!』


 俺と同じくらいの年頃の姿の蘇芳が、何故か胸を張る。


「色々やらかしてるんだから、冷ややかにもなるよね、笑顔くらい。リアと結婚したら、俺はここまで仕事は溜めないし、迷惑を絶対に掛けないって心に誓ったよ」


『……うん、そうだね。リオンなら大丈夫だと僕は思うよ』


 鴇も蘇芳と同じ年頃の姿で、俺の机の左端に座り、苦笑しながら、書類の中身をじっと見つめる。

 鴇に何か気になるものでもあるのか、と声を掛けようとした時に、扉を叩く音が聞こえた。

 蘇芳と鴇が慌てて、元の剣に戻った。

 二人のその様子で、ハイドレンジア達ではないと察して、応答する。

 扉が開くと、入って来たのは思い掛けない人だった。


「ヴァル君、少しいいですか?」


 扉から桃花色の髪、淡藤色の目の女性がひょっこりと顔を覗かせた。


「義姉上? どうかしましたか?」


 いきなり義姉のアテナがやって来て、俺は目を瞬かせる。

 慌てて立ち上がり、義姉を私室へと招き入れ、ソファに座ってもらう。


「突然、やって来てしまって、ごめんなさい。どうしても、お礼が言いたくて」


「だからと言って、わざわざこちらに来られなくても……。手紙等で構いませんよ。または呼び出して下さい。今は無理なさって欲しくないです。義姉上は一人のお身体ではないんですよ。義姉上に何かあったら、兄上に何とお伝えすればいいか……。兄上はこちらに来られるのはご存知なのですか?」


 苦笑すると、義姉も苦笑した。

 今、義姉は兄との子がお腹に宿っている。

 妊娠して、大体五ヶ月くらいらしい。

 あの、社交界デビューパーティーから少し経ってから、懐妊していることが分かり、俺も一ヶ月前に兄夫婦から聞いた。

 安定期に入ったとはいえ、王城は色々な貴族がいるし、王太子の子供――後継者を亡き者にと考える者もいる可能性もあるので危険だ。


「心配掛けてごめんなさい、ヴァル君。少し歩かないと、体力が落ちるから出産の時に大変だもの。セヴィ様にはちゃんとお伝えしているので、大丈夫ですよ。セヴィ様ももうすぐこちらに来られますから」


「……それなら、いいですが。でも、これからお腹が更に大きくなるのですから、私に用事があるのでしたら、次からは呼んで下さい。私が伺いますから」


 俺の言葉に驚いたのか、義姉は目を瞬かせた。


「ヴァル君はセヴィ様より心配性ですね」


「妊娠、出産は命懸けと聞きますから」


 本当に命懸けだ。現に、毒と呪いとはいえ、俺は一度生まれる前に命を落としているし、今世でも母共々危なかったようだし。


「義姉上も生まれてくる子供も、元気でいて欲しいんです。叔父になる身としては」


 なので、一ヶ月前に教えてもらった時に、こっそり守護の権能を掛けている。


「ヴァル君。もう、叔父としての自覚があるのですか?」


「え? 兄上と義姉上がご結婚された時に、いずれ子供も生まれると思ってましたから、その時点で甥や姪の前では変なことが出来ないなとか、悪いことは出来ないなとは漠然と思ってましたけど」


 我ながら、早いとは思ったが、乙女ゲームで生まれるのは知ってたし。まぁ、この世界は乙女ゲームの中ではなく、似た世界なのは分かっているが。


「早過ぎませんか?」


「そうですか? 兄上と義姉上がご結婚されて、子供を妊娠、出産より、私とウィスティの結婚の方が遅いと思ったので、早過ぎないと思いますが……」


 首を傾げると、義姉が苦笑した。


「そうですね。セヴィ様とヴァル君は歳が離れてますからね。わたくし達の結婚、妊娠、出産の方が早い可能性はありますが、それでもヴァル君の叔父としての自覚は早いと思いますよ」


 くすりと笑って、義姉は口に手を当てた。


「……でも、嬉しかったです。ヴァル君がこんなにわたくしやお腹の子を心配して下さるなんて思いませんでした」


「えっ?」


 義姉の言葉に目を丸くする。

 心配するに決まっている。兄の妻で、義理の姉で家族なんだから。

 義姉の言葉の真意が分からず、続きを待つ。


「わたくし、ヴァル君に初めて会う前に聞いたヴァル君の噂のせいで、嫌われるのではないかと思っていたのです。初めて会った時以降もしばらくは警戒していました。だから、社交界デビューパーティーの時にセヴィ様とわたくしのことで、フォギー侯爵達にあんなに怒ってくれたヴァル君がとても嬉しかったのです。わたくしのことも家族と思って下さってるのだなと。だから、遅くなりましたけど、お礼が言いたかったのです」


 義姉の言葉に表情は変えないが、内心、混乱する。

 俺の噂って何? 我儘な俺様王子のこと? でもそれって、乙女ゲームの話で、実際のことではないと思うが……。

 初めて義姉を兄から紹介された時は俺が九歳で、兄は十七歳、義姉は十五歳だった。

 その前から兄と義姉は婚約していたが、俺がセラドン侯爵の関連で孤立した振りをしていたり、勉強したり、情報集めに追われていたのもあり、顔合わせが遅くなった。そのことだろうか……?


「義姉上は兄上から婚約者と紹介された時から、私は家族と思ってましたよ。良好な義理の姉弟関係が築ければいいなと思ってました。ところで、その私の噂というのは何ですか?」


「王城の南館で、ほとんど外出することもなく引きこもっているとか、メイド達が持って来た食事を摂らずに、専属の側近や侍女以外は気に入らずにすぐ解雇するとか。なので、気難しい方なのかと……」


 引きこもっていたのは、勉強や情報集め、孤立するように見せかけてたからであって、食事についてはメイド達が持って来た食べ物に媚薬やら毒薬が盛られていることが多く、食べる訳にはいかないし、そういった連中を解雇していたのだが、理由はと聞かれて、正直に言ってもいいのかと悩む。

 でも言った方がいいか。もしかしたら、兄夫婦の子供達にも、俺と同じように巻き込まれる可能性もあるし。


「あ、それは引きこもっていたのはヘリオトロープ公爵と勉強したり、当時で言うとセラドン侯爵達の情報集めをしていたからです。食事については、私の専属の側近や侍女以外が持って来た食事に媚薬や毒薬が盛られているので食べる訳にはいかず、未遂ではありますが王族に薬を盛っているので、捕らえたりした結果です。その話が噂で尾鰭とか付いて魚になったということですよね」


 とんだ風評被害だ。 


「媚薬に毒薬ですか……。それは大変でしたね。ヴァル君が大変な幼少期を過ごしていただなんて」


「あ、いえ、特に大変だとは思っていないのですが……」


 どちらかというと、今の方が大変なので。

 元女神とかチェルシー・ダフニーとか!


「そのことはセヴィ様や陛下方はご存知なのですか?」


「私からは話してないですね。ヘリオトロープ公爵やシュヴァインフルト伯爵、セレスティアル伯爵にはお伝えしましたけど」


 両親や兄に知られる前に、トップスリーがきっと暗躍したんだろうなと思う。弟子に甘い師匠達なので。


「ああ……ウェルドおじ様もヘリオトロープ公爵様達もヴァル君に甘いですものね……。ウェルドおじ様とセレスティアル伯爵様に娘がいらしたら、ヴァル君の妻にと思っていらしたようですし、ヘリオトロープ公爵様の一人勝ちでしたものね」


 義姉が頬に手を当てて、小さく息を吐いた。

 え、そんなことを考えてたのか、剣と魔法の師匠は。

 そういえば、確か二人共、息子しかいなかったはず。

 良かった。師匠達の謎の婚約者争奪戦にならなくて。


「ヴァル君を見ていて思いましたけど、これから生まれてくるセヴィ様との子供の安全面は、ヴァル君に相談した方が早い気がしますね。とてもすごく」


 にっこり笑顔で義姉に言われ、グサリと胸に刺さる。


「……ある程度の陰謀には大体、巻き込まれてますので、私で良ければ相談に乗りますよ……」


 こめかみを抑えながら、苦笑した。

 王太子より第二王子の方が狙われるって何でだろうな。兄が無事なら俺はいいけど。

 そこで、兄が義姉を迎えにやって来て、少し話した後、兄夫婦は南館から自分達が住む東館へと戻って行った。









「何だか、二人きりになったのって、久し振りな気がするね、リア」


 言いつつ、馬車の中で顔を赤くした愛しの婚約者を見つめる。それぞれの召喚獣がいますが、それはノーカウントで。


「あの、リオン様。桔梗ちゃんや紅さんがいますけど……。それに、いつも一緒に学園に通っているではないですか」


「……そこは真面目に返さないでよ、リア」


 でも、可愛いので、強く言えない。惚れた弱みだ。


「ここ最近、また色々あったから、何だかこういった穏やかな通学が久し振りに感じるんだよ。はぁ、早く終わらせたい……。どうしたら、終わるかな。いっそのこと、チェルシー・ダフニーと元女神を罠に掛けて捕らえた方がいいかな。それとも王族に対する不敬罪で捕らえて、元女神共々潰すか……? それとも、学園の死角でサクッとやるか……?」


「リオン様。とても物騒な言葉が色々、漏れてますよ……」


 ウィステリアが困った顔で、ぶつぶつと呟いている俺を窘める。


「あ、心の声が漏れてた。ごめんね。そういえば、リアは二年生になったけど、どう? 楽しい?」


「はい、とても! 一年の時もですけど、こんなに楽しく、充実した学園生活を送れるとは転生してから思っていなかったので、とても楽しいです。これもリオン様のお陰です。ありがとうございます」


 花のように綻んでお礼を言うウィステリアに、俺も微笑む。


「良かった。リアが楽しいなら、俺も嬉しいよ。前世を含めると、俺もほぼ初めての学園生活だから、楽しい。無条件でリアの側にいられるしね」


 ウィステリアの手を握ると、彼女の顔がすぐ赤くなった。


「リ、リオン様。あの、あまり誂わないで下さい」


「誂ってないよ。本音だよ」


「……本音だから、嬉しくて困るんです……」


 俺に聞こえないように、ぼそりと呟くウィステリアの声が聞こえた。無意識に、使ったことがまだない神の耳を使ってしまったのだろうか。


「……えーっと、リア? 何か聞こえたんだけど、何か言った?」


「い、言ってないです! 何も!」


 顔を真っ赤にして、ウィステリアは両手をぶんぶんと振った。

 ウィステリアの反応が可愛い過ぎるので、つい誂いたくなる。


「本当に?」


「……聞こえてたんですね、リオン様」


「ごめんごめん。そのつもりはなかったんだけど、聞こえちゃった。聞こえた言葉の答えを言うと、リアの言葉が俺は嬉しいな」


「ひぇっ」


 言いながらウィステリアを抱き締めると、小さく悲鳴を上げた。

 ウィステリアからいつも香る花の香りに、幸せな気持ちになる。


「……今日は何も、起きないといいですね、リオン様」


「リア、それ、フラグになってない?」


「そう思ったら、負けだと思います。思わなかったら、何も起きない……はずです!」


「……せめて、言い切って欲しかったな……」









 フィエスタ魔法学園に着き、二年生のスピネルクラスの教室に向かう。

 授業中は何も起きることはなく、フラグを回避したと俺は思っていた。

 現実はそんなに優しくはなかった。

 放課後、魔法学園の王族専用の個室に入ると、机にどっさりと書類が積まれていた。

 呆然とウィステリアと見つめていると、ハイドレンジアが申し訳なさそうに説明してくれた。


「我が君、申し訳ございません。ヘリオトロープ公爵より、陛下から我が君に処理して欲しいとのことで預かりました」


「……ついに丸投げか、陛下は」


 思わず、恨み言を呟きそうになり、抑えた結果、この言葉が出た。

 書類を見ると、裏で不穏な動きを見せる貴族達の名前が書いてあるリストだ。

 つまり、召喚獣や眷属神を使って、探れということだろう。俺も召喚獣や眷属神は情報屋じゃないと言いたい。


「……ウィスティ。帰りは難しそうだから、レンとミモザと帰ってもらうことになるんだけど、いい?」


「はい。大丈夫です。ヴァル様も早くお帰り下さいね。無理はなさらないで下さい」


 優しく微笑んで、ウィステリアは頷いた。


「うん。気を付けて。レン、ミモザ。ウィスティを頼んだよ」


「お任せ下さい、我が君」


「ウィステリア様はしっかりお守り致します!」


 そう言って、ハイドレンジアとミモザはウィステリアを王都のヘリオトロープ公爵邸へ送りに行った。

 ウィステリア達を見送り、個室でどっさりと積まれた書類の中身を確認する。

 確認していくと、どうやら過去から今まで、第二王子とヘリオトロープ公爵令嬢の婚約解消を狙った貴族達のリストだった。

 大体はヘリオトロープ公爵が潰し、残りは国王と王太子が潰していた。

 十二年も婚約しているので、暗躍する貴族が多いことこの上ない。

 その貴族達を潰しているのだが、代替わりした貴族達もおり、先代と同じように考えている者もいるようだ。

 代替わりした貴族の子供達がちょうど俺と同年代か、その下なので、ちょうど良いと思っているのがリストの貴族達の家名で見て取れる。


「父がこの書類を俺に回してきたのは分かったけど、これ、どうしろと? 潰していいの? 知らせただけ?」


 意図が読めない。だから、悩む。潰すのなら、他の叩けば埃が出るところを探すし、知らせただけなら警戒はする。同年代なら魔法学園にいるから確認は出来る。


『とりあえず、動きを把握しておけばいいのではないか? 動けば、リオンが潰せばいい』


「そういうことなのかなぁ……。というか、何で第二王子の婚約を解消させたがるかなぁ。俺、王位継承権を破棄する予定なのに」


『それを知らぬからだろうし、王位継承権を破棄しても、王族なのは変わらないからな』


「うぅ……王族の何が良いのか俺には分からない……。責任は多いし、毒薬、媚薬、誘拐、暗殺が日常茶飯事だし」


 書類をとりあえず、空間収納魔法で収納しておく。流石に、王城でも魔法学園でも、鍵付きの机の引き出しに置く訳にはいかない。

 紅が慰めるように俺の頭を羽根で撫でる。ふわふわだ。


『貴族も平民も、王族の上辺しか見ていないからな。王族でも分からない者もいる。リオンは頑張っているぞ』


「ありがとう、紅」


 書類を収納し終えた俺はふと、窓の外を見る。

 いつの間にか、夜になっていた。


「……もう夜か。気が付かなかった」


『そろそろ帰ろう。ハイドレンジアとミモザが心配するぞ』


「そうだね」


 王族専用の個室を出て、王族専用の門へと向かう。そこにタンジェリン学園長が用意してくれた馬車がある。書類仕事をしないといけない時や急ぎで王城へ帰らないといけない時等で、使えるようにと用意してくれた。

 伯母になるはずだった学園長の好意が有り難い。

 馬車が停まっている場所へ向かっていると、魔力感知が反応した。

 魔力感知が変な反応を示している。

 聖属性の白色の魔力を何か濃い黒いものが囲い、桃色のものがちらついている。それが俺の背後に近付いている。


『リオン。気付いているか?』


『うん、まぁね。ただ、これ、チェルシー・ダフニーだと思うけど、何か変だ』


 念話で紅と話しながら、背後を警戒する。

 相手に気付かれるのは悪手だと考え、気付かない振りをする。


『そうだな。我も警戒しておく。油断するなよ』


 紅から忠告を受け、頷くと背後から声が聞こえた。


「初めまして、ヴァーミリオン。やっと会えたわ」


 鈴を転がすような声音が、背後から俺に声を掛ける。

 それは閉ざされた世界でも何度も聞かされた声で、鈴を転がすと表現したが、綺麗ではなく、歪な鈴を転がす声音にしか俺には聞こえなくて、不快でしかない。

 不快な表情を見せる訳にはいかないので、無表情で振り返る。

 振り返ると、チェルシー・ダフニーではなく、チェルシー・ダフニーの姿をしたモノだった。

 顔はチェルシー・ダフニーだが、髪が白磁色、毛先はピンク色の髪で、右目が茶色、左目が暗黒色だった。

 俺の知っている元女神ではなかったので、内心、困惑する。

 チェルシー・ダフニーの身体を一時的に乗っ取ったのだと、容易に分かった。


「誰だ? 私に何の用だ?」


 誰なのかも、何の用かも分かっているが、知らない振りをする。


「わたくし? わたくしはミスト。女神のミストよ。ヴァーミリオン」


 近付きながら、ミストが頬を染めて俺に言う。

 女神って、お前、魔に堕ちたんだから元女神だろ、と喉のところまで出そうになったのを何とか止める。しかも、惑いを司る元女神のくせに、何を司るとは言わずに名乗るあたり、この世界を創った女神で、俺の半身のハーヴェストと勘違いさせるつもりなのがよく分かった。


「用はね、わたくし、貴方に触れたいの。貴方に触って欲しいの。貴方の身体が欲しいの。貴方の綺麗な魂が欲しいの。だから、わたくしのモノになって?」


 言葉にチェルシー・ダフニーの魅了魔法の魔力を込めながら、元女神が俺に一歩、二歩と俺に近付く。が、俺とあと十歩の距離でぴたりと元女神が足を止める。

 もう、女神ではないから、魔に堕ちた白きものだから、惑いの権能は使えない。だからなのか、元女神はチェルシー・ダフニーの魅了魔法を使っている。

 今のところ、俺にも紅にも魅了魔法の影響はない。


「――何故、私がお前のモノにならないといけない?」


「何故? だって、わたくしは女神だもの。人間はわたくし達、神のモノよ? その中でも一番綺麗な魂を持つヴァーミリオンをわたくしが所有して、何がいけないの?」


 不思議そうに首を傾げながら、元女神は言う。

 こいつは何を言ってるんだ。

 一応、神と人間のどちらの面を持ってる俺としては、目の前の元女神の言葉が不可解でしかない。

 俺もハーヴェストも、ディジェムも、ロータスも、人間は神のものと思ったことがない。

 稀に気に入った人間に精霊と同じように、加護を与えることがあるが、それだけだ。基本、見守るのみで関与しない。だから、私利私欲で神が人間の魂を所有したり、自分の眷属等にすると、大体が魔に堕ちたり、神としての全てを失い、人間に堕とされる。

 ちなみに俺とディジェムは、ウィステリアとオフェリアが俺達を祀る神殿の巫女……という生まれになるはずだったので、魔にも人間にも堕ちることはなかった。ある意味、二人揃ってすり抜けをやらかしてると思うけど。今は俺もディジェムも人間なので、関係ありませんが!


「……本当に女神なのか? 私には女神のような魔力を感じられないのだが」


 敢えて、挑発してみると、元女神は図星のような顔をしたが、すぐ余裕の笑みを浮かべる。


「そんなことはないわ。わたくしは女神よ。だから、貴方の綺麗な魂が見えるもの。人間は見えないわ」


 うっとりとした表情を浮かべ、元女神は俺に一歩近付いた。俺の右肩に乗る紅が、臨戦態勢を取る。


「ああ、貴方の魂もだけど、顔も美しいわ。ねぇ、ヴァーミリオン。わたくしのモノになって?」


 一歩、二歩と近付き、残り五歩のところで元女神はまた止まった。

 そこから、もう一度、俺のところに進もうとして、動きが止まる。

 ぶるぶると元女神が、何かに気付いて震え出す。


「……また貴女が邪魔をするの? 妹の分際で、姉の邪魔をするの?! ハーヴィ!!」


 虚空を見つめて、元女神が吠える。


『その呼び名、やめてくれる? 不快でしかないわ。それと、わたしは姉と思ったことはないのだけれど、勝手に妹扱いするのをやめて欲しいわね』


 俺の前にハーヴェストが現れ、守るように立つ。

 そして、ハーヴェストもいつも元女神のことを馬鹿姉と言っていたが、神の俺と同じで、姉と思っていなかったことを知る。


「……いつも、そう。貴女はわたくしの邪魔ばかりしてっ! ヴァーミリオンはわたくしのよ! そこを退きなさいっ!」


『本当に、ミストって馬鹿なのね。何度も言うけれど、人間は神のものではないの。そんなことばかり言って、ヴァーミリオンを手に入れようとするから、神としての全てを失い、魔に堕ちたのでしょう? それと忠告しておくけれど、魔に堕ちた状態で、ヴァーミリオンに触れたら、浄化されて消滅するわよ?』


 元女神が吠えるのを、ハーヴェストが冷静に反論している。

 そこで、とんでもないことを知る。

 俺に触れると浄化されて消滅って何? 初耳なんですが。怒りで神の属性の滅が漏れるとか?

 閉ざされた世界では俺の魂に、元女神に似せて作られた人形は触れてたけど。


「な、何を言っているの? そんな力、人間のヴァーミリオンにはないわ。わたくしは女神よ。ヴァーミリオンの魂はわたくしのものよ」


『……本当に、ミストと話すと話が通じなくて頭が痛くなるわ。何度も言うけれど、ミストはもう女神でも何でもない。ただの、魔に堕ちた元女神よ。もう女神の力もないのに、無い物ねだりするのやめなさい』


「いいえ、わたくしは女神よ! わたくしは未来を視ることが出来る偉大な女神、マルーンに愛されてる娘よ!」


 偉大? 何を言ってるんだ、と言いたげな顔を俺はハーヴェストの後ろでする。きっと、ハーヴェストも同じような顔をしていると思う。


『偉大ねぇ……。たった一つだけの未来しか視えない女神が、偉大? 意味が分からないわ。愛されてる? それならどうして、魔に堕ちる前に助けてもらえなかったの? たった一つだけ未来が視えるのに』


 答えは簡単。そのたった一つだけ視えた未来では、元女神が魔に堕ちてなかったからだ。

 神の俺が閉ざされた世界で、何度も過去視の権能で視ていた。その時にそのことを知った。


『たった一つの未来しか視えないだけで偉大なら、全ての未来が視える権能を持つ神がいたら、その神は偉大の更に上? 未来が視えるだけの女神が偉大だなんて、他の神達に対する冒涜ね』


 未来視の権能を持つのは誰とは言わず、ハーヴェストが尚も挑発するように更に畳み掛ける。少し自慢気だ。


「うるさいわっ! お母様を侮辱しないで! お母様に愛されなかったくせに!」


 元女神のその言葉に、ハーヴェストより先に俺が反応してしまった。

 神の属性の滅が魔力に乗って、元女神へと向かった。


「ひぃっ?!」


 元女神が驚いて、小さく悲鳴を漏らす。


『待て、リオン! 落ち着け! 今、出すべきではない!』


 紅が慌てて、羽根で俺の頬に触れる。

 相棒の言葉で、我に返って魔力を消す。


『……ミスト。忠告しておくわ。消されたくなければ、今日は立ち去りなさい。今日は見逃してあげるわ。次、ヴァーミリオンに近付いたら、ただでは置かないわ』


 あたかもハーヴェストが神の属性の滅の魔力を出したように見せ、告げる。


「……ヴァーミリオン、今度こそ貴方を手に入れるから! 待っていてね!」


 元女神は怯えるように一歩、二歩と下がりつつも、恍惚とした表情で俺に言い放ち、ハーヴェストに何か言われる前に逃げた。

 元女神の気配がないことを確認してから、どちらともなく、溜め息が漏れた。


『リオン、大丈夫?』


「俺は大丈夫。ヴェルこそ、大丈夫か?」


『うん。リオンが怒ってくれたから。ありがとう』


 ハーヴェストが嬉しそうに微笑んで、抱き着いてきた。


「こちらこそ、来てくれてありがとう。それと庇ってくれてありがとう」


 抱き着いてきたハーヴェストを抱き締め返し、頭をぽんぽんと触れる。


「実はどうしようかと悩んでいたんだ。今、ここで捕らえた方がいいんじゃないのかって」


『まだ、ちょっとやめた方がいいと思うわ。今は変に混ざってるから、チェルシー・ダフニーとミストを上手く剥がせない』


「そうなのか。流石に神の目と耳が使えないから、そういうのが見えない」


『今は見えなくていいと思うわ。後々は見えた方がいいと思うけど』


「それは断罪の時?」


『そうね。あそこで見えないと、リアが危ないもの』


 抱き着いていた俺から離れ、ハーヴェストはぎゅっと手を握る。


「……分かった。使えるようにしておく」


 ハーヴェストの言葉に頷くと、彼女は小さく微笑んだ。


『……リオンは、あの母に愛されたかった?』


「全然。むしろ、何で? あんなのに愛されたら、漏れなく元女神のようになるのに? 俺には大切な半身がいるし、最愛がいる。人間の家族や友人達もいる。神の母はいらない。ヴェルは愛されたかった?」


『ないわねー。諸悪の根源でしかないのに、愛されたかったと思う訳がないわ。言われて腹が立ったけど。だから、リオンが滅の魔力を出してくれた時は嬉しかったわ。沸点、同じだね』


「双子だしね。ところで、元女神が俺に触れると浄化されて消滅って何で?」


『ああ、リオンの滅の魔力って、他の神と違って、浄化が入っているの。多分、守護と再生の権能のせいだと思うんだけど。だから、魔に堕ちたものが触れると浄化されて消滅するの』


「……しまったな。それなら、さっき触れさせたら良かったな。嫌悪感しかなかったから、近付かなかったけど」


 ハーヴェストの言葉に納得した俺は呟いた。


『いや、やめた方がいいわよ。場合によっては浄化のされ方がグロテスクよ』


「それは嫌だな」


 思わず想像してしまい、顔を顰めた。


『でしょ? だから、今回はあの方法で良かったのよ』


「そうだね。教えてくれてありがとう」


 そう言うと、ハーヴェストはまた微笑んだ。

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