〈43〉また会う日まで
目を開けるまでもなく、僕は自分が水に浮かんでいるのだと悟った。恐らく池である。このねっとりとした生臭い香りに覚えがあるのと、身体をつついてくる鯉らしき生物がいる。
起き上がりずぶ濡れの身体を引きずって陸へ上がると、オレンジに光る点が見えた。恐る恐る歩み寄ってみると、それがタバコの火なのだと分かった。
「おかえりお兄さん。楽しんでたね」
「恋寺さん……今までどこに」
ベンチに座ってタバコを吸う恋寺さん。その隣に並ぶ。予想通り、僕がたゆたっていたのは教員用駐車場の近くにある池だった。
「私はずっといたよ。そしてずっと見ていた。というか参加していた。祭というのは観賞するものではないからね」
「全くその通りですね」
「やめてくれ、敬語は」
指を咥えて見ているよりも思い切って参加してみた方が得る物は多い。いくら必死になって頭の中に未来を積み重ねてみても、残念ながら現実には到底及ばないのだ。
そう結論付けたいところだが、しかしまだまだ経験不足も否めない。今回はたまたま上手くいっただけで、次は苦々しいだけの結果に終わるかもしれないのだ。考えるだけ無駄――と切り捨てることも愚かだが、考え過ぎるのも愚かしい。
「難しい顔をしてるね。よく見えないけど」
「さじ加減が難しいな、と思って」
「ふむ」と恋寺さんは相槌を打って腰を上げ、僕の正面に立った。
「お兄さんが何を考えているのか私には分からないけど、どうだった?」
「どうだった?」
「楽しかったかな」
その問いに僕は即答した。
「楽しかった」
「それでいいよ、今は。いずれ嫌でも白と黒に分かれていく。積み重ねなさい。考え過ぎて落ち込んで、何も考えず笑うんだ」
分からないなどと言っておきながら、まるで僕の心を見透かしているかのようだ。見透かせる程度でしかない、ということかもしれない。やはり僕にはまだまだ足りない物が多いのだろう。
「あんまり偏ると私のようになるから気を付けて」
「それは魅力的だ」
「折角の恋人に逃げられるよ」
「……雨傘には黙っていてください」
僕は頭を深く下げた。恋寺さんは「どうしようかな」なんてとぼけたことを言う。きっと悪意っぽく笑っているのだろう。
あれを知られたら、どれだけいじくりまわされるか想像するだけでも悍ましい。「えー先輩私のこと好きだったんですか! ウケる! 私ギャルじゃないですよ?」とか言うに決まっているのだあの小娘は。
それはそれで悪くないかもしれない、と少しドキドキした。
さておき、僕は話を切り替える為に最大に疑問を恋寺さんへ投げた。
「結局あれは何だったんだ。夢……と言われても納得できそうにない」
「どうだろうね」
「真面目に答えてくれ」
「世界は変わるよ。ほんのちょびっとだけどね」
恋寺さんはいつになく語気を強めて言った。
「青春っていう子供の身勝手にはそれくらいの力がある」
「じゃああれは現実で、梶来くんのお姉さんや実行委員長は、僕を覚えているのか」
「言ったろう。ほんのちょびっとだってね。そういう人物がいた、くらいの認識だよ。大きなズレは生じない。多分」
それは、やるせない話だった。僕は二人を覚えているのに、向こうは僕を覚えていないのか。であれば結局、残った物は僕の持つ思い出だけだ。それでも十分すぎるくらいだが、うら寂しさは拭えない。
大きく息を吸って煙を取り込んだ恋寺さんが、長い息を吐き終えてから言う。
「そろそろ帰るよ。そうだ、お兄さんの恋人は無事だから安心して家に帰るといい。着替えはある?」
「別にこのままでも構わない。暑いしすぐに乾くだろうから。それより雨傘は本当に」
「私は着替えることをオススメするよ。部室に着替えを置いてるんだろう?」
「そうだけど……なぜそれを」
相も変わらず僕の問いには答えず、恋寺さんは携帯灰皿に吸殻を押し込んだ。
「攫われたって言うのは嘘だよ。適当に喋っただけで嘘吐くつもりは無かったんだけどね。それじゃあ。お兄さんもちゃんと着替えて帰るんだよ」
背を向けたまま手を振る恋寺さんは、もうこちらを見ようとしなかった。
掴み所の無い、自分勝手が甚平を着たような人だ。だが僕はその身勝手さが嫌いではない。
「恋寺さん!」
言いたいことは山ほどあったが、一つだけと言われればすぐに決まる。あの体験への礼を欠くほど僕は不心得ではないつもりだ。
「ありがとうございました。今年の文化祭、是非来てほしい。僕達もあれくらいやってみせる」
僕が大見得を切ると恋寺さんの足が止まり、こちらを振り向いたようだった。
「約束はしない主義なんだ。どうも苦手でね。生きていたらまた会う日も来るよ」
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