〈48〉ラブコメはまだ始まらない

 先日父から譲り受け運び込んだまま放置していた遮光カーテンを悪戦苦闘の末取り付けることに成功し、室内灯のスイッチを入れ、明るくなった部屋で雨傘を待っていた。


 僕は今、緊張している。雨傘に会いたい気持ちはあるが顔を突き合わせた時、何を思い、どうなってしまうのだろう。


 奴は僕の懊悩など露知らず、普段通りに可愛らしい憎まれ口を叩くのだろう。願わくば僕も同じようにありたいところだが、僕が持て余している感情は流動的な性質を備えている為、可能性を列挙するにも限界があった。ほんの些細な意想外一つで全てが烏有に帰すかもしれないのだ。


 いくら考えても分からない。けれども考えなければ、分からない。


 僕は雨傘を好きなのか、好きになりそうなのか。


 文化祭の余熱に浮かされているのだろう、と自分を納得させては堂々巡りに突入し同じ思考を繰り返す。果てしなく感じられる待ち時間の中、椅子に座ったり立ち上がったり、地面が平らであることを確認しながら動き回った。


 そろそろ着く頃かと椅子に腰を下ろして入り口をじっと眺めていると、正反対にある窓が開く音がした。


 僕はようやく自分がドアホだと気付いた。そうだ、この時間だと部室へ入るには窓を使うしかない。僕だってそうやって侵入したというのにすっかり忘れていた。窓から入って来る雨傘を待つなんて経験はこれまで一度もなかったからだ。


 出だしから普段と異なる展開で、想定を大きく外れていく。やはり出たとこ勝負でいくしかない。


 ついに訪れる雨傘との対面を僕は固唾を呑んで待ち構える。しかしその決意を透かすようにカーテンの向こう側に動きはない。怪奇現象かと思われたが、たっぷり三十秒ほど経過するとカーテンが膨らみ裾から足が生えてきて、それから暖簾をくぐるようにして雨傘が姿を見せた。


 心臓が跳ね上がる。キノコを観察した際に生じるものとは種の異なる可愛さがあった。


「迎えに来るのが普通じゃないですか」


 開口一番目つき悪く語気荒く、不機嫌そうに雨傘は言った。さっきの電話が不味かったのか、すぐに目を逸らされる。


 雨傘に阿るつもりは毛頭ないのだが上手く言葉を繋げない。しかし僕が雨傘を異性として認識しているなどと知られるわけにはいかない。


 僕はカラカラになった舌を動かして言った。


「悪かった。さっき電話で言ったことは冗談だ」

「そうですか」


 雨傘は素っ気ない返事をして机の前まで移動すると、その上に僕の鞄を置き、紙袋を抱きしめながら椅子に座った。所在無げに視線をうろつかせている。紙袋に大切な物が入っているのは明白で、聞く以外の選択肢はなかった。


「その紙袋はなんだ?」

「さ、触ったら噛み切りますよ! 肘から先を!」

「何が入ってるんだ? 大金や死体が入ってるみたいなリアクションだ」

「はい~~? 漫画の読みすぎですよーオタクくん」


 なんだこいつ。明らかに挙動不審である。


「見せろ」


 ほんの冗談で手を伸ばすと、雨傘は前のめりで噛みついてきやがった。マジで危なかった。


 紙袋が潰れそうなくらい強く抱きしめながら「しゃー!」と威嚇してくる。


 雨傘の奇行のおかげで僕は平静を取り戻すことができた。まだいくらか浮ついている気もするが、先程までと違い冷静な判断を下せることだろう。地に足がついている。僕は一度目を閉じ、大きく息を吸って、吐き出しながら目を開き雨傘を見た。


 モノスゴク可愛かった。


「なんてことだ……」

「なんですか急に」

「こっちのセリフだ」

「はぁ?」


 これまでにも雨傘を可愛らしく感じることはあったが、それは懐いてきた野良猫に向けるような庇護欲混じりの――言ってしまえば上から目線で傲慢を捏ね上げた心証だったと、今になってに思う。雨傘の性格が悪いなんてよく言えたものだ。


「悪かった」僕は言った。


 正直、ここまで急激に印象が変わることに違和が無いわけではない。気付かなかっただけで……僕は雨傘に一目惚れしていたのではないだろうか。それを自分に納得を以って落とし込む為、知っている感情と置き換えていたのではないか。


 しからばこの不可逆も頷ける。もう雨傘を小動物のように、妹のようには見られない。


 怪訝そうに目を細めた雨傘が僕を見ている。僕は目を逸らしながら言う。


「こんな時間まで何してたんだ?」

「……ちょっとしたお散歩です。それを言うなら先輩こそ何してたんですか」

「奇遇だな、僕もだ」


 問うに落ちず語るに落ちるという教訓がある。本来であれば文化祭の話を自慢混じりに披露してやりたいが、下手に興味を持たれることは避けたい。同様の理由で恋寺さんについても聞かないでおく。


「僕は今日カラオケに行ったぞ」


 雨傘と部室に居て雑談をしないのも変だから、とりあえずで話題を置いた。


 すると雨傘はしたり顔をした。


「ふふん。私だって咲沙さんと町田さんと梶来さんとはお知り合いです。咲沙さんなんて私と仲良くしたいって言ってましたよ」

「なんだと? 一体いつの間にそんなことを! お前、陽キャは嫌いだとか言ってなかったか!」

「言ってません! 妬みは見苦しいですよ!」


 僕の荷物を持っていたことから梶来くん達との接触は予想できたが、しかしそこまで距離を詰めているという話は信じがたい。雨傘の器量で可能なものなのか。


 考えるまでもなかった。梶来くん達は心が豊かで広大なのだ。真の陽キャとは底抜けの善性を持っている為、いかに雨傘が捻くれていようとも容易く呑み込んでしまうのである。


「僕は彼らの良い所を百個は言えるぞ」

「なんですかその張り合い方。私は磨き抜いた一つで勝負します」


 お前の良い所は百万個言える、と冗談を飛ばそうかと思ったがやめておいた。


「な、なにをー! 言ってるんですか!」


 言ってた。雨傘が顔を赤くして手をばたつかせている。


 ひとしきり暴れてから動きを止め、目を伏せた雨傘が言う。


「……私に何か言いたいことでもあるんですか。聞いてあげますよ」


 しおらしい中にも強かさを混ぜ込む姿は安心感がある。


 間を空けずに僕は答えた。


「ギャルと付き合うのは止めた。僕では釣り合いそうにない」

「やっと気づきましたか。最初からそう言ってるでしょう…………うわ、ムカついてきました」

「どうして」

「うるさいです」


 口喧嘩をしている内に、段々といつもの調子が戻ってくる感覚があった。やはり雨傘との関係はこうでなくては。


 僕は頷きながら、喉奥でつっかえている疑問を口にするかどうかを考えた。余計なことを言うべきではないが、どうしても気になる。


「そういえば雨傘。お前……恋したことはあるか?」

「え゛っ!」


 試しにそう尋ねてみると、雨傘は面白いくらい目を見開いて狼狽え始めた。なんだこの反応。


「あるわけないじゃないですか」

「そうか……そうだよな」


 僕も雨傘も、恋を知るほど人間関係を持っていない。特に雨傘は中身が幼いため、卵焼きの好きと異性への好きを混同してもおかしくない。それは僕も同じだ。


 だから僕が持て余している感情は、きっと恋ではないのだろう。苦しいか。


「先輩は……」


 僕は身構えた。およそ初めて目撃する完璧にしおらしい雨傘に驚いたからだ。それに加えて、唾棄すべき行為だと豪語していたはずの上目遣いを向けてくる。


「先輩は、あるんですか」


 ある、と答えそうになった。


 お前がそれをやるのかよ。砂粒程も予想できなかった。ぐうの音も出ない完敗だ。


 もうダメだ、認めるしかない。いまこの瞬間を以って確信に変わった。


 あざとい仕草で陥落するとは我ながら情けない。情けなくて呆れ果てる。


 本当にこいつは、僕の気も知らないで。


「ないな、まだ」


 表情筋に力を込め無表情に努めながら、素っ気なく答えることでかろうじて体裁を保つ僕。雨傘は「ですよね」と意地の悪い顔をした。


 僕達の間に似つかわしくない沈黙が落ちてきて場に居座らんとする。


 僕は「帰るか」と言った。雨傘も「そうしましょう」と頷いた。


 出入口までのたった数メートル、視線の置き所が定まらずあちこちを見ながら進んでいる内に窓を使うのだったと気付き、進路を百八十度変えようとして、ふと見慣れない塊が目に入った。扉へ向かって右側、部屋の端に黒い布が掛けられた何かがある。やけに大きくただならぬ存在感を放っているが、僕の記憶にこんな物は無い。


 僕はそれを指さして言った。


「雨傘、あれはなんだ?」

「え? いや……知らないです。なんですかあれ」


 顔を見合わせて首を傾げると、雨傘が「確認してください。危険物かもしれません」と年上への敬意を失った発言をする。


 仕方なく頷いて、及び腰ながらゆっくり近付き布を掴む。肩越しに後ろを見遣ると雨傘がかなり距離を取っていた。


 いつでも逃げられるように心の準備を整えて布を引く。大量の埃が舞い上がりあわや大惨事かと思われたが、中から出てきた物を見てそんな心配は意識から消え失せた。


 僕はしばらくそれを見ていた。隣に来た雨傘も同じようにしていた。


「雨傘」

「なんですか」


 僕は言う。万感の思いを込めて。


「文化祭、楽しみだな」


 横を見ると雨傘もこちらを向いていて。


「……はい」


 優しい声と柔らかな表情で、百万点の可愛さで――微笑んだ。


 多分こいつが世界で一番あざとい。完全にノックアウトである。だが、こんなことは口が裂けても、胸が張り裂けても言えはしない。


 だから悔しまぎれを口にしたのだが、間違いに気付いたのは言い終えてからだった。


「一緒に回ろう。お前の隣は僕が丁度良い」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る