〈22〉思い出のそこら中にいるあやつ

 学校の屋上へ足を踏み入れたのは人生で三度目のこととなる。我が日陰者調査団が脈々と受け継いできたらしい伝統に「新入部員は屋上へ連れていけ」というものがある。スクールカーストの頂点を目指すのは荷が勝ちすぎる者が集う吹き溜まりのような同好会であるため、せめて実際的に高い場所へ行こうという情けなさを骨子とした伝統だ。


 桜も盛りを越えて零れ始めたある日、新入生らしからぬ淀んだ目つきをした雨傘と出会った。今でこそ生意気な小娘だが、あの時の雨傘は素直で可愛い小娘だったように思う。そうでもないか。思い出はお化粧上手なのだろう。


 紆余曲折あったものの見事伝統を守り抜き、その代償として教員方から大目玉を喰らう羽目となったのだが、おかげで雨傘という掛け替えのない後輩を得られたのでお釣りがくるくらいだ。


 ここから僕の高校生活が始まり、そして雨傘との関係が始まった。屋上は僕にとって始まりが訪れる特別な場所なのだ。今日もなにかが始まるのだろうかと胸が躍った。


 外周を囲うパラペットの上に立った恋寺さんがタバコを咥える。夜闇に映える堂々とした佇まいは彼女の飄々とした性格とチグハグで、僕にはそれがえらく魅力的に見えた。


「火、持ってる?」

「持ってない。それに学校は禁煙だ」

「こっちにおいで」


 優しく崩れた微笑みに引かれ僕もパラペットに登る。三階分の教室の、その上。目下には校庭が広がり、視線を上げていくと煌びやかに着飾る街並みを一望できた。


 タバコを握り潰す恋寺さんを横目に見ながら、僕は言う。


「恋寺さんは何がしたいんだ」

「まだ何もしてないよ。これからお兄さんを連れて行く」

「どこに?」


 恋寺さんは答えなかった。それどころか露骨に話題を変える。


「叫んだら気持ち良いだろうね。やってみる?」


 確かにここから叫ぶのは気持ちが良さそうだ。夕陽に向かって、海に向かって、あるいは誰かに向けて叫ぶという古典的な青春を、創作物の中で見たことがある。決行には相当な度胸を必要とするが、だからこそ価値があるのだろう。


「お兄さんは叫びたいことある?」

「そうだな……いや、すぐには思いつかない。恋寺さんはあるのか?」

「あるよ。三年前くらいから」


 そう言って僕に見せた微笑みは、僕を試しているような、からかっているような、複雑なものだった。


「三年前になにかあったのか?」

「何も無かった。適当に言ったからね」


 恋寺さんの左手が僕の頭を撫でる。やや乱暴な手つきだった。


「自分勝手にやりなさい。後始末は大人の仕事だ」

「……どういうことですか?」


 返事の代わりだとでもいうように、恋寺さんはまたしても僕を抱え上げる。学校まで走り通しであったにも関わらず、恋寺さんからは夏を感じさせない甘い香りがした。お花の妖精に違いない、と思った。


 恋寺さんのセカンドバッグ(名前しか知らない)と化した僕は、ひとまず事態を静観する。


「プールに入ろう。少し遠いけど跳べる距離だ。夏は暑いからね」


 言うが早いか恋寺さんはパラペットの上を滑るように走り出す。一歩間違えれば地上へ真っ逆さまだというのに、速度を緩めるどころか更に加速していく。


 手遅れとなった状況でようやく僕は危機感を抱いた。しかし暴れるわけにもいかず、繁華街の建物間とは比べ物にならない隔たりが近付いてくる恐怖を存分に味わいながら、叫んだ。


「待て待て待て! うちのプールは底が浅い!」

「それこそ浅はかな考えだよお兄さん」

「なにを! 言っている! やめてくれ今すぐに!」


 僕の制止も構わず、恋寺さんは直線の終わりである直角の部分、そのギリギリで右足を踏み込んで――跳んだ。


 生ぬるい夜風を掻き分けながら終着までの円弧を描く。慣れない浮遊感から生じた違和が下腹部に纏わりつき、やがて全身へと駆け巡る。空を飛んでみたいと考えたことはあったが、安全の保障が無ければただただ怖いだけであった。これは飛ぶというより、跳んで落ちているだけなのだが。


 これは……死ぬか?


 走馬灯を見た。数々の思い出が我先にと挙手をして存在を主張してくる。


 雨傘と部室で遊んだこと。口喧嘩したこと。放課後に買い食いをしたこと。遠出して遭難しそうになったこと。


 授業を抜け出してピクニックをしたこと。部室の片づけをしている内に収拾がつかなくなって休日を潰したこと。つまらないことでムキになって三日も口を利かなかったこと。何もしなかった日のこと。夕焼けと宵の境目を歩いたこと。本当の意味で丸一日、遊びまわった休日のこと。


 豪雨の下を傘も差さずに走ったこと。そして二人して豪快にすっ転び泥まみれになったこと。


 桜の花びらが散っていく物悲しさの中、雨傘と、出会ったこと。


 どれこれこもが笑い話。まだまだ押し寄せてくるがとても時間が足りはしない。


 というか僕の思い出、雨傘が多すぎないか? 手近な物を掴み取る度にあの小娘がいる。その中には酸いも甘いも同居していて。


 もしかすると、僕はとっくに――。


 思考の完結を目前に、恋寺さんが器用に体勢を変えて僕を抱きしめるようにした。綺麗な顔が眼前に現れたことで思考の一切が放棄される。更には胸に胸の感触。ストレートな幸せである。


 何故このような展開が訪れたのか、答え合わせは早かった。どうやら頭から着水するつもりらしい。凪いだ水面を目前にした時、恋寺さんが僕の頭を自身の胸に押し付ける。欲望のまま一呼吸を試みたのと飛沫の音が鳴るのは同時だった。

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